幕間5『縁側の金平糖』
一日中、屯所を濡らしていた静かな雨は、夕刻を前に、まるで何事もなかったかのように、ぴたりと止んだ。
厚い灰色の雲は、西の空からゆっくりと切れ始め、その隙間から、黄金色の光が、地上へと差し込んでくる。雨に洗われた木々の葉は、きらきらと輝き、湿った土の匂いが、涼やかな風と共に、私の鼻をくすぐった。
私は、すっかり乾いた縁側で、念入りに毛づくろいをしていた。
雨の日の、あの、どこか間の抜けた、けれど、温かい一日。それを思い出し、私の喉が、自然と、くすくすと、笑うように鳴る。
この屯所に来て、もう、季節は、春から夏へと移り変わろうとしていた。私は、すっかり、この場所の住人(一匹)になっていた。
「トラ」
不意に、優しい声が、私を呼んだ。
顔を上げると、そこに沖田さんが立っていた。彼は、部屋の中から、私を見ていたらしい。
「雨、上がったね。気持ちがいいや」
彼は、そう言うと、私の隣に、どっかりと腰を下ろした。そして、何も言わずに、ただ、私と一緒に、夕焼けに染まっていく空を眺め始めた。
彼の膝の上は、私の特等席だった。
けれど、こうして、ただ隣に座って、同じ景色を眺めている時間も、私は、同じくらいに好きだった。
彼の大きな手が、私の背中を、ゆっくりと撫でる。その、規則正しいリズムが心地よい。
「……なんだかんだ、ここも、すっかり、俺たちの家、みたいになっちゃったね」
彼が、ぽつりと呟いた。
その言葉に、奈々の魂が、きゅん、と、甘く痛んだ。
家。そうだ、ここは、もう私の、私たちの家なのだ。
「夏になったら、もっと賑やかになるだろうね、トラ」
彼は、続ける。その声は、これからの季節に、胸を躍らせる少年のように弾んでいた。
(……賑やかに、なる……)
その言葉が、私の胸に、ちくりと小さな棘のように、刺さった。
奈々の魂は、知っている。彼が言う「賑やかさ」と、これから、本当に、この場所に訪れる「賑やかさ」は、全く意味が違うということを。
池田屋事件。その、血と、炎と、叫び声に満ちた、地獄のような喧騒。
そのことを、もちろん、彼は、まだ知らない。
知らないでいてほしい。このままずっと。
そんな、あり得ないと分かっている願いが、胸の奥で、何度も木霊する。
私は、そんな胸の内の黒い感情を、彼に悟られぬよう、精一杯、彼の足に自分の身体をすり寄せた。そして、これ以上ないくらいに、大きな音で、ごろごろと、喉を鳴らした。
私の、その健気な(と、自分では思っている)反応に、彼は、満足そうに、ふふ、と笑った。
そして、懐から小さな紙袋を取り出した。
金平糖だ。
彼は、その中から、一粒、淡い、桜色の、星屑のような、砂糖菓子を、そっとつまみ出した。
そして、その金平糖を、私の鼻先にゆっくりと、近づけてくる。
甘い、甘い、砂糖の香り。
「ほら、綺麗だろう。お前みたいに、小さくて甘いんだ」
その、殺し文句のような言葉に、私が、元・二十八歳のOLであることを、一瞬だけ呪った。
彼は、その金平糖を、自分の口の中に、ぽい、と、放り込むと、こり、と、軽やかな音を立てて、それを噛み砕いた。
「……甘い」
彼は、そう言って、幸せそうに目を細めた。
その、あまりにも、無防備で愛おしい笑顔。
ああ、神様。
この、穏やかな時間。
この、優しい人の、隣。
この、ささやかな、金平糖の、甘さ。
この、全てが、永遠に、続きますように。
夕日が完全に、山の端へと沈んでいった。
空は、深い藍色に染まっていく。
その美しい、しかし、どこか物悲しい夕闇の中で。
私は、ただ、ひたすらに彼の温もりを感じていた。
この、星屑のような、小さな甘さの記憶。
それが、やがて訪れる、長い悲劇の時代の中で、願わくば、この人の心の支えとなることを。




