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第十九話

 

 じりじりと肌を焼くような夏の暑さは、もうどこかへ行ってしまった。代わりに吹くようになった風は、どこか冷たくて、屯所の庭にある大きな木の葉を、はらり、はらりと揺らしている。そのうちの一枚が、赤く色づいて、私の目の前をくるくると回りながら落ちていった。


(……秋、か)


 縁側でひなたぼっこをしながら、私は胸の内でそう思った。池田屋と、蛤御門。あの、血と鉄の匂いがした激しい夏が、まるで嘘のようだ。屯所には相変わらず、会津藩からの使いや、見たこともない商人たちがひっきりなしにやってきて、隊士たちは皆、どこか得意げな顔をしている。けれど、私には分かる。この場所に、春先のような、のんびりとした空気はもうない。誰もが、ぴりぴりと張り詰めた、鞘から抜き放たれる寸前の刀みたいな匂いをさせていた。


 そして、その張り詰めた空気の中心にいるはずの沖田さんは、日に日に、その匂いを失くしていっていた。


 彼は、もう、道場で竹刀を握らなくなった。

 一番隊の稽古が始まると、彼は道場の入り口の柱に寄りかかって、ただじっと、隊士たちが汗を流すのを眺めている。その姿は、まるで、楽しかったお祭りが終わってしまった後の、子供のように見えた。

「総司、たまには混ざれよ。身体がなまるぞ」

 永倉さんが声をかけても、彼は力なく笑うだけ。

「みんな、強くなりましたから。俺が入るより、見てる方が勉強になりますよ」

 そんな冗談を言う彼の声が、やけに乾いて聞こえるのを、私の猫の耳は拾ってしまう。


 彼の居場所は、いつの間にか、日の当たる道場から、自室の、万年床になりつつある布団の上になっていた。

 部屋で横になっている時間が増え、それに比例して、彼の咳を聞くことも多くなった。

 最初は、夜中に、布団の中で押し殺すように、小さく。

 それが、最近では、昼間でも、隠しきれないように、漏れ聞こえてくる。


 その日も、沖田さんは部屋で横になっていた。

 私は彼の枕元で丸くなり、すう、すう、という寝息に耳を澄ませる。時折、彼の喉の奥で、ぜ、と空気が擦れるような、嫌な音がした。


 昼過ぎ、重い足音が、彼の部屋の前で止まった。土方さんだ。

「総司、薬だ。飲んで、少しは楽になれ」

 障子の向こうから、ぶっきらぼうな声がする。その手には、きっと、苦い匂いのする薬の包みがあるのだろう。

 けれど、布団の中から聞こえてきたのは、沖田さんの、子供みたいに意地っ張りな声だった。

「いりませんよ、そんなもの。俺は、病気じゃありませんから」

「……馬鹿を言うな。いいから、飲め」

「嫌だと言ったら、嫌です」

 しばらく、気まずい静けさが、部屋の外と内を隔てていた。やがて、土方さんの足音は、ため息のような響きを残して、遠ざかっていった。


 足音が聞こえなくなると、沖田さんは、ゆっくりと身を起こした。その時だった。


「こほっ、けほっ……! ごほっ!」


 彼の身体が、大きく震える。それは今までよりもずっと深く、そして、喉の奥から絞り出すような、苦しそうな咳だった。彼はたまらず、畳に手をついて前のめりになる。その背中が、苦しげに波打つのを、私はただ、息を詰めて見つめていた。

(沖田さん……!)

 名前を呼べない。背中をさすれない。この、もどかしい毛皮の牢獄。


 長い咳がようやく収まったとき、彼は、はあ、はあ、と浅い息を繰り返していた。その視線の先、土方さんが置いていった薬包が、ぽつんと畳の上にある。

 先ほどまでの強がりは、もうどこにもない。彼の瞳には、自分の身体が言うことを聞かないことへの、どうしようもない恐怖と、絶望の色が浮かんでいた。

 彼は、震える手で、その薬包を手に取った。そして、まるで毒でも飲むかのように、それを一気に口に放り込む。

 途端に、ひどく顔を歪めた。薬の苦さのせいか、それとも、病を認めてしまったことへの、屈辱のせいか。


 私はたまらなくなって、彼の膝に駆け上がった。そして、その胸に、ありったけの力で、ぐりぐりと頭を押し付けた。

 大丈夫、大丈夫だよ。私が、そばにいるから。

 ごろごろ、ごろごろ。私の喉が、言葉の代わりに、必死に彼に呼びかける。


 沖田さんは、そんな私を、震える手で、強く、強く、抱きしめた。

「……トラ」

 私の頭の上で、彼の声が、か細く震える。

「……俺、いつか、みんなと、一緒に、戦えなくなるのかな……」


 窓の外では、いつの間にか空が厚い雲に覆われ、冷たい雨が降り始めていた。

 しとしと、しとしと、と。

 これから始まる、長い別離の季節を告げる、悲しい秋の雨。その音だけが、部屋の中に、静かに響いていた。

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