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第十話

 

 鬼の副長が作り出す凍てつくような緊張と、仏の総長が醸し出す陽だまりのような優しさ。


 その二つの空気が奇妙に同居する壬生屯所の日々は、張り詰めた弓の弦のように、いつ切れてもおかしくない危うさを孕みながら過ぎていった。来るべき「Xデー」を前に、隊士たちの顔からは日に日に余裕が消え、誰もが口を閉ざし、自らの内なる覚悟と向き合っているかのようだった。


 その日の朝も、屯所の空気は重く、湿った熱気がよどんでいた。私は、日課となった屯所内の「安全地帯」を探す散歩の途中だった。土方さんの部屋の前は、その殺気だけで私の毛が逆立つので、もちろん通らない。道場も、今は真剣な稽古の邪魔になるだけだ。

 結局、私は一番落ち着く場所――沖田さんの部屋の縁側へと向かった。彼は、珍しく部屋の中で座禅を組んでいた。けれど、その精神はあまり集中できていないようで、時折、苦しげに眉根を寄せている。やはり、先日の祇園での出来事が、彼の心に影を落としているのだろう。


 私は、彼の邪魔をしないように、少し離れた縁側の隅で丸くなった。じりじりと肌を焼く初夏の日差し。どこからか聞こえてくる、大工仕事の音。そのあまりにものどかな情景と、この屯所に漂う死の匂いの不釣り合いさに、奈々の魂はめまいを覚えそうになる。


 そんな、重苦しい静寂を破ったのは、屯所の台所の方から聞こえてきた、永倉さんの、天を衝くような怒声だった。


左之さの! てめえ、俺が楽しみにしてた最後の沢庵を食いやがったな!」


 その声に、ぴりぴりしていた屯所の空気が、一瞬だけ、びくりと震えた。声のした方へそろりと向かうと、台所の入り口で、永倉さんが仁王立ちになり、口をもぐもぐさせている原田さんを指差していた。

「うるせえな、新八! 早い者勝ちだろ、こんなもんは! 大体、お前は昨日、俺の饅頭を食ったじゃねえか!」

「あれはてめえが『いらねえ』と言ったんだろうが! 沢庵は別だ! あれは俺の魂の支えだったんだぞ!」

「たかが沢庵一切れで、魂とか言うな!」


 二人の、子供のような言い争い。それに気づいた若い隊士たちが、最初は遠巻きに、やがて興味津々といった顔で集まってくる。普段、土方さんの前では猫のように縮こまっている彼らが、この時ばかりは、「やれやれ!」「新八っつぁん、負けるな!」などと、無責任なやじを飛ばしていた。やがて、言い争いは取っ組み合いの喧嘩に発展し、二人の巨体が土埃を上げて転がり回る。


 その、あまりにも馬鹿馬鹿しく、しかし、どこか懐かしい光景。

 張り詰めていた空気が、少しずつ、緩んでいくのが分かった。

 すると、母屋の方から、大きな笑い声が響いた。

「がはははは! お前たちは、本当に元気だなぁ!」

 声の主は、近藤さんだった。彼は、呆れたような、それでいて心底楽しそうな顔で、二人の喧嘩を眺めている。

「よし、俺が後で何か美味いものを奢ってやるから、そのくらいでやめておけ! なあ、トシ、お前もそう思うだろう」

 近藤さんに話を振られ、いつの間にかそこにいた土方さんは、心底うんざりした顔で「……くだらん」とだけ呟いた。けれど、その口元が、ほんの少しだけ、緩んでいたのを、私の目は見逃さなかった。


 この一瞬だけ、この場所は、京の壬生屯所ではなく、江戸の試衛館に戻っていた。皆が、ただの剣術好きの仲間として、笑い合っていた、あの頃に。

 奈々の魂は、その光景に、涙が出そうなほどの愛しさを感じていた。そして、それと同時に、これほどまでに尊い日常を、歴史の奔流は、やがて無慈悲に奪い去っていくのだという事実を思い出し、胸が締め付けられるのだった。


 その日の夕刻。

 昼間の騒ぎが嘘のように静まり返った屯所で、私は沖田さんの姿を探していた。彼は、一人、例の椿の木のそばにしゃがみ込んでいた。

 私がそばに寄ると、彼は「やあ、トラ」と、久しぶりに、本当に穏やかな顔で笑った。昼間の騒動が、彼の心の棘をも、少しだけ抜いてくれたのかもしれない。

「おいで」

 彼が言うので、私はためらわずにその膝に飛び乗った。彼は、私の体を優しく撫でながら、ぽつり、ぽつりと言葉を漏らす。

「……みんな、馬鹿だよなぁ。でも、ああじゃないと、やってられないのかもね。俺も、少しだけ、昔に戻ったような気がしちゃった」

 その声には、祇園の夜に見せたような、暗い影はなかった。


 彼は懐から、小さな紙袋を取り出した。金平糖だ。

 一粒を自分の口に放り込むと、もう一粒を、私の目の前に差し出した。その小さな、色とりどりの星屑。甘く、そして、あまりにも儚い。

「……お守り、だよ」

 彼が、そう呟いた。

 何からのお守りなのか。それは、きっと、彼自身にも分かっていなかっただろう。

 私は、その金平糖を食べることはできない。けれど、彼のその気持ちに応えるように、彼の指先をぺろりと舐めた。彼は、くすぐったそうに笑った。


 ああ、神様。

 どうか、この一瞬が、永遠になりますように。

 この、誰よりも優しく、誰よりも強い人が、ただ、穏やかに笑っていられますように。


 初夏の長い日が、ようやく暮れようとしていた。夕焼けが、屯所の屋根を茜色に染め上げている。それは、これから流されるであろう、夥しい血の色にも似ていた。

 私は、そんな不吉な考えを振り払うように、彼の膝の上で、ただひたすらに、喉を鳴らし続けた。

 この束の間の休息が、嵐の前の、最後の静けさであることを知りながら。

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