幕間2『斎藤の猫じゃらし』
沖田さんが、昼間でも、部屋で身体を休めることが多くなった。
彼の体調が優れないことは、奈々の魂には分かっている。けれど、猫である私には、何もしてあげることはできない。彼が眠っている間、私は、彼の邪魔をしないように、そっと部屋を抜け出し、屯所の中を散策するのが、新しい日課となっていた。
その日の午後も、私は、あてもなく、縁側を歩いていた。
昼下がりの屯所は、驚くほど静かだ。隊士たちのほとんどは、市中の見廻りに出ているか、あるいは、このうだるような暑さに、自室で昼寝でもしているのだろう。
私は、涼しい場所を求めて、道場の中へと足を踏み入れた。板張りの床は、ひんやりとしていて、気持ちがいい。誰もいない道場は、がらんとしていて、ただ、汗と、木の匂いだけが、満ちていた。
(……ん?)
その時、道場の最も奥まった、薄暗い隅に、人の気配がするのに気づいた。
そこに、一人の男が、壁に背を預けるようにして、静かに座っていた。
新選組三番隊組長、斎藤一さんだった。
彼は、稽古をするでもなく、瞑想をするでもなく、ただ、そこに、いる。まるで、道場の影の一部になってしまったかのように、その気配は、極限まで希薄だった。私が気づかなければ、きっと、誰も、彼がそこにいることすら、分からなかっただろう。
(……怖い人)
それが、彼に対する、私の正直な感想だった。
彼は、口数が極端に少なく、何を考えているのか、全く分からない。その、全てを見透かすような、静かな瞳で見つめられると、私は、いつも、心の中まで裸にされてしまうような、居心地の悪さを感じてしまうのだ。
私は、彼を起こさないように、音を立てずに、その場を立ち去ろうとした。
その時だった。
「……」
彼が、ゆっくりと、顔を上げた。そして、その静かな瞳が、真っ直ぐに、私を捉えた。
びくり、と、私の全身の毛が逆立つ。見つかってしまった。怒られるだろうか。あるいは、無視されるだろうか。
私は、その場で、凍りついたように動けなくなってしまった。
斎藤さんは、何も言わない。
ただ、私を、じっと、見つめている。
やがて、彼は、ゆっくりと、懐に手を入れた。そして、取り出したのは、一本の、どこにでも生えているような、草だった。穂先が、ふさふさとした、いわゆる「猫じゃらし」。
彼は、その猫じゃらしを、私の目の前の、少し離れた床に、そっと置いた。
そして、その長い指先で、穂先の部分を、くん、と、軽く弾いた。
ふさふさとした穂先が、生き物のように、ぴょこん、と、跳ねる。
「……!」
私の身体が、意思とは無関係に、それに、反応した。
尻尾が、大きく、膨らむ。瞳孔が、まん丸く、開かれる。身体が、自然と、低い狩りの姿勢をとっていた。
(だめ、だめよ、奈々! こんな、ただの草に、釣られては……!)
魂が、必死に、理性に呼びかける。相手は、あの、何を考えているか分からない、斎藤一なのだ。隙を見せてはいけない。
けれど、私の身体は、言うことを聞かなかった。
ぴょこん、ぴょこん。
彼が、指先で、穂先を、揺らし続ける。
その、あまりにも、魅惑的な動き。
私は、もう我慢の限界だった。
「にゃっ!」
気づいた時には、私は、床を蹴って、その猫じゃらしに、猛然と飛びかかっていた。
捕まえて、前足で押さえつけ、後ろ足で、けりけり、と、無我夢中で蹴り上げる。
はっ、と我に返った時、私は、なんともみっともない姿で、ただの草と格闘していた。
(……やっちゃった)
恐る恐る、顔を上げる。
斎藤さんは、相変わらず、無表情のまま、そんな私を、じっと見つめていた。
その目に、侮蔑の色はなかった。かといって、面白いという色も、ない。ただ、どこまでも、静かだった。
やがて、彼は、満足したかのように、一度だけ、小さく、頷いた。そして、すっと立ち上がると、私にも、猫じゃらしにも一瞥もくれることなく、音もなく、道場から去っていった。
後に残されたのは、私と、そして、一本の猫じゃらしだけだった。
言葉は、一言も交わしていない。
けれど、それは、確かに、私と、あのミステリアスな剣客との、初めての、そして、とても、温かい、交流だった。
私は、その日、一日中、その猫じゃらしを、自分の宝物のように、咥えて持ち歩いた。
そのことを、屯所の皆に、少しだけ笑われたのは、また、別の話である。
ブクマと評価を頂けると作者が喜びます。本当に喜びます。




