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第十一話

 


 あの、束の間の休息から、わずか二日後の夜だった。


 昼間の騒がしさが嘘のように静まり返った屯所に、土方さんの鋭い声が突き刺さったのは、全ての隊士が寝静まった、まさにその丑三つ時だった。


「総司、永倉、原田、藤堂! 一番隊、二番隊、八番隊、十番隊は改め、ただちに出動準備!」


 その号令は、これまでのどの出動命令とも、その響きが違っていた。切迫感、そして、後戻りは許さないという、有無を言わせぬ最終通告のような響き。寝ぼけ眼で部屋から飛び出してきた隊士たちも、その声に含まれた尋常ではない気配を瞬時に察し、顔色を変えた。

 私は、沖田さんの部屋の隅で、そのただならぬ雰囲気に息を潜めていた。彼は、一言も発さず、しかし流れるような、無駄のない動きで支度を整えていく。闇夜に紛れるための黒装束。その下に、鎖帷子を身に着ける、硬質な金属音。手甲を締め、鉢金を額に当てる。最後に、彼は壁に立てかけてあった愛刀・菊一文字則宗を手に取った。そして、まるで慈しむかのように、すっと刃を鞘から抜き、月明かりにかざして、その完璧な刃筋を確かめている。

 その横顔は、私が知る、あの優しい青年のものではなかった。獲物を狩る直前の、冷徹な獣の顔だった。


「にゃ……」

 行かないで。


 私の喉から、か細い声が漏れた。

 その声に、彼は初めて私の存在に気づいたようだった。彼は、こちらを振り向くと、ほんの一瞬だけ、その氷のような表情を緩めた。そして、私のそばまで来ると、一度だけ、力強く、私の頭を撫でた。それは、いつもの優しい撫で方ではなかった。「待っていろ」という、無言の命令のようだった。

 彼は、それだけをすると、もう振り返ることなく、仲間たちが待つ闇の中へと消えていった。


 彼らが出動した後の屯所は、まるで墓場のように静まり返っていた。

 残されたのは、山南さんをはじめとする数人の隊士と、炊事係の者たちだけ。誰もが、固唾を飲んで門の方角を見つめている。私は、沖田さんの姿が消えた暗闇を、ただじっと見つめていた。

 時間が、恐ろしく長く感じる。一刻が、まるで一日のように。


 私は、彼の部屋を飛び出し、夜の屯所を彷徨い始めた。

 彼の温もりを、彼の匂いを、彼の存在の証を探して。

 道場は、がらんとしていた。昼間、あれほど熱気に満ちていた空間が、今はただ、ひんやりとした木の匂いと、墨の匂いを漂わせているだけ。月明かりが、板張りの床に、隊士たちの稽古の跡である無数の傷を、生々しく映し出していた。


 台所も、静まり返っていた。いつもなら、誰かが夜食を求めてやってきたり、酒盛りの準備をしたりしている時間だが、今夜は誰一人いない。かまどの火は落ち、そこには冷たい灰が残っているだけだった。


 私は、彼の部屋に戻った。

 そして、彼の布団が敷かれたままになっているのを見つけると、その中に潜り込んだ。彼の匂いが、まだ、微かに残っている。私は、その匂いに顔をうずめ、必死に彼の温もりを思い出そうとした。

 奈々の魂が、絶望に泣き叫ぶ。

(古高俊太郎……!)

 昼間、幹部たちが交わしていた密談の断片を、私の耳は拾っていた。あの時、聞き取れた、たった一つの名前。歴史の知識が、その名前の持つ意味を、私に突きつける。

 今夜は、ただの斬り合いではない。新選組の、そして、この国の運命を左右する、大きな事件の始まりなのだ。そして、沖田さんは、その渦の中心へと、今、まさに飛び込んでいっている。


(お願い、死なないで……!)


 祈ることしかできない。無力な獣の身体で、ただ、彼の無事を祈ることしか。

 その無力さが、私の心をじわじわと蝕んでいく。もし、私が人間だったら。もし、言葉を話せたら。何か、変えられただろうか。いや、きっと何も変えられない。歴史の大きな流れの前では、一個人の力など、あまりにも無力だ。分かっている。分かっていても、諦めることなど、できなかった。


 夜が、最も深くなる。

 もう、どれほどの時間が経ったのか。私の感覚は、とうに麻痺していた。

 その時だった。

 遠くから、複数の、しかし統制の取れた足音が、こちらに近づいてくるのが聞こえた。

 帰ってきたのだ。


 私は、布団から飛び出し、門へと駆け寄る。

 隊士たちは、疲労困憊といった様子だったが、その目には、任務をやり遂げたという、暗く、獰猛な光が宿っていた。そして、彼らの中央には、荒縄でぐるぐる巻きにされた一人の男が引きずられていた。髪は乱れ、着物は破れ、口には猿ぐつわを噛まされ、声も出せない。けれど、その目だけが、松明の明かりに照らされて、憎悪に燃え、隊士たちを睨みつけていた。


(あの人が、古高俊太郎……!)


 隊士たちは、その男を屯所の裏手にある土蔵へと乱暴に引きずっていく。土方さんと、近藤さんも、厳しい顔でその後を追った。

 沖田さんは、その土蔵の入り口に、まるで仁王像のように立った。中には入らず、外の警護に当たるらしい。彼の顔は、相変わらず能面のように無表情だった。返り血一つ浴びていないその姿は、彼がどれほど圧倒的な剣技で、この捕縛劇を成し遂げたのかを物語っていた。


 ばたん、と。

 土蔵の重い扉が、無慈悲な音を立てて閉められた。

 その音は、あの男の運命と、そして、この新選組という組織の運命が、もう後戻りのできない段階に入ったことを、明確に示していた。

 夜明け前の、ひときわ冷たい空気が、私の小さな体を震わせる。これから、あの暗闇の中で、一体何が始まるというのだろう。

 私は、ただ、固く閉ざされた扉を、呆然と見つめることしかできなかった。

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