第十四話
池田屋襲撃の当日、元治元年、六月五日。
その日の京は、まるで巨大な蒸し風呂だった。朝から、ねっとりとした熱気が都を支配し、空気はよどみ、息をするだけで体力が奪われていく。昼過ぎには、蝉たちが、まるでこの世の終わりを告げるかのように、狂ったように鳴き始めた。その音は、私の耳には、断末魔の悲鳴のように聞こえていた。
昨日の密議の後、屯所には、奇妙な静けさが訪れていた。それは、嵐の前の全てを押しつぶすような、重苦しい静けさだった。
もう、誰も大声で話したりはしない。道場から聞こえてくる剣戟の音も、どこか遠い。隊士たちは、それぞれが、それぞれの方法で、これから訪れるであろう「死」と向き合っていた。
私は、意味もなく、屯所の中を彷徨っていた。
中庭の隅では、原田さんと永倉さんが、珍しく二人きりで、黙って酒を酌み交わしていた。いつもなら、下らないことで大騒ぎしているはずの二人が、ただ、黙って、故郷の方角の空を見つめている。
道場を覗くと、斎藤さんが、一人、正座をして、目を閉じていた。彼は、瞑想によって、その精神を極限まで研ぎ澄ませているのだろう。その姿は、まるで鞘に収められた抜き身の刀のように、静かでありながら、触れる者すべてを斬り裂くような、凄まじい気迫に満ちていた。
近藤さんの部屋の前を通りかかると、中から、筆を走らせる、さらさらという音が聞こえてきた。きっと、故郷の家族に、手紙を書いているのだろう。その大きな背中には、この隊の全ての命を預かる、将としての、計り知れない重圧がのしかかっているように見えた。
奈々の魂は、その光景の一つ一つを、目に焼き付けていた。
ああ、これが、歴史の教科書には決して載ることのない、彼らの「最後の時間」なのだ。これから、彼らは、修羅の巷へと身を投じる。そして、その中の何人かは、二度とこの屯所の土を踏むことはない。
私は、たまらない気持ちになって、沖田さんの部屋へと向かった。
彼は、部屋の中で、隊服に着替えるでもなく、ただ、布団の上に、大の字になって転がっていた。その目は、天井の一点を、ぼんやりと見つめている。部屋の中は、蒸し暑さで、空気が澱んでいる。
「……トラ」
私の気配に気づいたのか、彼が、か細い声で私を呼んだ。
「……おいで」
私は、彼の言葉に導かれるように、その隣に歩み寄り、彼の腕の中に、そっと体を丸めた。彼は、私を抱きしめる。その身体は、この蒸し暑さの中だというのに、ひどく冷たい。そして、小刻みに震えているのが、私には分かった。
彼は、私の毛皮に顔をうずめ、まるで子供が母親に甘えるように、その身をすり寄せてくる。
「……これで、京の町も、少しは静かになるかな……」
彼の声は、私の毛皮に吸収されて、くぐもって聞こえる。
「……近藤さんの、土方さんの、夢のためだものな……」
「……怖くないよ、トラ。俺は、新選組一番隊組長、沖田総司だもの……」
大丈夫。怖くない。
彼は、何度も、何度も、そう繰り返した。それは、私に言い聞かせているというよりも、恐怖に震える自分自身の魂を、必死に奮い立たせているように聞こえた。その虚勢が、あまりにも痛々しくて、私はただ、彼の身体に、自分の小さな温もりを分け与えることしかできなかった。
やがて、彼はゆっくりと身を起こした。
その顔には、もう、先ほどまでの弱々しさはなかった。覚悟を決めた、一人の剣士の顔に戻っていた。
彼は、懐から、小さな紙袋を取り出した。そして、その中から、一粒の、星のように輝く金平糖を、そっとつまみ出した。
彼は、その小さな砂糖菓子を、しばらくじっと見つめていた。まるで、自分の命そのものを見つめるかのように。
そして、その金平糖を、私の鼻先に、そっと置いた。
「……お守り、だよ。トラ」
彼の声は、穏やかだった。
「俺が帰ってくるまで、ここで、いい子にしててね」
その、あまりにも優しい言葉。それは、私にとって、世界で最も残酷な呪いのように聞こえた。
その時だった。
屯所の鐘が、からん、からん、と、乾いた音を立てて鳴り響いた。出撃の合図だ。
沖田さんは、私に一度だけ、ふっと笑いかけると、迷いのない足取りで、部屋を出ていった。もう、二度と、振り返ることはなかった。
私は、部屋の中から、屯所の入り口へと駆け出した。
門の前には、すでに出撃の支度を整えた隊士たちが、二つの部隊に分かれて整列していた。片方は、近藤さんを筆頭に、沖田さん、永倉さんらを含む、十名ほどの精鋭部隊。もう片方は、土方さんが率いる、二十名以上の大部隊だ。
近藤さんが、自らの隊に向かって、低いが、よく通る声で告げた。
「我ら近藤隊は、これより池田屋へ討ち入る! 敵がいた場合、土方隊が到着するまで、何があっても持ちこたえろ! 死ぬなよ!」
「「「応!!」」」
それに応える、腹の底からの雄叫び。
続いて、土方さんが、自らの隊に鋭く命じる。
「我らは四国屋へ向かう! もし、そこが空振りであった場合は、ただちに池田屋へ転進する! 遅れるな!」
こちらも、地鳴りのような返事が返ってきた。
二つの部隊は、まるで二匹の黒い大蛇のように、闇夜の中へと吸い込まれていった。
やがて、屯所は、再び、死のような静寂に包まれた。
嵐が、始まったのだ。
私は、ただ、呆然と、目の前の畳の上にぽつんと残された、小さな金平糖を見つめていた。
彼のくれた、甘いお守りの前で。