第十三話
土蔵の重い扉が閉ざされてから、半日が過ぎた。
昼過ぎ、それまで屯所を支配していた不気味な静寂を破り、幹部たちに召集がかかった。私も、部屋の隅で息を潜めていたが、ただならぬ気配を察し、広間へと向かう沖田さんの後を、音を立てずに追った。
広間には、近藤さん、土方さん、山南さん、そして沖田さんをはじめとする組長格の面々が、顔を突き合わせていた。部屋の中央には、京の都を示す大きな地図が広げられている。その場の空気は、まるで真冬の池のように、表面は静まり返っているが、その下では、激しい流れが渦巻いているのが分かった。障子は固く閉められ、この会議が、隊の運命を左右する、極めて重要なものであることを物語っていた。
私は、縁側の床下に潜り込み、板の隙間から、中の様子を窺った。隊士たちの草履の匂いと、埃の匂いが混じり合う、暗く、狭い場所。ここが、今の私に許された、唯一の特等席だった。
「……古高が吐いた内容は、これで全てだ」
土方さんの低い声が、床板を通して、私の耳に直接響いてきた。彼の前には、血の滲んだ数枚の書状が置かれているのが、隙間から見える。
「奴らの狙いは、祇園祭の宵山。市中に人が溢れ、我らの目をごまかしやすい、風の強い日を待ち、御所に火を放つ。その混乱に乗じて、中川宮様を幽閉、会津の松平容保公を討ち取り、そして、帝を長州へ……。まさに、狂気の沙汰だ」
その言葉に、部屋の中にいる誰もが息をのむのが分かった。永倉さんが、ごくり、と喉を鳴らす音まで聞こえてくるようだ。
「会合の場所は、複数に分かれている。現在、我らが掴んでいるのは、祇園の池田屋、そして四国屋。どちらが本命かは、まだ分からん。だが、どちらかに、今夜、浪士どもが集まることは、ほぼ間違いない」
(池田屋……!)
ついに、その名が告げられた。奈々の魂が、恐怖に凍りつく。来た。ついに、来てしまった。歴史の転換点。新選組の名を、良くも悪くも、天下に知らしめることになる、あの事件。
「時間が無い。今夜、我々は二手に分かれ、両方を同時に叩く」
土方さんの声が、作戦の核心を告げる。
「近藤さん。あんたは、総司、永倉、藤堂を率いて池田屋へ。残りは俺が率いて、四国屋を襲撃する。もし、俺たちの読みが外れ、四国屋が空振りだった場合は、ただちに池田屋へ合流する。逆もまた然りだ。いいな」
「……うむ」
近藤さんが、重々しく頷いた。
土方さんが、沖田さんの名を呼ぶ。
「総司」
「はい」
沖田さんの、短く、張りのある返事が響いた。昨日、あれほど弱々しい姿を見せていたのが、嘘のようだ。
「池田屋の先陣は、お前に任せる」
その言葉に、部屋の空気が、さらに張り詰めた。先陣。それは、最も危険で、最も苛烈な役目。敵が待ち構える巣窟へ、一番に飛び込み、その刃で道を切り開く。それは、生きて帰れる保証のない、死地への片道切符にも等しい。
近藤さんが、慈父のような、それでいて、覚悟を問うような目で、沖田さんをじっと見つめた。
「……総司。何があっても、会合の主だった者たちは、一人として逃がすな。我らの、そして、この京の都の未来が、お前の双肩にかかっていると思え」
「……御意」
沖田さんは、顔を上げた。その横顔は、血の気が引いて青白い。けれど、その瞳だけは、まるで熱病に浮かされたかのように、爛々と輝いていた。それは、剣に生きる者だけが持つ、狂気にも似た光だった。彼は、近藤さんと土方さんを真っ直ぐに見据えると、はっきりとした声で言った。
「承知。この沖田総司の剣にかけて、必ず」
(だめ、だめだめだめ……!)
行かないで。あなたが行ったら、あなたの身体は、もう……!
叫びたいのに、声が出ない。床板を引っ掻いて、音を立てて、この会議をめちゃくちゃにしてやりたいのに、猫の身体は恐怖で竦んで動かない。この「知っているのに、何もできない」という絶望が、私の全身を苛んだ。私は、ただ歴史の傍観者でいることしか許されないのだ。
会議は、その後も淡々と続いた。各隊の配置、合図の方法、そして、抵抗する者への対処。
「抵抗する者は、斬り捨て御免」
その言葉が、やけに鮮明に私の耳に残った。
やがて、会議は終わった。
隊士たちが、一人、また一人と、固い表情で部屋から出てくる。その顔には、もう迷いはない。ただ、これから成すべきことだけを見据えた、兵士の顔つきだった。
沖田さんも、私の隠れている床下の上を、しっかりとした足取りで通り過ぎていく。彼の意識は、もう、今夜の血戦の場へと飛んでいるのだ。
一人、誰もいなくなった広間で、私はしばらく動けずにいた。床板の隙間から、隊士たちが去った後の、空虚な部屋が見える。そこには、京の地図だけが、まるでこれから起こる惨劇の設計図のように、ぽつんと残されていた。
数時間後には、この中の何人かが、二度とこの屯所の土を踏むことはないのかもしれない。
そして、沖田さんは、その身を削るような激闘の果てに、死の病をその身に呼び覚ますことになる。
運命の歯車は、もう誰にも止められない速さで、回り始めていた。
私は、ただ、その無慈悲な音を、暗い床下で、独り聞いていることしかできなかった。