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幕間4『雨の日の訪問者』

 

 その日は、朝から、しとしとと、静かな雨が降り続いていた。

 梅雨の走りだろうか。空は、灰色の厚い雲に覆われ、屯所全体が、薄暗い、静謐な空気に包まれている。激しい雨ではない。けれど、その、いつ止むとも知れぬ、単調な雨音は、人の心を、どこか、物憂げにさせる。

 隊士たちのほとんどは、巡察の任務もなく、それぞれが自室にこもり、この静かな雨の一日を、思い思いに過ごしていた。


 私も、例外ではなかった。

 雨の日は、どうにも、身体が重い。眠くて、眠くて、仕方がないのだ。私は、屯所の中を、あてもなく、ふらふらと歩き回っていた。

 道場を覗くと、斎藤さんが、一人、正座をして、書物を読んでいた。その横顔は、雨の日の静けさと、不思議なほどに、調和している。

 山南さんの部屋の前を通りかかると、中から、筆を走らせる、さらさら、という音が聞こえてきた。彼は、この静かな時間を使って、故郷への手紙でも、書いているのだろうか。

 誰もが、この雨の日の静寂を、受け入れているようだった。

 ただ、一人を除いて。


 私は、沖田さんの部屋へと、向かった。

 彼は、部屋の中で、畳の上に、ごろりと、うつ伏せになっていた。その両手で、頬杖をつき、大きなため息をついている。

「……暇だなぁ」

 その口から漏れたのは、心底、退屈しきった、という声だった。

 彼は、私の気配に気づくと、ぱっと、顔を上げた。そして、まるで、何か、とてつもなく面白いことを思いついた、悪戯小僧のような目で、私を見た。

「そうだ、トラ!」

 彼は、がばりと、身を起こした。

「お前、賢いだろう。きっと、芸の一つや二つ、すぐに覚えられるはずだ。よし、今日から、俺がお前に、芸を仕込んでやろう!」


(……嫌な予感しか、しない)

 奈々の魂が、そう呟いた。

 沖田さんは、私を、その目の前に、ちょこんと座らせると、真剣な顔で、言った。

「まずは、基本の『お座り』からだ。いいかい、トラ。お・す・わ・り」

 彼は、自分の人差し指を立てて、それを、上下に、ゆっくりと動かす。

 私は、その指の動きを、ただ、じっと、見つめていた。

(……この人は、一体、何を言っているんだろう)

 もちろん、猫である私に、「お座り」などという概念が、分かるはずもない。私は、ただ、目の前で、奇妙な動きをする、彼の指先に、興味を惹かれているだけだった。

「違う、そうじゃない。お座りだ。こう、お尻を、こうだ」

 彼は、私の背中に、そっと、手を回すと、私の腰を、地面に、押し付けようとしてくる。

 私は、それが、何かの、新しい遊びの合図だと思った。

「にゃっ!」

 私は、そう鳴くと、彼の手にじゃれつき、その指先を、甘噛みしてやった。

「あはは、こら、トラ! 遊んでるんじゃないんだって!」

 彼は、楽しそうに笑うが、その目には、まだ、諦めるという色はなかった。


 次に、彼が挑戦したのは、「お手」だった。

「よし、トラ。お手だ。こうやって、俺の手に、お前の手を、乗せるんだ」

 彼は、そう言うと、自分の手のひらを、私の目の前に、差し出した。

 私は、その手のひらを、くんくん、と、匂いを嗅いだ後、それが、安全なものであることを確認すると、その手のひらに、自分の頬を、すり、と、擦り付けた。撫でてほしい、という、私なりの、愛情表現だった。

「だから、違うんだってば! お手だよ、お・て!」

 彼は、私の前足を、ちょん、と、指で突く。私は、その指が、また、遊びの合図だと思い、猫パンチを、くり、くり、と、繰り出した。


「……うーん、なかなか、難しいもんだなぁ」

 沖田さんは、腕を組んで、首を傾げている。

 その時だった。

 部屋の入り口の障子が、すっ、と、静かに開いた。

「総司、いるか。少し、話が……」

 そこに立っていたのは、近藤さんだった。彼は、部屋の中の、私と沖田さんの、その奇妙なやり取りを見ると、ぴたり、と、動きを止めた。

「……お、俺は、今、トラに、稽古をつけていたところで……」

 沖田さんが、慌てて、言い訳をする。その顔は、少しだけ、赤い。

 近藤さんは、何も言わない。ただ、その大きな身体を、くっくっく、と、震わせている。その顔は、笑いを堪えるのに、必死のようだった。

「……いやあ、総司は、猫の調練まで、天才的だなあ!」

 とうとう、堪えきれなくなったのか、近藤さんは、腹を抱えて、豪快に、笑い出した。

「こ、近藤さん! ち、違います、これは、その……!」

 沖田さんの顔は、もう、耳まで、真っ赤だった。


 その、あまりにも平和で、どこか間の抜けた光景。

 雨の日の、退屈な一日は、局長の、温かい笑い声に包まれて、ゆっくりと、過ぎていった。

 私は、そんな二人を眺めながら、やっぱり、この人たちには、敵わないなあ、と、思った。

 そして、そんな、馬鹿なことをしている、この日常が、たまらなく、愛おしい、とも。

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