第二十話
その夜、私は、しん、と静まり返った屯所の冷気で、目を覚ました。
何かの物音で目覚めたのではない。いつも聞こえているはずの、男たちの寝息や、いびきや、時折の寝返りの音が、あまりにも静かになったことで、逆に目が覚めてしまったのだ。
私の猫の耳が、遠くで、ひそやかな音を拾う。衣擦れの音、刀の鞘が、こつ、と柱に当たる音、そして、押し殺したような男たちの話し声。
(……誰か、出ていくの?)
隣で眠っているはずの沖田さんは、すでに、目を覚ましていた。布団の中で、身じろぎもせず、ただ、じっと、天井の闇を見つめている。その身体は、まるで石のように硬直していた。
やがて、複数の足音が、彼の部屋の前を通り過ぎていく。永倉さんの、少しせっかちな足音。原田さんの、どすどすと、床を揺らすような足音。そして、斎藤さんの、まるで猫のように、ほとんど音を立てない足音。
彼らは、沖田さんの部屋の前を、声を潜めて、通り過ぎていく。誰も、彼の名を呼ばない。誰も、障子を開けない。
「頼むぞ」という近藤さんの低い声と、門が、ぎぃ、と軋む音が、遠くで聞こえた。
そして、再び、屯所は、墓場のような静寂に包まれた。
夜の巡察。彼が、あんなにも得意としていた、夜の仕事。
それに、もう、彼は、呼ばれることすらなかった。
しばらくして、沖田さんは、ゆっくりと、布団から身を起こした。
咳は出ていない。熱も、今は落ち着いているのかもしれない。けれど、彼の身体からは、力が、完全に抜け落ちてしまっているようだった。
彼は、おぼつかない足取りで、部屋の入り口まで歩いていく。そして、そこに、ぽつんと揃えて置かれている、自分自身の草履を、ただ、じっと、見下ろしていた。
他の隊士たちの草履は、もう、そこにはない。夜の京の闇へと、踏み出していったのだ。
ここに、置き去りにされた、一足の草履。
それが、今の、沖田さん、そのものだった。
その、頼りない後ろ姿を見ていると、私の胸の奥が、きゅう、と痛んだ。
その時だった。
「……総司君」
背後から、穏やかな声がした。振り返ると、そこに、山南さんが、立っていた。彼も、今夜は、屯所に残る役目らしい。
「少し、冷えるね。お茶でも、どうだい?」
山南さんは、沖田さんが巡察に呼ばれなかったことには、一切、触れなかった。ただ、優しい、兄のような目で、微笑んでいる。
沖田さんは、何も言えず、ただ、小さく、頷いた。
山南さんの部屋は、彼の人柄そのもののように、静かで、落ち着いていた。墨の匂いと、古い書物の匂いがする。
私は、居心地の良さそうな山南さんの膝の上に、ちゃっかりと、お邪魔させてもらった。その手つきは、沖田さんとはまた違う、学者先生のような、どこか、丁寧な優しさがあった。
「……近頃、面白い本を読んでいてね」
山南さんは、お茶を淹れながら、他愛もない話をした。どこかの国の、古い詩の話。星の動きの話。そのどれもが、剣や、血の匂いからは、かけ離れた、穏やかな世界の言葉だった。
それは、剣でしか自分を表現できない沖田さんを、気遣ってのことなのだろう。あなたの価値は、剣だけではないのだと、遠回しに、伝えようとしているのかもしれない。
沖田さんは、ただ、黙って、その話に耳を傾けていた。
やがて、湯呑みの中のお茶を、ゆっくりと飲み干すと、ぽつり、と、言った。
「……山南さんは、すごいです。俺は、剣がなければ、ただの、抜け殻ですから」
その声は、ひどく、か弱く、そして、寂しげだった。
山南さんは、静かに、お茶を一口すすると、私の頭を撫でながら、言った。
「そんなことは、ないさ」
その声は、諭すようでもあり、祈るようでもあった。
「君が、ただ、ここにいる。それだけで、心強く思う者も、いるんだよ」
その言葉が、今の沖田さんに、どれだけ届いたかは、分からない。
けれど、彼は、少しだけ、顔を上げた。
お茶を飲み終え、沖田さんが部屋に戻る。私も、その後をついていった。
彼は、自分の部屋に戻ると、置き去りにされた、自分の草履を、もう一度、見つめた。
そして、刀ではなく、自分の、何も握っていない、その両手を、じっと、見つめている。
彼が、何を考えているのか、私には分からない。
ただ、その夜は、彼が、ひどい咳にうなされることは、なかった。
私は、彼の布団の中で、丸くなる。
置き去りにされた夜の静寂の中で、確かに、そこにいる、彼の、温かい体温だけを感じながら。
それは、剣士・沖田総司ではなく、ただの、一人の青年が発する、か弱く、しかし、確かな、生命の温もりだった。




