幕間1『トラの縄張り』
私の朝は、沖田さんの匂いと共に始まる。
夜の間に冷えた身体を、彼の温かい布団が優しく包み込み、その穏やかな寝息が、私にとっては何よりの目覚まし代わりだ。私がもぞもぞと動き出すと、彼は、まだ閉じたままの瞼をくすぐったそうに震わせ、「ん……トラ……おはよ……」と、夢現の声を漏らす。そして、無意識に、私の背中をぽん、ぽんと、優しく叩いてくれるのだ。
この、どこまでも平和で、満ち足りた朝。それが、壬生屯所に来てからの、私の日常の始まりだった。
「ほら、トラ。お前の分だよ」
朝餉の膳を前に、沖田さんは、自分の焼き魚の、一番身の厚いところを、小さな皿に取り分けてくれる。もちろん、塩気の強い皮は、丁寧に取り除いて。私は、彼の足元で、夢中でそのご馳走にありつく。その間、彼は、実に楽しそうに、そんな私を見下ろしているのだ。
腹が満たされると、私の「縄張り巡り」が始まる。
まずは、台所へ。そこでは、炊事係の女性たちが、いつも忙しそうに立ち働いている。
「おや、トラちゃん。お腹を空かせたのかい?」
彼女たちは、私を見つけると、仕事をしながらも、優しい声をかけてくれる。そして、野菜の切れ端や、時には、魚の出汁を取った後のかつお節などを、お情けで分けてくれるのだ。私は、それをありがたく頂戴すると、次の目的地へと向かう。
屯所の中庭では、朝稽古が始まっていた。
道場から漏れ聞こえてくるのは、隊士たちの、気合の入った掛け声と、竹刀が激しく打ち合う音。私は、道場の隅、彼らの邪魔にならない場所で、その様子を眺めるのが好きだった。
「そこだ、永倉! 今の一撃は、悪くなかったぞ!」
「おうよ! 見てろよ、近藤さん! 次は、一本取ってやらあ!」
永倉さんと原田さんが、まるで子供の喧嘩のように、大声を上げながら打ち合っている。その周りでは、若い隊士たちが、真剣な眼差しで、その太刀筋を目で追っていた。
この頃の稽古は、まだ、どこか、のどかだった。命のやり取りをする前の、純粋な、剣の腕を競い合う、明るい空気がそこにはあった。
稽古が終わる頃、私は、日当たりの一番良い縁側へと移動する。そこが、私の昼寝の指定席だ。
初夏の柔らかな日差しが、私の毛皮を温め、心地よい眠気を誘う。うとうとと、意識が夢と現の狭間を彷徨っている、その時だった。
ふっと、私の頭上に、影が差した。
誰かが、私の前に、静かに立っている。私は、薄目を開けようとしたが、まぶたは鉛のように重く、持ち上がらない。
やがて、その影から、大きな手が、ゆっくりと、伸ばされてきた。それは、剣ダコでごつごつとした、男の手だった。私は、一瞬だけ身を固くしたが、その手は、驚くほど、優しかった。
私の頭を、そっと、一度だけ、撫でた。
そして、すぐに、その影は、音もなく、どこかへ立ち去ってしまった。
私が、はっと目を覚ました時、そこには、もう誰もいなかった。
(……今の、誰だろう)
奈々の魂が、不思議に思う。無言で、私を撫でていく人。それは、いつも影のように静かな、斎藤さんだろうか。それとも、まさかとは思うが、あの、鬼の副長、土方さんだろうか。
確かめる術はない。けれど、その、不器用で、秘密めいた優しさが、私の心を、じんわりと温かくした。
夕刻、私は、近藤さんの部屋にいた。
彼は、分厚い書状の束に目を通しながらも、私をその大きな膝の上に乗せ、時折、その熊のような手で、私の喉元を撫でてくれる。私は、彼の、規則正しい呼吸の音と、その大きな体から伝わる安心感に包まれ、盛大に、ごろごろと、喉を鳴らした。
沖田さんに拾われた、一匹の野良猫。
それが、いつの間にか、「沖田の猫」としてだけでなく、「新選組の猫」として、この、不器用で、荒々しくて、そして、どこまでも優しい男たちの、日常の一部になっている。
その事実が、私にとって、何よりの幸福だった。
この、ささやかな幸せが、一日でも長く、続くようにと、私は、ただ、願うことしかできなかった。