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第十八話

 

 あの夜、沖田さんが、自らの掌の上で、初めて生命の「あか」を目にしてから、数日が過ぎた。


 池田屋での勝利に、屯所は未だ浮き足立ったような熱気に包まれている。けれど、私の世界は、あの日を境に、すっかり色を変えてしまっていた。沖田さんは、何事もなかったかのように明るく振る舞い、仲間からの称賛に笑顔で応えている。しかし、二人きりになると、彼は時折、遠い目をして、自分の掌をじっと見つめることがあった。そして、夜中に、彼の押し殺したような咳の音を聞くたび、私の小さな心臓は、氷水に浸されたように冷たくなった。


 この秘密を知っているのは、世界で、私だけ。

 その事実が、誇らしくもあり、どうしようもなく、重苦しかった。


 七月に入ると、京の都を包む空気は、まるで煮え立つ鍋のように、その不穏な熱量を増していった。池田屋で辛くも生き延びた長州の者たちが、報復のために兵を挙げ、京に迫っているという噂が、まことしやかに囁かれるようになった。夏の、うだるような暑さと、その不吉な噂が混じり合い、屯所の空気は、再び、じりじりと焦げ付くような匂いを放ち始めていた。


 そして、七月十九日の朝。

 その日は、来た。


「長州勢、御所に発砲!」

「ただちに全員、出動準備!」


 屯所の門を叩いた伝令の叫び声に、のどかな朝の空気は一瞬で引き裂かれた。隊士たちが、寝間着姿のまま、慌ただしく部屋から飛び出してくる。誰もが、血相を変えていた。御所。それは、この国の、決して侵されてはならない聖域。そこへ、長州が牙を剥いたのだ。


「会津様と協力し、御所を死守する! 遅れるな!」

 近藤さんの、腹の底から響くような声が、屯内に轟く。


 私も、ただならぬ気配に、沖田さんの部屋から飛び出した。彼は、すでに黒い隊服に着替え、黙々と、しかし、どこか焦るように、出陣の支度を整えていた。その横顔は、紙のように真っ白だった。


「総司」

 背後から、低い声がかけられた。土方さんだった。彼は、沖田さんの、そのあまりにも悪い顔色を見て、眉間に深い皺を刻んでいる。

「お前は、残れ。その顔では、足手まといになるだけだ」

 その言葉は、冷たく聞こえる。けれど、奈々の魂には、その奥にある、痛いほどの気遣いが分かった。彼は、沖田さんの身体を、本気で心配しているのだ。

 近藤さんも、隣で、重々しく頷く。

「トシの言う通りだ、総司。ここを守るのも、立派な役目だぞ」


 しかし、沖田さんは、その言葉に、かぶりを振った。

「いえ。行きます」

 その声は、驚くほど、はっきりとしていた。

「俺は、新選組一番隊組長です。この、隊の、そして、この国の、一大事に、布団で寝ているなど、到底、できません」


 彼の瞳には、病の影など微塵も感じさせない、強い、強い、光が宿っていた。それは、剣に生きる者としての、決して、誰にも譲れない、矜持の光だった。

 土方さんと近藤さんは、顔を見合わせた。そして、諦めたように、深く、ため息をついた。

「……分かった。だが、決して、無理はするな」

「……はい」

 沖田さんは、短く答えると、愛刀を腰に差し、私に一瞥もくれることなく、仲間たちが待つ、戦場の匂いがする場所へと、向かっていった。


 私は、その後ろ姿を、ただ、見送ることしかできなかった。

(行かないで……あなたの身体は、もう、そんな戦に、耐えられない……!)

 心の叫びは、もちろん、声にはならない。

 私は、彼の無謀な決意を、ただ、見ていることしか許されない、無力な獣なのだ。


 隊士たちが出撃した後の屯所は、あの池田屋の夜と同じ、死んだような静寂に包まれた。

 けれど、今回は、その静寂が、長くは続かなかった。


 どぉぉぉん……!


 遠くから、腹の底に響くような、重い音が、聞こえてきた。大砲の音だ。地面が、私の肉球を通して、びりびりと震える。

 それを皮切りに、世界は、音の洪水に飲み込まれた。

 ぱん、ぱん、ぱん、という、乾いた銃声。

 人々の、怒声とも、悲鳴ともつかない、無数の叫び声。

 その全てが、風に乗って、屯所まで届いてくる。


 私は、たまらず、屯所の、一番高い塀の上へと駆け上がった。

 京の都を見渡すと、御所の方角から、黒い煙が、もくもくと、天に向かって立ち上っているのが見えた。

 直接、戦いの様子は見えない。けれど、猫の鋭い五感は、その全てを、嫌というほど、感じ取ってしまう。空気の震え、火薬の匂い、そして、微かに、風に混じって運ばれてくる、鉄と、肉の焼ける、生臭い匂い。


 私は、塀の上で、ただ、震えていた。

 奈々の魂が、歴史の知識を呼び起こす。蛤御門はまぐりごもん。そこで、長州勢と、会津・薩摩の連合軍が、激しい戦闘を繰り広げているのだ。そして、新選組もまた、その渦中で、死闘を演じている。


 やがて、門が騒がしくなり、負傷した隊士たちが、次々と、担ぎ込まれ始めた。

「医者を呼べ!」

「しっかりしろ!」

 留守を預かる山南さんたちの、悲痛な声が飛び交う。屯所は、さながら、野戦病院のようだった。

 私は、その地獄のような光景から、目を逸らすことができなかった。

(沖田さんは? 沖田さんは、無事なの?)

 心臓が、早鐘のように、激しく鳴り続ける。


 長い、長い、時間が過ぎた。

 西の空が、血のような、茜色に染まり始める頃、ようやく、遠くで鳴り響いていた砲声が、止んだ。

 そして、しばらくして、疲れ果てた獣の群れのような、重い足音が、屯所に、近づいてきた。

 主力部隊が、帰ってきたのだ。


 私は、塀から飛び降り、夢中で、門へと駆け寄った。

 帰還した隊士たちは、池田屋の時以上に、誰もが、疲弊しきっていた。勝利した、という高揚感はない。ただ、生き残った、という、虚ろな安堵だけが、その顔に浮かんでいた。


 私は、その人垣の中を、必死に、彼の姿を探した。

 そして、見つけた。

 いた。沖田さんが、いた。


 彼は、幸い、大きな怪我はしていないようだった。けれど、その顔は、もはや、蒼白という言葉すら生ぬるいほど、土気色をしていた。隊服は、汗と埃で汚れ、ところどころが、赤黒く染まっている。彼は、仲間の肩を借りることもなく、ただ、自分の足で、まっすぐに立っていた。それが、彼の、最後の意地のように、私には見えた。


 彼は、門の前に立ち尽くす私に気づくと、ほんの一瞬だけ、その強張った表情を緩め、安心したように、ふっと、笑いかけてくれた。

「……トラ」

 私の名を、呼ぼうとした、その時だった。


「……こほっ、ごほっ……!」


 彼の身体が、くの字に折れ曲がった。

 必死に、声を殺そうとしているが、その喉からは、抑えきれない、苦しげな咳が、何度も、何度も、溢れ出てくる。

 駆け寄ろうとした近藤さんを、彼は、手で制した。

 幸い、血を吐くことはなかった。けれど、その、長い、長い咳の発作が、この、たった一日の戦で、彼の命の灯火が、どれほど、無慈悲に削り取られてしまったのかを、雄弁に物語っていた。


 夏の終わりの、どこか寂しげな夕日が、彼の、あまりにも儚い姿を、赤く、照らし出している。

 この夏、彼は、英雄になった。

 そして、その代償として、彼の身体は、もう、取り返しのつかないほど、深く、深く、病に蝕まれていた。

 その残酷な事実を、まだ、彼自身も、そして、ここにいる誰もが、本当の意味では、分かっていなかった。

 ただ、一匹の猫を除いて。


 第一章、了。

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