第十二話
ばたん、と。
土蔵の重い扉が、無慈悲な音を立てて閉められた。
その音は、古高俊太郎という男の運命と、そして、この新選組という組織の運命が、もう後戻りのできない段階に入ったことを、明確に示していた。
夜明け前の、ひときわ冷たい空気が、私の小さな体を震わせる。これから、あの暗闇の中で、一体何が始まるというのだろう。
土蔵の前には、沖田さんが、まるで仁王像のように立っていた。中の様子を窺うことも、物音に耳を澄ますでもなく、ただ、じっと前を見据えている。その横顔は能面のように無表情で、何を考えているのか、全く読み取ることができない。
少し離れた場所には、山南さんの姿があった。彼は、土蔵を直視することができないのか、庭の木々に視線を向けたまま、固く拳を握りしめている。その表情は、苦悩と、悲しみと、そして自らへの怒りが入り混じったように見えた。
そして私は、物陰に隠れ、その二人の男と、固く閉ざされた土蔵の扉を、ただ息を殺して見つめていた。
静寂。
鳥の声も、虫の音も聞こえない。世界から、全ての音が消えてしまったかのような、圧殺されるような静寂。
それが、どれくらい続いただろうか。
最初に、その静寂を破ったのは、土方さんの、低く、ねっとりとした声だった。
「……名を言え。貴様の仲間たちの名を、全てな」
壁一枚を隔てているため、言葉の全ては聞き取れない。けれど、その声に含まれた、一切の情を排した冷徹さは、私の肌に粟を生じさせるには十分だった。
それに対し、土蔵の中からは、男の、唾を吐きかけるような罵詈雑言が返ってくる。まだ、彼の気力は折れていないのだ。
その直後だった。
ごん、という、鈍い、肉を打つような音。
そして、男の、くぐもった呻き声。
びくり、と、私の全身の毛が逆立った。
隣で見ていた山南さんの肩が、大きく震えるのが分かった。彼は、耐えきれないというように、顔を両手で覆った。
沖田さんは、微動だにしない。けれど、腰の刀の柄を握るその指の関節が、月明かりの下で、白く、白く、浮き上がっていた。
(拷問……)
本で読んだ知識が、現実の音となって私の鼓膜を揺する。これは、正義の戦いなどではない。理想をかけた、泥臭く、残忍な、殺し合いの序章だ。
土蔵の中からは、その後も、断続的に、男の悲鳴と、土方さんの容赦ない尋問の声が聞こえてきた。それは、もはや「正義」や「悪」といった言葉では割り切れない、人間の剥き出しの狂気だった。
時折、水を打つような音と、男が激しく咳き込む音が混じる。その度、山南さんは唇を噛みしめ、沖田さんの背中は、ますます硬直していくようだった。
奈々の魂は、その光景に、激しい嫌悪と、そして、どうしようもない悲しみを感じていた。
私が憧れた新選組は、もっと潔く、もっと誇り高い集団ではなかったか。けれど、現実はどうだ。彼らは、京の安寧という大義名分のもと、一人の人間を、獣のように嬲り者にしている。
これが、彼らの「誠」の、本当の姿なのか。
土方さんだけではない。この所業を、見て見ぬふりをしている沖田さんも、近藤さんも、そして、ここにいる全ての隊士たちが、同罪なのだ。私も含めて。
(違う……)
違う、と、心が叫ぶ。
沖田さんは、本当は、こんなことを望んでなどいないはずだ。彼の心もまた、今、この瞬間に、血を流しているに違いない。そう思いたかった。そう信じたかった。けれど、彼の能面のような横顔は、私に何も語ってはくれなかった。
夜明けの光が、東の空を白く染め上げる。
その時、土蔵の中から、全てを諦めたような、長く、引きずるような男の絶叫が聞こえ、そして、ぷつりと途絶えた。
まるで、壊れた人形のように、彼は、知っていることの全てを、堰を切ったように喋り始めた。場所、名前、計画の全貌。その声は、もう、人間としての尊厳など、どこにも残ってはいなかった。
静寂が、再び、辺りを支配する。
それは、先ほどの静寂とは違う。全ての終わりを告げる、絶望的な、虚無の静寂だった。
やがて、土蔵の扉が、ぎぃ、と音を立てて開いた。
最初に出てきたのは、土方さんだった。その衣服には、新しい血の跡が点々と付着していたが、彼の表情は、まるで大きな仕事をやり遂げた職人のように、満足げですらあった。その手には、男が自白した内容を記したであろう、一枚の紙が握られている。
「……近藤さん、奴ら、祇園祭の宵山に事を起こすつもりです。場所は、わからん」
「……そうか」
後から出てきた近藤さんの声は、ひどく、ひどく、疲れていた。
土方さんは、外で待っていた沖田さんに目を向ける。
「ご苦労だったな、総司。これで、大仕事に取り掛かれる」
「……はい」
沖田さんの返事は、かろうじて声の形を成している、というだけだった。その顔色は、死人のように青白い。
山南さんは、土方さんと目を合わせようともせず、ただ、うなだれていた。この一夜で、この組織の中の何かが、決定的に壊れてしまったのだ。
太陽が、完全に姿を現した。
小鳥のさえずりが、どこからか聞こえてくる。その、あまりにも平和な朝の訪れが、この場所の異常さを、かえって際立たせていた。
沖田さんが、ようやく、その場から動いた。その足取りは、まるで老人のように、ひどく、重かった。
彼は、私の前を通り過ぎる。その時、初めて、私に気づいたようだった。彼の目が、私を捉える。その瞳の奥には、私が今まで見たこともないような、深い、深い、闇が広がっていた。それは、人を斬った時の闇とも、自分の病を知った時の闇とも違う。仲間たちの非道な行いを、ただ、見ていることしかできなかった、己の無力さに対する、絶望の闇。
彼は、何も言わずに、私の前から立ち去っていった。
私は、その後ろ姿を、ただ見つめることしかできなかった。
あの土蔵の闇は、もう、決して消えることはない。それは、彼の魂に、そして、この新選組という組織そのものに、深く、深く、食い込んでしまったのだから。
そして、その闇は、これから始まる、さらに大きな悲劇の、ほんの序章に過ぎないことを、私だけが知っていた。