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第十六話

 

 屯所の時間は、止まっていた。


 池田屋へ向かった主力部隊を待つ者、そして、四国屋へ向かった土方さんの部隊の知らせを待つ者。留守を預かる者たちの緊張は、すでに限界を超えていた。負傷して運び込まれた若い隊士は、山南さんたちの懸命な手当てを受けているが、そのうわ言は、繰り返し、池田屋の惨状を伝えてくる。

「……火が……先生、火が……!」

「沖田組長が……ひとりで……」

 その断片的な言葉が、私の不安を、絶望的な確信へと変えていく。


(沖田さん……!)


 奈々の魂が、悲鳴を上げる。歴史の知識が、その断片的な情報を補完し、私の脳裏に地獄のような光景を映し出す。近藤隊、わずか十名。そこに、二十名以上の浪士たちが待ち構えている。数の上では、圧倒的に不利だ。沖田さんが、いかに天才的な剣士であろうと、この状況は、あまりにも、あまりにも無謀だ。


 時間は、ただ、無慈悲に過ぎていく。

 やがて、東の空が、白み始めた。

 それは、希望の光ではなかった。夜の闇が剥がれ落ち、これから目の当たりにするであろう、残酷な現実を、白日の下に晒すための、無慈悲な光だった。


 その時だった。

 門の外から、複数の、しかし統制の取れていない、重い、重い、足音が聞こえてきた。

 それは、出撃の時のような、規律正しい行軍の音ではない。傷つき、疲れ果てた獣の群れが、辛うじて巣穴へと帰り着いたかのような、引きずるような、乱れた足音だった。


「開門!」

 留守居役の隊士の声が、震えている。

 重い門が、ぎぃ、と音を立てて開かれる。

 そして、私の目に飛び込んできたのは、まさしく、地獄から帰還した亡者たちの行列だった。


 勝利の歓声など、どこにもない。

 そこにいるのは、血と、汗と、埃と、そして死の匂いにまみれた、男たちの姿だけだった。

 衣服は破れ、血で赤黒く染まっている。自力で歩いている者も、その顔には生気がなく、目は虚ろだ。仲間の肩を借り、足を引きずりながら、やっとのことで屯所へとたどり着いた者もいる。そして、担架に乗せられ、ぐったりと動かぬ者も……。


 私は、その光景に、息をのんだ。

 これが、「勝利」の、本当の姿なのか。

 私は、その地獄のような行列の中を、夢中で駆け抜けた。足元がおぼつかない。隊士たちの脚の間を、何度も、何度も、すり抜ける。


(沖田さんは? 沖田さんは、どこ!?)


 心臓が、張り裂けそうだった。彼の姿が見当たらない。まさか、あの、動かぬ者たちの中に……?

 嫌な想像が、頭をよぎる。そのたびに、全身の血が、さあっと引いていくのを感じた。


「にゃあ!」

「にゃあ!」


 私は、意味もなく、ただ、叫び続けた。彼の名を呼ぶように。けれど、私の声に気づく者など、誰一人としていなかった。誰もが、自らの傷か、あるいは、仲間の死に、心を奪われていた。


 どれほどの時間、その地獄の中を彷徨っただろうか。

 その時、私は、見慣れた人々の姿を見つけた。近藤さん、そして、土方さん。どうやら、土方さんの部隊も、池田屋へ合流していたらしい。二人は、何か、深刻な顔で言葉を交わしている。

 そして、その隣に。

 いた。

 沖田さんが、いた。


 彼は、そこに、ただ、立っていた。

 その身体には、目立った外傷はないようだった。衣服こそ、あちこちが破れ、血で汚れてはいるが、それは、おそらく、返り血だろう。しかし、その顔色は、まるで死人のように真っ白で、唇からは血の気が完全に失せている。彼は、己の足で立っているのが不思議なほど、消耗しきっていた。


(……よかった)

 全身の力が、抜けていく。よかった。生きて、いてくれた。

 私は、安堵のあまり、その場にへたり込みそうになりながらも、最後の力を振り絞って、彼の足元へと駆け寄った。

 そして、いつもするように、その袴に、自分の体をすり寄せた。温もりを、分かち合うように。彼が、ここに、確かに存在していることを、確かめるように。


「にゃあ……」

 私は、彼を見上げた。

 その時だった。

 彼が、ゆっくりと、私を見下ろした。

 そして、私は、凍りついた。


 その瞳には、何の感情も映ってはいなかった。

 春先に、私を拾い上げてくれた、あの優しい光も。

 冗談を言って、子供のように笑っていた、あの無邪気な輝きも。

 私のことを、心配そうに覗き込んでくれた、あの温かい眼差しも。

 その全てが、綺麗さっぱりと消え失せていた。


 そこにあるのは、ただ、底なしの、虚無だけだった。

 まるで、美しい硝子玉のようだった彼の瞳は、今はただ、人を斬った刀の、冷たい光を反射しているだけだった。彼は、私を、見ている。けれど、その視線は、私を通り越し、その向こうの、誰も見ることのできない、血塗られた闇を見つめているようだった。

 彼の全身からは、尋常ではない殺気が、陽炎のように立ち上っていた。それは、極度の興奮と疲労がもたらす、危険な兆候だった。


「……」


 彼は、何も言わない。

 ただ、私を、道端の石ころでも見るかのように、無感動に、無関心に、見下ろしている。

 私が、彼の「トラ」であることすら、忘れてしまったかのように。


 近藤さんが、ぽん、と、彼の肩を叩いた。

「総司、見事であったぞ。お前の働きなくして、この勝利はなかった」

 その言葉に、沖田さんは、まるで絡繰り人形のように、ぎこちなく、こくん、と頷いただけだった。

 そして、彼は、私のことなど、もう、存在しないかのように、近藤さんたちの後について、歩き始めた。


 私は、その後ろ姿を、ただ、呆然と見送ることしかできなかった。

 修羅の巷から帰ってきた彼は、もはや、私の知っている沖田総司ではなかった。

 夜が明け、地獄のような一夜は終わった。

 けれど、私の、そして、彼の、本当の地獄は、今、この瞬間から、始まろうとしていた。

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