第一話
私の最後の記憶は、大型トラックの無慈悲なヘッドライトと、紙が宙を舞う光景だった。
なぜ、そんなことになったのか。
話は、その日の午後まで遡る。
無機質なキーボードの打鍵音だけが、澱んだオフィスに響いていた。
私、相川奈々(あいかわなな)、二十八歳。灰色のパーティションに囲まれ、変わり映えのしない数字をパソコンの画面に打ち込むだけの毎日。それが私の現実だった。
心が乾いてひび割れていくような日々の中で、唯一の潤いとなってくれるのが、百年以上も昔の時代に想いを馳せることだった。幕末。動乱の時代。命を懸けて理想の誠を貫こうとした、不器用で、あまりにも人間くさい男たちの物語。
中でも、私の心を掴んで離さない人がいた。
新選組一番隊組長、沖田総司。
人を斬ることを生業としながら、その素顔は子供のように無邪気で、冗談を言っては屈託なく笑ったという。しかし、その身は不治の病に蝕まれ、誰よりも強かったはずの剣士は、志半ばで畳の上で逝った。その強さと儚さのアンバランスさが、どうしようもなく私の胸を締め付けるのだ。退屈な現実を生きる私にとって、彼の短い人生の煌めきは、眩しすぎるほどの憧憬だった。
その日、私は仕事を早めに切り上げ、足早に神保町の古書店街へと向かっていた。目当ては一冊の専門書、『新選組隊士銘々伝』。少し値は張ったが、手に入れた時の高揚感は何物にも代えがたい。近くの喫茶店に飛び込み、震える指でページをめくる。あった。沖田総司の項。不鮮明な肖像写真と、彼の生涯を綴った活字。それを指でなぞるだけで、乾いた心に温かい何かが満ちていくのを感じた。
「……幸せだなぁ」
ぽつりと漏れた呟きは、コーヒーカップの湯気に溶けて消えた。
このささやかな幸福が、永遠に続けばいいのに。そんなありえない夢想に浸りながら、私はゆっくりと席を立った。夜の空気が、火照った頬に心地よかった。
そして、冒頭の光景へと至る。
次に目が覚めた時、最初に私を襲ったのは、今まで経験したことのない種類の、骨の芯まで凍らせるような寒さだった。次に、鼻をつく湿った土の匂い。獣の糞尿が混じったような不快な刺激臭と、どこからか漂う微かな線香の香り。
(……寒い……くさい……)
死んだはずなのに? 地獄とは、こういう場所なのだろうか。
混乱する頭で身じろぎすると、手足が奇妙な感触で動いた。短い。そして、毛むくじゃらだ。何かがおかしい。起き上がろうとすると、四本の足がもつれて、ぺたんと無様に地面に突っ伏してしまう。
「きゅう……」
喉の奥から、自分の意思とは無関係に、か細い鳴き声が漏れた。
パニックが思考を焼き尽くす。何が起きている? 私はどうなった? 必死に顔を上げると、目の前に小さな水たまりがあった。そこに映っていたのは、信じがたい、悪夢のような光景だった。
濡れて汚れた茶色の毛並み。不安げに震える、二つの三角の耳。そして、恐怖と絶望を映した大きな、大きな翠色の瞳。
そこにいたのは、今にも死にそうなほど痩せこけた、一匹の子猫だった。
(……私?)
声にならない絶叫が、魂の奥で木霊する。
あまりの事実に意識が遠のきかけたが、周囲の光景がそれを許さなかった。見渡す限り、立ち並ぶのは低い木造の家屋。道は舗装されておらず、石畳が敷かれている。そして何より、行き交う人々は皆、時代劇でしか見たことのない着物を着て、男たちは頭に「ちょんまげ」を結っているのだ。
(時代劇の、ロケ……?)
一縷の望みを抱いたが、それはすぐに打ち砕かれた。あまりにも、すべてが生々しすぎるのだ。建物の古びた柱の質感、道端に打ち捨てられた野菜クズの腐臭、人々の声。聞こえてくる言葉のイントネーションは、どことなくまろやかで古風だった。「~どす」「~はる」……ああ、これは、京ことばに近い響きだ。
まさか。そんなはずはない。
けれど、私の鋭敏になった猫の耳は、決定的な会話を拾ってしまった。
すぐそばを通り過ぎていく、商人らしい男たちのひそひそ話。
「近頃、壬生のあたりは物騒でかなわんわ」
「なんでも関八州から来た浪士組とかいう連中が、屯所にしてるらしいで」
「いつ天誅があるかもわからん。夜歩きはでけしまへん」
――壬生。
――浪士組。
その単語を聞いた瞬間、全身の血が凍りついた。
点と点が、最悪の形で線になる。私の幕末オタクとしての知識が、これは紛れもない現実なのだと、無慈悲な烙印を押した。
文久三年、春。新選組がまだ、壬生浪士組と呼ばれていた時代。
場所は、花の都、京都。
ああ、神様。なぜ。なぜよりによって、こんな時代に。
憧れていた場所。焦がれていた時代。でも、それはあくまで物語の中だから楽しめたのだ。血と硝煙の匂いがする、本物の動乱の時代に、こんな無力で小さな獣として放り込まれるなんて。
絶望が、思考のすべてを塗りつぶした。
その、瞬間だった。
ぐううぅぅぅぅぅ………。
腹の底から、内臓がねじ切れるような強烈な痛みが突き上げてきた。
空腹。
あまりにも純粋で、絶対的な生命の欲求。
私が猫になった理由とか、ここが本当に幕末なのかとか、そんな高尚な悩みは、胃袋の絶叫にかき消されていく。死にたくない。食べないと、死ぬ。
人間・相川奈々の理性は、ここで完全に機能を停止した。
私は、ただ生きるためだけに、震える四本の足でよろよろと立ち上がる。そして、どこからか漂ってくる食べ物の匂いを頼りに、小さな体を引きずるようにして、一歩を踏み出した。
これが、沖田総司の猫となる「私」の、二度目の人生の、絶望に満ちた幕開けだった。