第十七話
池田屋事件は、一夜にして、新選組の名を京の都に、いや、日ノ本全土に轟かせた。
彼らは、ある者からは「京の守護神」と称えられ、また、ある者からは「壬生の狼」と、これまで以上の畏怖と憎悪を込めて呼ばれるようになった。
屯所には、会津藩からの感謝状や、市井の商人たちからの差し入れが、ひっきりなしに届けられた。隊士たちの顔には、激闘を生き抜いたという自信と、自らが歴史を動かしたのだという、一種の驕りのようなものさえ浮かんでいた。
その喧騒の中心にいたのが、沖田さんだった。
「池田屋での沖田組長の働き、まさしく獅子奮迅であった!」
「一番隊の切り込みなくして、この勝利はなかった」
彼は、仲間たちから口々に称賛され、そのたびに「いやあ、大したことじゃないですよ」と、はにかんだように笑ってみせた。
彼は、努めて、明るく振る舞っていた。以前のように、永倉さんや原田さんと軽口を叩き合い、私のことを見つけると、「おお、トラ、お前も元気にしてたか!」と、わざと大きな声で言って、その頭をわしゃわしゃと撫でた。
けれど、その笑顔が、ひどく、脆いものであることを、私だけは知っていた。
彼の笑い声は、どこか空虚に響き、その瞳の奥には、あの夜からずっと、底なしの闇が宿ったままだった。彼は、以前よりも、ずっと、一人でいる時間が増えた。誰にも見えない場所で、ふっと、遠い目をして、何かを考えている。そして、夜中に、彼の部屋から、押し殺したような咳の音が、微かに聞こえてくることが、何度かあった。
奈々の魂は、その全てを、痛いほどの不安と共に感じ取っていた。
大丈夫。まだ、大丈夫。彼は、まだ、戦える。
そう、自分に言い聞かせる。けれど、歴史の知識は、無慈悲な未来を私に突きつけてくる。池田屋の激闘は、彼の命を、確実に前貸しで削り取ってしまったのだ、と。
事件から、数日が過ぎた、ある日の昼下がりだった。
その日の京は、燃えるような暑さだった。隊士たちも、稽古を早めに切り上げ、それぞれが涼を求めて、木陰や縁側でぐったりとしている。
沖田さんも、今日は稽古には参加せず、「少し、頭が痛むので」と言って、自室で休んでいた。
私は、そんな彼のことが気になり、そっと、彼の部屋を覗き込んだ。障子は開け放たれ、彼は、文机の前に座り、何かを書こうとしているようだった。けれど、筆は一向に進んでいない。ただ、じっと、目の前の白い紙を、睨みつけている。その横顔は、紙のように真っ白で、額には、玉のような汗が浮かんでいた。
私は、彼の邪魔をしないように、部屋の隅の、日の当たらない場所で、そっと体を丸めた。
部屋の中は、静かだった。外から聞こえてくる、狂ったような蝉の声だけが、やけに大きく響いている。
沖田さんは、やがて、筆を置くと、ふらりと立ち上がった。そして、まるで檻の中の獣のように、狭い部屋の中を、意味もなく、歩き始めた。その足取りは、どこか、おぼつかない。
その時だった。
「……こほっ」
最初に、小さく、乾いた咳が、彼の口から漏れた。
ああ、まただ。私は、思わず、身を固くした。
けれど、今日の咳は、いつもと違っていた。
「こほ、ごほっ……げほっ、げほっ!」
咳は、止まらない。一度火がついたように、次から次へと、彼の喉から、激しい咳が溢れ出てくる。彼は、たまらず、その場にうずくまった。小さな背中が、苦しげに、大きく、大きく、波打っている。その姿は、あまりにも痛々しく、見ていることしかできない私の胸を、締め付けた。
やがて、嵐のような咳の衝動が、少しだけ、和らいだ。
彼は、ぜいぜいと、荒い息を繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げた。そして、咳を抑えていた、自らの右手を見下ろした。
その、刹那。
彼の動きが、完全に、止まった。
その瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく、大きく、見開かれる。
彼の掌には、べったりと、鮮やかな、紅が、広がっていた。
それは、庭に咲く椿の花びらのようでもあり、夕焼けの空の色にも似ていた。
けれど、それは、紛れもなく、彼自身の、生命そのものの色だった。
血。
彼が、初めて、自らの身体の内側から吐き出した、血。
「……あ……」
彼の唇から、声にならない、乾いた音が漏れた。
彼は、ただ、呆然と、自分の掌の上の、その鮮血を、見つめている。
天才剣士。人斬り。京の守護神。
そう呼ばれた男が、今、この瞬間、為す術もなく、己の身体に裏切られた、ただの、無力な青年になっていた。
その目に浮かぶのは、驚き、そして、じわじわと、彼の心を侵食していく、底なしの、絶望の色。
私は、息をすることも忘れ、その光景を、見ていた。
やがて、彼は、はっと我に返ると、慌てて、その血を、自分の袴で、ごしごしと拭った。証拠を、隠滅するかのように。
そして、その時、彼は、部屋の隅にいる、私の存在に、初めて気づいた。
私と、彼の、視線が、交わる。
彼の顔から、全ての表情が消え失せた。
鬼の副長を前にしても、死線を潜り抜けても、決して揺らぐことのなかった、彼の仮面が、今、この小さな猫の前で、粉々に、砕け散った。
そこにいたのは、ただ、自分の運命を宣告され、恐怖に震える、二十二歳の、若者の、素顔だけだった。
私は、ゆっくりと、彼に歩み寄った。
そして、その震える膝に、そっと、自分の体をすり寄せた。
彼は、何も言わない。ただ、がたがたと震える手で、私の背中を、何度も、何度も、撫で続けた。
夏の栄光は、あまりにも、儚かった。
池田屋の勝利の裏で、彼の、本当の戦いが、今、静かに、始まったのだ。
誰にも知られず、ただ、一匹の猫だけが見守る中で。