第二十一話
京の底冷えする長い冬が、ようやく、終わりの気配を見せ始めていた。
分厚い雲の切れ間から差す日差しは、心なしか力を増し、固く閉じていた梅の蕾が、そこかしこで、ほころび始めている。まだ風は冷たいけれど、その中に、ほんのりと、土の匂いや、新しい草の芽吹く匂いが混じっているのを、私の鼻は感じ取っていた。
季節の移ろいと共に、沖田さんの体調にも、不思議な変化が訪れていた。
あれほど、夜毎に私を不安にさせた、彼の苦しげな咳が、ぴたりと、止まったのだ。青白いばかりだったその頬には、ほんのりと血の気が戻り、部屋に閉じこもっているよりも、縁側で日向ぼっこをしたり、屯所の中を、私と一緒に散歩したりする時間が増えていった。
「どうだ、トラ。最近の俺は、調子がいいだろう」
彼は、そう言って、悪戯っぽく笑う。その笑顔には、冬の間の、あの、影のあるような弱々しさはない。春の光を浴びて、きらきらと輝いていた。
その変化は、屯所の誰もが、喜ばしく思っていた。
そして、その日。彼は、数ヶ月ぶりに、道場に、足を踏み入れた。
最初は、いつものように、柱に寄りかかって、稽古を眺めているだけだった。けれど、永倉さんと原田さんが、楽しそうに打ち合っているのを見て、うずうずと、身体が動くのを、止められなかったらしい。
「永倉さん、少し、お相手、願えますか」
その声に、道場にいた誰もが、一瞬、動きを止めた。そして、次の瞬間には、わっ、と、喜びの声が上がった。
「おう、総司! やっと、その気になったか!」
永倉さんが、嬉しそうに、竹刀を構える。
沖田さんは、久しぶりに握る竹刀の感触を確かめるように、数度、軽く、素振りをした。その動きには、まだ、全盛期のような、凄みはない。けれど、彼の身体からは、確かに、剣士としての、あの、懐かしい匂いが、立ち上っていた。
二人の竹刀が、小気味良い音を立てて、交差する。
沖田さんの額には、すぐに、玉のような汗が浮かび、息も、少し、上がっている。けれど、その顔は、本当に、心の底から、楽しそうだった。
(……よかった)
私は、道場の隅で、その光景を見ながら、ただ、そう思った。このまま、彼が、元気になってくれれば。また、昔のように、笑って、剣を振るえる日が、来てくれれば。
この、かりそめの春が、永遠に続けばいいと、本気で、願っていた。
けれど、沖田さんの身体に、暖かな春の光が差し込む一方で、この新選組という組織には、ますます、冷たい冬の影が、色濃く、落ちていた。
組織が大きくなり、その力が増すにつれて、「局中法度」という掟は、より一層、厳しく、非情なものとなっていた。
その、象徴となるような、事件が起こった。
一人の若い隊士が、故郷の母の病を理由に、無断で隊を離れた。ただ、それだけのことで、彼は、土方さんから、容赦なく、切腹を、命じられたのだ。
「事情は、汲むべきです! 彼に、死をもって償わせるほどの、罪がありましょうか!」
山南さんが、幹部たちの前で、必死に、そう、訴えたという。その声を、私は、障子一枚を隔てた場所で、聞いていた。
けれど、それに対する、土方さんの声は、一片の氷のようだった。
「理由がどうであれ、脱走は脱走。ここで一人を許せば、隊の規律は、内側から、腐っていく。見せしめは、必要なのだ」
「見せしめ……! 土方君、我らの『誠』とは、仲間を、見せしめのために、殺すことだったのか!」
山南さんの、悲痛な叫び。その叫びは、しかし、誰の心にも、届かなかった。
その日の夕刻、屯所の庭の隅で、その若い隊士は、切腹した。
真っ白な死に装束に、鮮やかな血の色が、滲んでいく。その光景を、私は、縁側の柱の陰から、ただ、震えながら、見ていた。
(嘘だ……なんで……)
これが、私が憧れた新選組の本当の姿だというのか。
山南さんは、その場に、立ち尽くしていた。その顔からは、感情というものが、全て、抜け落ちていた。
沖田さんは、彼の隣に、ただ、寄り添うように、立っていた。せっかく、血の気が戻ったはずのその顔は、再び、青白く、強張っていた。
その夜。
私は、言いようのない不安に駆られ、山南さんの部屋へと向かった。
部屋の中には、明かりが灯っていた。彼は、旅支度を整えていた。ほんの、小さな、風呂敷包みを一つ、作っているだけだった。その動きは、ひどく、静かで、そして、全てを諦めた者の、静けさに満ちていた。
彼は、私の気配に気づくと、振り返り、私の前に、そっと、しゃがみ込んだ。
そして、私の頭を、一度だけ、優しく、撫でた。
「……達者でな、トラ」
その声は、もう、何の感情も含んでいなかった。
彼は、私に、別れを告げているのだ。
(行かないで、山南さん……! 行ったら、もう、帰れない……!)
私は、彼の袴に、必死に、すがりついた。けれど、彼は、そんな私を、そっと、引き剥がすと、音もなく、まだ寒い、夜の闇の中へと、消えていった。
翌朝、山南さんの「脱走」は、すぐに、屯所中の知るところとなった。
「追手を差し向けろ。見つけ次第、連れ戻せ」
土方さんの、非情な声が、冷たく響く。
「追手は……」
土方さんの目が、部屋にいる幹部たちを、一人、一人、見渡す。そして、その視線が、沖田さんの上で、ぴたりと、止まった。
「総司、お前が行け」
その言葉に、周りにいた誰もが、息をのんだ。
山南さんと、沖田さんが、兄弟のように、親しかったことを、皆が、知っていたからだ。
「お前にしか務まらない。必ず、連れ戻せ」
土方さんの言葉は、沖田さんの、体調の回復を認めるものであり、そして、同時に、友人であった者に、友人を死地に連れ戻しに行け、という、あまりにも残酷な命令だった。
沖田さんは、何も言わなかった。
ただ、一言、「御意」とだけ、呟いた。
その顔は、せっかく戻ったはずの血の気を、完全に失い、まるで能面のように無表情だった。
彼は、自室に戻ると、黙々と支度を始めた。
その姿は、もう病から立ち直りつつあった希望に満ちた青年ではない。
ただ、命令を遂行するためだけの、冷徹な新選組一番隊組長の顔をしていた。
私は、彼の足元で、ただ震えていた。
かりそめの春は終わったのだ。
そして、今から、彼の、本当の地獄が始まろうとしていた。
友の、命を、その手で終わらせるための、旅。
外は、春の訪れを告げるはずの、暖かな光ではなく、冷たい、冬の涙のような、雨が降り始めていた。




