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第二十三話


 あの血の匂いがした雨の夜からいくつか日が過ぎた。


 山南さんが屯所からいなくなって、彼の部屋はがらんどうのまま冷たい風の通り道になっている。屯所の空気は鉛みたいに重くよどんで、隊士たちの間からおしゃべりも馬鹿騒ぎもすっかり消えてしまった。みんな、あの非情な結末をどう受け止めたらいいか分からないまま、ただ黙り込んでいるみたいだった。


 そしてその重い空気の真ん中にいるのが沖田さんだった。


 あの日から彼は魂を抜かれた抜け殻のようだった。部屋に閉じこもって一日中布団に横になっているだけで、ごはんもほとんど喉を通らないらしい。誰かが声をかけても力なく曖昧に笑うけど、その目はもう何も映していなかった。


 私が冷え切った布団に潜り込んでも、彼は私の頭を撫でようとしない。ただそこに温かいだけの小さな生き物がいる、とだけ思っているみたいだった。


「総司、飯くらい食わねえと身体がもたねえぞ!」

 原田さんが握り飯を持ってきても沖田さんは「…ありがとうございます」とか細い声で断るだけ。


「おい、総司! こんな所で腐ってて、山南さんが喜ぶと思ってんのか!」

 永倉さんがわざと乱暴にそう言っても、彼は悲しそうに目を伏せてしまう。


 一番つらそうなのは土方さんかもしれない。彼は沖田さんの部屋に決して近づかないくせに、遠くからその部屋の方を何度も、どうしようもなく心配そうな顔で見ていた。あの命令を下した彼の苦しみが、その背中から痛いほど伝わってくる。


 季節だけが構わずに秋を深めていく。庭の椿は夏の花をみんな落として、固い葉っぱが風に揺れているだけ。今の沖田さんの心みたいだと、奈々の魂が思った。


 そんな時、屯所に新しい風が舞い込んだ。伊東甲子太郎という、学のある新しい参謀が来たのだ。彼は人好きのする笑みを浮かべてよく喋る男で、隊士たちの多くは頼もしそうに彼を見ていた。


 でも奈々の魂は、その男に山南さんとは違う種類の冷たい光を感じていた。そして土方さんが、蛇でも見るような油断ならない目でじっと伊東さんを見ているのを、私の目は見逃さなかった。この場所にまた新しい亀裂が生まれる。そんな予感が胸をざわつかせた。


 その夜のことだった。


 月明かりが部屋を青白く照らす中、私は沖田さんの布団の足元で丸くなっていた。すると彼がゆっくりと身を起こし、まるで夢の中を歩くみたいにおぼつかない足取りで、壁に立てかけてあった木刀を手に取った。


 久しぶりに彼が剣を握った。私は息をのんで見守る。


 彼は部屋の中央に進むと、月明かりの下でゆっくり木刀を構えた。

 けれど彼は振らない。振れないのだ。


 木刀を握るその手がカタカタと小刻みに震えているのが見えた。友を斬ったその手。兄みたいに好きだった人の命を奪ったその手。その手で、もう人を斬るための剣を振るうことなんてできなかった。


「…う…あ…」

 彼の喉から獣みたいな呻き声が漏れる。彼はたまらずその場に崩れ落ち、手から滑った木刀がからんと虚しい音を立てて転がった。


「こほっ…けほ、けほっ…!」

 心が限界だと叫ぶのと一緒に、彼の身体も悲鳴を上げた。冬の間は静かだったあの乾いた咳が、また彼の身体を内側から壊し始める。前みたいに力強い咳じゃない。残り少ない命をじわじわと削るような、弱々しくて終わりのない咳だった。


 私はたまらず駆け寄って、震える彼の背中に小さな身体を力いっぱい押し付けた。大丈夫、あなたは一人じゃないよと、私の喉がごろごろと必死に彼に呼びかける。


 咳がようやく収まると、彼はぜいぜいと浅い息をしながらゆっくりと私を振り返った。その瞳にはもう何の光もなくて、ただ深い絶望の闇が広がっているだけ。


 彼は何も言わず、私をひょいと抱き上げると、壊れ物を抱えるように冷え切った胸に強く抱きしめた。その腕の中で、私は彼の弱々しいけど必死な心臓の音だけを聞いていた。


 剣を失くした天才剣士。彼に残されたのは病んだ身体と友殺しの記憶、そしてこの小さな猫の温もりだけ。


 秋の夜風が障子の隙間からひゅうと忍び込み、彼のあまりにも儚い抜け殻みたいな身体を、優しく、そして無慈悲に撫でていった。

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