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第二十二話

 

 土方さんの声は、冬の朝の薄氷のように冷たくそして脆かった。

「追手は…総司、お前が行け」

 その言葉が部屋に響いた瞬間、それまで聞こえていた全ての音が、遠ざかっていくような気がした。


 つい先日まで、久しぶりに竹刀を握り、子供のように笑っていた彼の姿が嘘のようだ。回復を喜んでいた隊士たちの顔が、皆凍りついている。

「最近の、お前なら、務まるだろう。必ず、連れ戻せ」

 土方さんの言葉は、沖田さんの回復を認めるものであり、そして、一番残酷な役目を、一番その役目にふさわしくない男に命じるものだった。


 沖田さんは黙って立ち上がると、無言で自室に戻り、旅支度を始めた。

 私はその後を追ったが、部屋には、近寄りがたいほどの静けさが満ちていた。彼の背中には、これから友を死地に連れ戻す男の悲壮感ではなく、ただ命令を遂行する機械のような無機質さだけが漂っている。

 彼は、私を一瞥だにしない。

 ただ、冷たい指先で、刀を腰に差し、雨合羽を羽織ると、部屋から出ていった。

 私は慌てて門まで走った。雨に濡れるのも構わず、彼を見送る。彼は、馬上の人となっても、決して、こちらを振り返らなかった。

 その背中が、冷たい雨に吸い込まれて、見えなくなるまで、私は、ただ、そこに立ち尽くしていた。


 沖田さんが出立してからの屯所は、まるで時間が止まったかのようだった。

 誰もが口を閉ざし、重苦しい空気が、湿った綿のように、皆の身体にまとわりつく。私は、あてもなく屯所を歩いた。山南さんの部屋は、すでに綺麗に片付けられ、そこだけが、ぽっかりと、抜け殻のように白々としていた。彼の残した、微かな墨の匂いだけが、彼がここにいたことを、私に教えていた。



 夕刻、雪が雨に変わる頃、二人の男が屯所の門をくぐった。



 先を歩く沖田さんの顔には表情がなく、その半歩後ろを歩く山南さんの顔は、奇妙なほど穏やかだった。


 二人の間には言葉はなく、ただ、湿った雪と絶望の匂いだけが漂っていた。


 山南さんは、出迎えた近藤さんの前で、深く、深く、頭を下げた。近藤さんの大きな目から、はらはらと涙がこぼれ落ちるのを、私は見た。


 山南さんは、離れの座敷へと、静かに通された。そこで、身を清め最後の時を待つためだ。

 沖田さんは、自室には戻らず、その座敷の前、濡れた縁側に、ただ、座っていた。雨合羽も脱がず、まるで、地蔵のように動かない。

 しばらくして、障子が、すっ、と、静かに開いた。

「……総司君。少しだけ、入ってきては、くれないか」

 山南さんの、声だった。


 沖田さんは、ゆっくりと立ち上がると、吸い込まれるようにその部屋の中へと、入っていった。私も、その、ほんのわずかに開いた、障子の隙間から、中を窺った。


 部屋の中は、がらんとしていた。ただ、中央に、白い布が敷かれ、その上に、山南さんが、静かに正座しているだけだった。

「来てくれて、ありがとう、総司君」

 山南さんは、穏やかにそう言った。

 沖田さんは、何も言えない。ただ、その場に立ち尽くしている。

「私が、間違っていたのかもしれない。いや、土方君の方が、正しかったのだろう。この、新選組を守るためには」

 山南さんは、誰に言うでもなく、ぽつり、ぽつりと、言葉を紡ぐ。

「だが、どうしても、私には、選べなかった。仲間を、見せしめのために、切り捨てる道は。これが、私の選んだ、『誠』の形なのだ」

 そして、彼は、真っ直ぐに、沖田さんを見つめた。

 その瞳は、澄み切っていて、何の迷いもなかった。

「……総司君。だから、最後を、君に、お願い、したい」

 その言葉の意味を、私ですら理解してしまった。

 沖田さんの、肩が、びくり、と、大きく震えた。その顔が、信じられない、というように歪む。

「君の、その、曇りのない、美しい剣で、送って、ほしい。それが、私の、最後の、我儘だ」

 友に、友の首を、刎ねてくれ、と。

 あまりにも、穏やかな声で、あまりにも残酷な願い。

 沖田さんは、その場に、崩れ落ちそうになるのを、必死にこらえていた。彼の、喉の奥から、ひ、という、声にならない悲鳴が漏れた。

 けれど、彼は、首を縦に振ることも、横に振ることもできなかった。

 ただ、その場に、立ち尽くすことしかできなかった。

 それが、答えだった。


 儀式は、その部屋で、静かに執り行われた。

 私は、もう、見てはいられなくて、縁側の柱の陰で、身を固くしていた。

 やがて、山南さんの凛とした声が聞こえ、それが途絶えた後の、息の詰まるような沈黙。

 そして、ただ一度だけ、空気を切り裂く鋭い音が響いた。

 私が何度も聞いた、彼の剣が最も美しい軌道を描く音。

 けれど、その音は、今日だけは、ひどく醜く、そして悲しく聞こえた。

 障子に、べっとりと、赤い染みが広がった。


 障子を開けて出てきた沖田さんの瞳は、何も映さない硝子玉のようだった。友の血をその刃で受け止めたはずの彼は、返り血ひとつ浴びていない。その完璧すぎる剣技が、今は何よりもおぞましかった。

 彼は誰とも視線を合わせず、亡霊のように自分の部屋へと消えていく。私はその冷たい足跡を、ただ黙って追った。

 彼は部屋の中央で座り込むと、もう動かなくなった。

 私はおそるおそる、彼の膝に寄り添う。その身体は、寒さとは違う、内側からの震えで、がたがたと小刻みに揺れていた。

 氷のように冷たい手が伸びてきて、私の背中を、骨が軋むほど強く、掴んだ。

 彼は、泣かなかった。声も上げなかった。

 ただ、暗闇の中で、私を、壊れ物のように、しかし、力強く抱きしめ、震え続けていた。


 その日、彼は、友の願いを、友の命ごと、その手で、葬った。

 友を斬った刃で、彼自身の心もまた、二度と元には戻らないほど、深く、斬り刻まれてしまったのだ。

 もう、あの春の日差しの中で笑っていた彼は、どこにもいない。

 私の腕の中にいるのは、友殺しという重い十字架を一人で背負った、魂の抜け殻だけだった。


 しとしとと降り続く冬の雨音が、彼の、声にならない嗚咽のように、聞こえた。

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