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第十五話

 

 二つの部隊が、まるで夜の闇に吸い込まれるように屯所から消えていく。その最後の足音が聞こえなくなった瞬間、後に残されたのは、生命の気配が抜け落ちたかのような、巨大な静寂だった。


 それは、穏やかな静けさではない。全ての音を飲み込み、押しつぶすような、重く、粘り気のある沈黙。まるで、巨大な獣が、息を殺して、これから起こるであろう惨劇を待っているかのようだった。


 私は、沖田さんが去っていった部屋に、ぽつんと一匹、取り残されていた。目の前には、畳の上に置かれた、小さな、小さな、金平糖。彼の「お守り」だ。それは、この薄暗い部屋の中で、唯一、色を持つものだった。私は、ただ呆然と、その小さな星を見つめていた。


(行った……行ってしまった……)


 奈々の魂が、絶望に震える。歴史の知識が、これから起こるであろう出来事の全てを、私の脳裏に克明に映し出す。


 池田屋の二階、薄暗い行灯の明かり。踏み込む近藤さんの怒声。そして、先陣を切って、闇の中へと躍り込む、沖田さんの姿。狭い室内での、乱戦。飛び散る血飛沫、憎悪に満ちた斬り合い。

 その光景を幻視し、私は、たまらず目を閉じた。けれど、目を閉じても、耳を塞いでも、これから起こる悲劇から逃れることはできない。


 私は、彼の部屋を飛び出した。じっとしてはいられなかった。

 がらんとした屯所は、まるで魂の抜け殻のようだった。昼間の活気は、嘘のように消え失せている。残っているのは、山南さんをはじめとする、数名の留守居役の隊士たちだけ。


 彼らもまた、門の方角を、固い表情で見つめている。その誰もが、仲間たちの無事を祈りながらも、同時に、最悪の事態を覚悟しているのが、痛いほどに伝わってきた。


 時間は、まるで固まってしまったかのように、進まない。

 一刻が、一日にも、一年にも感じられる。

 私は、意味もなく、屯所の中を歩き回った。昼間、永倉さんたちが馬鹿騒ぎをしていた台所も、斎藤さんが黙々と瞑想していた道場も、今はただ、人のいない空虚な空間が広がっているだけだ。私は、彼らの残した匂いを、一つ一つ、確かめるように嗅いで回った。まるで、そうでもしていないと、彼らの存在そのものが、この世から消えてしまいそうな気がしたからだ。


 どれほどの時間が、過ぎただろうか。

 私の、猫の鋭い耳が、遠くから、微かな音を捉えた。


 からん、からん、からん……!


 半鐘はんしょうの音だ。火事を知らせる、けたたましい、甲高い音。それは、一つではない。都のあちこちで、呼応するように、半鐘が打ち鳴らされている。

「……始まったか」

 門の前で腕を組んでいた山南さんが、ぽつりと呟いた。その声は、ひどく、乾いていた。

 その音を皮切りに、世界の静寂は破られた。遠くから、人々の悲鳴とも、怒声ともつかない、無数の叫び声が、風に乗って、聞こえてくる。


 私は、屯所の塀の上へと駆け上がった。

 そして、京の夜空を見渡す。

 すると、祇園の方角の空が、不気味なほどに、赤く、赤く、染まっているのが見えた。炎だ。炎が、夜の闇を焦がしている。


(池田屋……!)


 あの赤い光の下で、今まさに、死闘が繰り広げられているのだ。沖田さんが、その身を削るようにして、剣を振るっているのだ。


(お願い、お願いだから、無事でいて……!)


 言葉にならない祈りが、胸の奥で渦巻く。

 風向きが、変わった。湿った南風が、私の毛を撫でる。その風は、都の喧騒と共に、ある匂いを運んできた。物が焼ける、焦げ臭い匂い。そして、その奥に、微かに混じる、生臭い、鉄の匂い。血の匂いだ。

 私は、塀の上で、ただ、震えることしかできなかった。この無力な身体では、何もできない。ただ、最悪の結末を、ここで待つことしか。


 その時だった。

 門の外から、複数の、しかし統制の取れていない、慌ただしい足音が、こちらに近づいてくるのが聞こえた。

「開門! 開門せい!」

 声の主は、留守居役の隊士の一人だった。彼が、慌てて門を開けると、そこには、息も絶え絶えになった、一人の若い隊士が立っていた。出動した隊士の一人だ。その肩は、斬られて、血に染まっている。

「どうした! 何があった!」

 山南さんが、その隊士の肩を抱きかかえるようにして、中に引き入れた。

「……池田屋です! 池田屋に、浪士どもが、二十名以上……! 近藤先生、沖田組長たちが、数で劣りながらも、奮戦しておられますが、このままでは……! 土方副長への、援軍要請を……!」

 若い隊士は、それだけ言うと、ぷつりと意識を失った。


 その報告に、留守居役の隊士たちの顔色が変わる。

「すぐに、土方副長の隊へ、伝令を!」

「負傷者の手当てを! 湯を沸かせ!」

 先ほどまでの、息の詰まるような静寂は、一転して、慌ただしい喧騒へと変わった。


 嵐は、今、まさに、その猛威を振るっている。

 私は、塀の上から、もう一度、赤く染まった京の夜空を見上げた。

(沖田さん……!)

 彼の名を、心の中で叫ぶ。

 けれど、その声が、彼に届くはずもなかった。

 私は、ただ、彼の無事を祈りながら、その地獄のような夜が、一刻も早く、明けることだけを、願い続けることしかできなかった。

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