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幕間3『洗濯日和』

 


 梅雨の長雨がようやく上がり、数日ぶりに、空がどこまでも高く、青く晴れ渡った日。

 じりじりと照りつける太陽は、湿った土を乾かし、草木の匂いをむわりと立ち上らせる。まさに、絶好の「洗濯日和」だった。


 その日の屯所は、朝からどこか浮き足立っていた。普段は、武具の手入れや、厳しい稽古に費やされる時間が、今日ばかりは、溜まりに溜まった洗濯物を片付けるための、大掃除の時間に充てられていたのだ。

 屯所の中庭にある、大きな井戸の周り。そこが、今日の主戦場だった。

 隊士たちは、揃いの隊服や、汗と埃にまみれた下着などを、大きなたらいに放り込み、ごしごしと力任せに洗っている。屈強な男たちが、腕まくりをして、一生懸命に洗濯板をこする姿は、どこか滑稽で、微笑ましい。

 私は、そんな彼らの様子を、一番日当たりの良い縁側から、眺めていた。猫である私は、水に濡れるのはごめんだ。ここが、特等席だった。


(みんな、なんだか、楽しそう……)

 奈々の魂が、そう呟く。

 京の治安を守る、という重責から、ほんの少しだけ解放された彼らの顔は、普段よりも、ずっと、若々しく、穏やかに見えた。


 その、のどかな空気を、最初に破ったのは、一人の若い隊士だった。

 彼が、盥の水を、誤って、隣にいた仲間の背中に、ざぶりと、かけてしまったのだ。

「な、何しやがる!」

「す、すみません! わざとでは……!」

 謝罪もむなしく、かけられた男も、仕返しとばかりに、水を汲んで、相手に浴びせかける。

 子供じみた水の掛け合い。それが、全ての始まりだった。


「はっはっは! やれやれ! もっとやれ!」

 その様子を見て、腹を抱えて笑っていたのは、永倉さんだった。彼は、おもろに、足元の桶を両手で掴むと、隣で洗濯をしていた原田さんの頭上から、その水を、豪快に、ぶちまけた。

「……て、てめえ、新八ぃぃぃ!」

 ずぶ濡れになった原田さんが、獣のような雄叫びを上げる。そして、二人を中心として、大規模な「水遊び」が始まった。

「うわっ、冷てえ!」

「こっちにもかけろ!」

 若い隊士たちも、この時とばかりに、騒ぎに加わる。誰彼構わず、水をかけ合い、笑い声と、悲鳴にも似た歓声が、屯所中に響き渡った。


 沖田さんも、最初は、縁側の近くで、楽しそうにその様子を眺めていた。けれど、永倉さんの投げた水飛沫が、彼の頬にかかった。

「あ、」

 沖田さんは、一瞬だけ、驚いたような顔をしたが、次の瞬間には、その顔は、子供のような、満面の笑みに変わっていた。

「永倉さん、ひどいじゃないですか!」

 彼は、そう言うと、自分も桶を手に取り、その戦いの輪の中へと、嬉々として飛び込んでいった。

 軽やかな身のこなしで、なかまの攻撃をひらりひらりと躱し、的確に、反撃の水を浴びせていく。その姿は、まるで、水と戯れる、一匹のしなやかな猫のようだった。


 私は、その光景を、夢中で見ていた。

 沖田さんが、笑っている。心の底から、楽しそうに。

 ただ、それだけのことが、私にとって、何よりの幸福だった。


 その、楽園のような時間を、引き裂いたのは、地響きのような、一喝だった。

「貴様ら、何をしている!!!!」

 声の主は、言うまでもなく、鬼の副長、土方歳三だった。

 その声が響いた瞬間、あれほど賑やかだった喧騒が、ぴたり、と、嘘のように止まった。隊士たちは、水をかけ合った、みっともない格好のまま、石のように、固まっている。まるで、蛇に睨まれた、蛙のように。


 土方さんは、鬼のような形相で、ずぶ濡れの隊士たちの中央へと、ずかずかと、歩みを進める。

「遊んでいる暇があったら、一人でも多く、剣の稽古をしろ! この太平楽たいへいらくどもが!」


 その、土方さんの背後に、いつの間にか、一人の男が、音もなく、忍び寄っていた。

 局長、近藤勇。その人だった。

 彼は、一番大きな盥を、その巨体に見合わぬ、静かな動きで持ち上げると、隊士たちに向かって、悪戯っぽく、片目を瞑って見せた。そして。


 ざっっっぶーーーん!!!!


 持っていた盥の水を、説教をしている土方さんの頭上から、一滴残らず、ぶちまけたのだ。

 一瞬の、静寂。

 水は、土方さんの、きっちりと結い上げられた髪から、その端正な顔を伝い、着流しの裾から、ぽたぽたと、滴り落ちている。

 彼は、何が起こったのか、理解できないかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、振り返った。

 そこには、空になった盥を抱え、悪びれる様子もなく、にこにこと笑っている、近藤さんの姿。


「……き、貴様ぁ……こ、近藤さんっっ!」

 土方さんの、鬼の形相が、驚きと、怒りと、そして、羞恥で、ぐしゃぐしゃになる。

 その、あまりにも人間的な表情を見て、最初に、噴き出したのは、沖田さんだった。

「あ、あははははは! ひ、土方さんが! びしょ濡れだ!」

 それを皮切りに、隊士たちの間から、こらえきれない笑いが、次々と、漏れ出した。

「がはははは! いいぞ、近藤さん!」

「副長の、あんな顔、初めて見た!」

 永倉さんと原田さんが、腹を抱えて、地面を転げ回っている。


「てめえら! 笑うな!」

 土方さんは、顔を真っ赤にして怒鳴るが、もはや、何の威厳もない。

 近藤さんは、そんな彼の方を、優しく叩きながら、豪快に笑い続けている。

「まあまあ、トシ。たまには、こういうのも、いいだろうが」

「よくないわ! 風邪を引いたらどうする!」


 鬼の副長もまた、この、大きな、不器用な家族の、一員なのだ。

 私は、そのことに、なんだか、無性に、嬉しくなった。

 ずぶ濡れになって、子供のように怒る土方さんと、それを笑う隊士たちの姿を眺めながら、私は、縁側で、小さく、あくびをした。

 今日は、本当に、いい、洗濯日和だった。

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