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第二話

 

 どれくらい歩き続けたのだろう。

 もはや思考はほとんど働いていなかった。飢えが身体の芯をじりじりと焼いていく。人間だった頃の記憶も、幕末に来てしまったという絶望も、すべてが空腹という巨大な虚無に飲み込まれていった。


 しかし、猫の鼻は、飢餓状態においてこそ驚くべき性能を発揮するらしかった。風に乗って運ばれてくる、魚の焼ける香ばしい匂い。白身の魚が、醤油とみりんのタレを纏い、炭火の上でじゅうじゅうと音を立てている光景まで目に浮かぶようだ。

 それを唯一の道しるべに、私は汚れた裏路地を必死に進んだ。


 表通りに出た途端、凄まじい情報の濁流に襲われる。人々の喧騒、荷車が石畳を轢く音、どこかの店先から聞こえる威勢のいい呼び込み。そして、私の小さな体にとっては脅威でしかない、無数の足、足、足。草履や下駄が、すぐ目の前を行き交い、その度に風圧が巻き起こる。一度など、鞘を差した武士の足がすぐ横を通り過ぎ、その巨体が見えなくなるまで、心臓が凍りついたように動けなかった。


(怖い……)


 それでも、香ばしい匂いが私を正気に引き戻す。

 匂いの発生源は、どうやら一軒の小料理屋のようだった。店の軒先で、大将らしき男が七輪で魚を焼いている。あれだ。あれを食べなければ、私は死ぬ。

 私は最後の力を振り絞り、店の軒下までたどり着いた。そして、ありったけの勇気で、か細い声を張り上げる。


「にゃ、にゃあ……!(なにか、なにかください!)」


 魂の叫びは、しかし、無慈悲に一蹴された。

「しっ、しっ! あっちへ行け! この汚ねえ泥棒猫が!」

 大将は眉間に深い皺を寄せ、火箸で私を追い払う仕草をする。その目に宿るのは、純粋な嫌悪。その視線が、私・相川奈々の心を深く抉った。今の私は、ただの汚い害獣なのだ。

 追い払われ、よろめきながら数歩後ずさる。希望が、ぷつりと音を立てて消えた。もう、ダメだ。歩けない。


 私は近くの路地裏に転がり込むように入り、壁際に体を丸めた。冷たい土の地面が、なけなしの体温を容赦なく奪っていく。ああ、また死ぬのか。一度死んで、猫に生まれ変わって、飢えと寒さで死ぬ。なんて間の抜けた一生(?)なんだろう。

 薄れゆく意識の中、遠ざかっていく人々の喧騒が、まるで子守唄のように聞こえ始めた。


 その時だった。

 不意に、私のすぐ目の前で一対の草履がぴたりと止まった。


 視界に映るのは、使い込まれているが清潔な、藍色の袴の裾。そこから伸びる、形の良いふくらはぎ。また追い払われるのだろうか。もう、身をすくませる力さえ残っていなかった。恐怖で目を閉じた、その耳に、凛として、それでいてどこか人懐こい、涼やかな声が降ってきた。


「おや、こんなところに子猫が」


 その声には、嫌悪も、憐れみもなかった。ただ、純粋な好奇心。

 私は弾かれたように顔を上げた。

 逆光の中に、その人は立っていた。少し色素の薄い髪が、春の風にさらさらと揺れている。悪戯っぽく少しだけつり上がった目尻に、すっと通った鼻筋。そして、私を見下ろす唇が、ふわりと優しい弧を描いた。


 時が、止まった。


(……あ)


 心臓が、喉から飛び出しそうだった。違う。これは猫の本能的な恐怖じゃない。これは、元・相川奈々の魂が上げている、歓喜と絶望の悲鳴だ。

 知らないはずがない。忘れるはずがない。私が生涯をかけて焦がれた、ただ一人の剣士。資料集の、あの不鮮明な写真の向こう側に、ずっと夢見てきた姿。


(うそ……おきた、さん……?)


 目の前の青年――沖田総司は、私の心の叫びなど知る由もなく、ゆっくりと私の前にしゃがみ込んだ。目線が、合う。澄んだ瞳が、心配そうに私を覗き込んでいる。その瞳は、写真や活字からは決して伝わらない、圧倒的な生命力に満ちていた。


「ずいぶん汚れてるじゃないか。お腹でも空いているのかい?」


 彼はそう言うと、ためらうことなく、そっとその手を伸ばしてきた。大きな、剣ダコでごつごつしているであろう、温かい手。その手が私の冷え切った体に触れた瞬間、びくりと全身の毛が逆立った。


「はは、怖がらなくても大丈夫。取って食べたりしないよ」


 沖田さんは悪戯っぽく笑うと、そのままふわりと、私を両手で掬い上げた。

 彼の腕の中は、陽だまりのように温かかった。とくん、とくん、と規則正しく響く彼の力強い心音が、私の耳に直接伝わってくる。


「よしよし。いい子だ」


 ああ、ダメだ。

 温かい。優しい。安心する。

 さっきまでの絶望が嘘のように溶けていく。人間だった頃の理性も、歴史を変えてはいけないという知識も、すべてがこの心地よさの中に埋もれてしまいそうになる。


 私の魂は感動と混乱で泣き叫んでいるのに、猫の体は正直だった。安心感から、喉の奥が自然にごろごろと鳴り始める。


 その音を聞いて、沖田さんはさらに嬉しそうに目を細めた。

「おっと、気に入ってくれたみたいだね。よし、決めた。俺についてきな。お腹いっぱい、ご飯を食べさせてあげるよ」


 彼はそう言うと、私をしっかりと腕に抱いたまま、軽やかな足取りで歩き始めた。

 私は彼の胸に顔をうずめることしかできなかった。温かさと、彼から香る汗の匂いと、そして微かな鉄の匂いに包まれながら、私の意識はゆっくりと沈んでいった。


 二度目の人生で最初に感じた温もりは、歴史上、最も儚く美しい天才剣士の腕の中だった。

 これから自分がどこへ連れていかれ、何を目の当たりにするのかも知らずに。腕の中だった。

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