年の瀬に思う事
年の瀬に、まとまらぬ思考をまとめよう。
年の瀬である。
今年もブラブラと、街並みを眺め歩く。
大晦日、正月にもかかわらず、実家ではなくどこぞのホテルや旅館で過ごす人が増えたように思う。連中の思いを、私が理解することはないだろう。
それにしてもこの「思う」という言葉、最近よく目につくようになった。この言葉は非常に便利だ。日本民族の根本を表しているような言葉である。かくいう私もよく使う。
「思う」は保険である。自分の意見が必ずしも正しいものではないという言い訳である。これにより、意見の正否を争う時間をできるだけなくそうというある種の気遣いが見えている。いかにも日本人らしい。
この「思う」という言葉を、我々は報告や論文等、確定的な情報を求める場でも多用する。新人なんかはよく、上司に報連相する際に「思う」を使い、上司に怒られるというパターンがあるが、この新人を我々は責めることはできない。その上司も、もっといえば社長も、国会議員も、インフルエンサーも、新発見をいくつもしている学者さえも、この「思う」を多用しているのだから。
人間の活動は、まず「思う」ことから始まる。そうしてずっと生きてきたのだから、無意識に出てしまうのも仕方がないし、これを極力排除しようとする現代社会にも疑問を感じる。しかしこれも、本当はそんなことはなくて、私個人の単なる「思う」なのかもしれない。
思う、思う、思う……私がこれから抜け出せる日は来るのだろうか。日本人が、世界がこれから抜け出せる日は来るのだろうか。曖昧でフタをすることが有史以来の人類の業ともいえる。
私はいつになれば確たる事実を発することができるのだろう? 会社をクビになったときか。災害が起きたときか。大切な人を亡くしたときか。それとも……自分が死ぬときか。
思う、思う、思う……これからも私は思い続けるのだろう。世界中の人々も思い続けるのだろう。そしてその無数の思いが交錯したとき、とんでもない悲劇が起こるのだろう。それに気づいた時はもう遅い。曖昧にし続けた、後回しにし続けたツケを支払わなければならない。
その時私たちは、無垢な子どもに銃すら向けるのだ。
終わり