旦那さまはぷかぷか浮かぶ幽霊でした。
首都から遠く離れた辺境伯領に辿り着いた時点で、嫌な予感はしていた。町の人々はどこか暗い顔をしていて、エヴェリーナの乗った馬車が通り過ぎるのを痛ましそうに見送る人もいた。
本来なら花嫁であるエヴェリーナの歓迎ムードになっていてもおかしくないのにそんな素振りもない。まるで喪に服しているかのようだ。
(変、ですね……)
嫌な予感がしたまま辿りついた辺境伯の当主の館。
そこにかけられた黒い天幕を見て、エヴェリーナはつい天井を仰いでしまった。
(ああ、神さま。……私は、遅かったのでしょうか)
館の入口にいた門番が、エヴェリーナの乗った馬車を見て眼球が飛び出すのではないかというほど大きく目を見開いた。それから慌てて走って門の中に入って行く。
しばらく待っていると、家令と思われる人物と一緒に戻ってきた。
エヴェリーナが馬車から降りた瞬間、家令が口を開く。
「申し訳ございません。先に伝令を送ったのですが、どうやら行き違いになってしまったようで」
「……というと、やはり」
「ええ。つい一週間前に、ご主人さまは眠るように息を引き取られました」
遅かったのだ。なるべく早く馬を走らせてもらったけれど、首都から辺境伯までは山を一つ越えなければいけないので、どうしても半月ほど時間がかかってしまう。
だから懸念していたことが起こってしまった。
「いまは、埋葬前の最後の別れの時間です。奥さま――とお呼びしてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんです」
「――奥さまも参加されますか?」
「この恰好でもよろしいのですか?」
「……急ぎですから、構いません」
「確か荷物に黒いコートがあったと思います。それを羽織って参加させていただきますわ」
「それでは、わたくしめが案内させていただきます」
一緒についてきたメイドに荷物の中から黒いコートを持ってきてもらうと、エヴェリーナはそれを羽織った。
エヴェリーナが着ているのは、大人しい色合いのドレスだ。だけど葬儀には似つかわしくない。いくら急なこととはいえ、せめて黒いものを身に着けた方がいいだろう。
(まさか、こんなことになるなんて)
家令に連れられて、葬儀が行われている広場まで連れて行かれる。
もうすでに葬儀も終盤になっていて、家令から伝えられた通り、埋葬前に花を手向けたりお別れの言葉を掛けているところだった。
広場に現れた見慣れない令嬢を見て、多くの人が察したのだろう。
気の毒そうな視線が突き刺さるなか、渡された白い花を受け取り棺に近寄る。
棺の蓋は開いていた。そこには黒髪のまだ若い男性が横たわっている。まるで眠っているかのように見えるが、顔は青白く息をしていないことを告げている。
棺に花を添えようとして、ふと、エヴェリーナは空を見上げた。その行動に、広場にいた人々が首を傾げる。
(まあ)
思わず花を落としてしまった。
はしたない行為だけれど、それも無理はないだろう。
エヴェリーナの視線の先には、棺の中で覚めない眠りについているはずの男性と同じ顔をした男性が腕を組みながらぷかぷか浮かんでいたのだから。
「あら」
思わず漏らしてしまった声に、ぷかぷか浮かぶ男性が反応をする。
目が合った。
エヴェリーナは何事もなかったかのように目を逸らすと、新しく渡された白い花を棺に添える。
踵を返すと、『おい、おまえ』と呼びかけられたが、無視して歩く。
その間も、『おい、いま目が合っただろう。……俺のことを、無視しているのか? 本当は見えているのだろう? なんか誰にも俺の姿が見えないみたいで、少し寂しくって……』と、呼びかけられ続けていたが知らないふりをした。
◇
エヴェリーナはカレス公爵家の次女として産まれた。
上の姉は王太子の婚約者として数年前に嫁いで行ってしまい、兄は家格のつり合いが取れる家から嫁を貰っていて、弟にも同じ年頃の婚約者がいる。
だからエヴェリーナもいつかは父の決めた相手と結婚することになるのだろうと、ぼんやりそんなことを考えながら生きていた。
エヴェリーナは昔から少しぼんやりしている性格をしていた。その理由はエヴェリーナ本人が一番よくわかっているのだが、その性格を両親やきょうだいたちは心配していて、もう十八歳となるのに結婚相手どころか婚約者すら決まっていない。
そんなエヴェリーナの許に、王命があったのがつい一か月前のことだった。
王命だから父も無下にできず、エヴェリーナは急遽、嫁ぐことが決まった。
準備は慌ただしく行われ、首都で国王や父など高位貴族が見守るなか、婿が不在のまま結婚式が執り行われた。
本来なら婿も参加する予定だったのだが、直前に体調を崩してしまい、来られなくなったのだ。
エヴェリーナが嫁ぐことになったのは、隣国との国境の砦を守る、クレセント辺境伯家だ。まだ十八歳と若いけれど、早くに両親を亡くしているため唯一の直系である彼が辺境伯家を継いでいた。
だけどそんな若き辺境伯には、致命的な欠点があった。
それは幼い頃から病弱なこと。当主になってからも体調の悪い日が続いていて、このままだと高貴な血を引く辺境伯家の血筋が途絶えてしまうと案じた王家が、急いで結婚相手を探すことにしたのだ。
当主と年齢の近い令嬢は多くいるけれど、それでも多くの高位貴族の家がその誘いを断った。辺境伯領は首都から遠く離れたところにあることと、病弱な当主に娘を嫁にやるメリットを感じないと考えたものが多かったからだ。あとは単純に、同じ年頃の令嬢は結婚をしているか婚約者がいるかのどちらかで、そのどちらでもない令嬢が少なかったからというのもある。
だからと言って子爵家や男爵家から娘を嫁がせるわけにはいかないと悩んだ末、王家は王命を出すことにした。
そして白羽の矢が立ったのが、エヴェリーナだった。
婚約者がいないのが仇になったと、父である公爵が嘆いたのが記憶に新しい。
父は最後まで渋い顔をしていたけれど王命には逆らえない。それにエヴェリーナ自身も、自分に役立てることがあるのならと前向きに結婚の話を受け入れていた。
この結婚はもともと期限付きだ。後継者が産まれたら、エヴェリーナは離縁して自由にしていいと言われている。王家と言えども、一人の令嬢の運命を一生縛り付けておくことはできないと考えたのだろう。早くて一年、遅くても三年ほど辺境伯でのんびり暮らしてその後どうしようかなーと考えながら、エヴェリーナは半月の馬車の道のりを耐えることができた。
(それがまさか、もうすでに旦那さまが亡くなってしまったなんて……)
これだといくら頑張っても後継者を望むことはできない。
「うーん。どうしましょうか。少なくとも一年は離縁できませんし、すぐ家に帰ることもできませんね。とりあえずお父さまにお手紙を送ったほうが良さそうです」
目と鼻から水を垂れ流しながら見送ってくれた父は、まるで今生の別れの様子だった。辺境伯領と言えども同じ王国内で暮らしているのに大袈裟なと母は呆れていたけれど。
まさか辺境伯領について早々、一度も会話をしたことがない旦那の葬儀に参加することになるとは思わなかった。
『やっと見つけた! なあ、俺の姿、見えているのだろう?』
黒い影がにゅっと飛び出てきて、思わず悲鳴を上げそうになる。
寸前で推しとどめて、エヴェリーナは見なかったふりをして布団に寝転がった。
天井を見上げるが、先ほど棺の中で見た黒髪の男性が見下ろしてくる。
『なあ、無視はやめてくれよぉ』
「……」
『……やっぱり、聞こえてないみたいだな。視線が合ったのも気のせいだったのか』
「…………」
『う……いや、俺はもう十八歳だから、泣くわけにはいかないんだ。というか、俺どうなったんだろう。……誰かの葬儀をしているみたいだったが、もしかして、俺の葬儀? はは、そんなわけ……』
「………………」
『……はあ。死んでしまったとしたら、用意したものはどうしたらいいんだ。死ぬ前にやり残したことも多いし。というか、このご令嬢は、もしかして……俺の嫁? 確か首都で結婚式を挙げるとか陛下が言っていたような気がするけど……熱を出してからの記憶が曖昧だな。……もし妻だとしたら、俺の所為で迷惑をかけてしまったな。せっかく美しいご令嬢なのに、俺なんかのところに嫁いできたから……。はあ、どうしよう。やっぱり俺、死んだのかな。はあ」
「…………あの、そろそろ静かにしてくださいませんか? それにため息が多い」
もう消灯時間だというのに、ぷかぷか浮かぶ旦那さまはひとりで喋っていらっしゃる。
エヴェリーナの返答に驚いたのか、雄弁に喋っていた男性が静かになった。
ベッドの上に座り直し、エヴェリーナはぷかぷか浮かんでいる旦那さまに微笑みかける。
「はじめまして、幽霊の旦那さま」
『――やっっっぱり、俺の姿が見えているんだな!』
「ええ、見えていますわ。旦那さま、 あなたの妻になったエヴェリーナでございます」
『俺は、ノア・クレセント。クレセント辺境伯だ』
「ええ、よろしくお願いしますね」
ノアが手を差しだしてくるので、エヴェリーナもそれに倣った。
握手を交わすことは叶わずに、手が空をきる。エヴェリーナはそうなることがわかっていたので微笑むだけだったが、ノアは呆然としていた。
『やはり、俺は死んだのだな』
「お悔み申し上げます」
『直接言われるときついな、それ……』
少し悲しそうな顔になる旦那さま。
まるでいまやっと、自分の死を実感したような顔になっている。
『そうか……やはりな。でも、なんでおまえ――つ、妻は俺の姿が見えるんだ』
「エヴェリーナでいいですよ。――私が見えるのは旦那さまだけではありません。……昔から、よく見えるのです」
エヴェリーナは、家族や周囲から見ると常にぼんやりしている少女だった。それによりいろいろと誤解を受けてきたが、エヴェリーナはただぼんやりしていただけではない。
エヴェリーナには幼少期から幽霊を見ることができた。
見るだけではなく話すこともできる。できないのは触れることだけ。
幼い頃はなにもわからずに、何もないところに向かってしゃべったりしていて、一部の使用人から気悪がられていたが、それも成長をするにつれて減っていった。
(まあ、お父さまやきょうだいたちは、私が空想好きだと思っていらしたみたいですが)
成長をするにつれて、エヴェリーナは幽霊が自分以外に見えないということに気づいたのだ。そして見えることは、おかしいことだということにも。
それでもエヴェリーナは幽霊との接触をやめることはしなかった。幼い頃のように無差別に接することはなくても、周囲の目を盗んで話すことがある。
幽霊の多くは人の姿をしている。人の姿をしている幽霊はほとんどがまともな幽霊であり、悪霊は人の姿をしていないため見分けが付きやすい。
その為人の姿をした幽霊を見つけると、エヴェリーナは彼らの話に耳を傾けた。
ただ、傾けるだけだったけれど。
「というわけで、旦那さま。早い話ですが、何か心残りがありませんか?」
人の姿をした幽霊の多くが、心残りからこの世にただよっていることが多い。
おそらくノアも、何か未練があるのだろう。
『……心残り……ああ、あるな』
「先ほどやり残したことが多いと仰っていましたね」
『ああ。嫁を迎え入れることになり、その準備を頑張ってくれた使用人たちに、褒美を出そうとしたんだ。俺は昔から病弱で、いろいろと苦労もかけてきたからな。だが、俺は死んでしまった。もう用意していたプレゼントを渡すことも叶わない』
「そうですか。わかりました。そのプレゼント、私から皆さんにお渡ししましょう」
『え? いいのか?』
「ええ。それで旦那さまが成仏できるのなら」
『……成仏、成仏か。そうだな。死んだのにいつまでも未練がましくこの館に居ては、駄目だよな……』
目を輝かせたり、落ち込んだり、ノアの表情は忙しない。
会う前から若き辺境伯とはどういう人なのだろうかと思っていたが、思ったよりも親しみやすい人なのかもしれない。
『じゃあ、明日から頼んだぞ』
「ええ、私にお任せください。それでは夜も更けてきましたので、そろそろ眠りたいのですが――」
『ん?』
「ここはレディの部屋ですよ。いくら幽霊の旦那さまとはいえ、さすがに寝顔を見られるのはお恥ずかしいのです」
『ッ! す、すまない。邪魔したな。おやすみ!』
「ええ、おやすみなさい」
幽霊におやすみなさいというのはどうなのだろうか、そう考えながらエヴェリーナは微睡みに身を委ねた。
◇◆◇
旦那さまの葬儀の後、エヴェリーナは使用人たちの紹介を受けた。
多くの使用人はエヴェリーナを心よく受け入れてくれたが、一人だけ険しい顔をしたいた人がいた。
侍女長のマーサだ。初老の女性で、先々代の辺境伯の時代からこの館で働いているという。
侍女の多くは貴族出身であることから、マーサの所作は洗練されていて、険しい表情は変えなかったものの、この館の女主人として礼儀は尽くしてくれている。
部屋で軽い朝食を済ませた後、エヴェリーナはぷかぷか浮かぶ旦那さまを連れながら、マーサにノアの寝室に案内させた。
マーサは怪訝そうな顔をしたものの、「わかりました」と淡々と返事をして案内してくれた。
昨日案内された夫人の寝室は、女性らしいスタイルの部屋だった。
だけどノアの部屋は、淡い色の調度品で揃えられていて、シックで安らかな部屋に見える。
『俺は病弱で部屋にいることが多かったんだ。だから少しでも寝苦しさが減るように、部屋の明かりや寝具にみんな気をつかってくれた』
「そうなのですね。良いお部屋ですね」
お世辞ではなく、エヴェリーナは心からそう思った。
マーサは部屋の前で待機しているため、ノアとお話していてもおかしいと思われないだろう。
『こっちに来てくれ』
ノアがベッドの傍で呼んでいたので近づいて行く。
『ベッドの下の、右から二つ目のタイルのところがあるだろう。そこを押してくれ』
言われるがままタイルを押すと、ガコンと小さな音が響いた。
『隠しスペースだ。この存在は俺と、両親ぐらいしか知らない』
中には丁寧に包装されたプレゼントと思われるものがいろいろ入っていた。
「これを皆さんに配ればいいのですね」
『ああ、苦労をかける』
「良いのですよ。お任せください」
一度にすべての箱を抱えることはできないだろう。
何度か部屋を往復しないといけないかもしれない。
――それからエヴェリーナは、三日を掛けてほぼすべてのプレゼントを配り終えた。
家令にはネクタイを。使用人たちにはお菓子を。厩番には新しいブラシを。庭師には枝切りばさみを。
それぞれ実用的で、よく考えられたプレゼントだった。
みんなは一様に目をキョトンとさせていたが、「旦那さまからのお手紙がありました。そこには日ごろの感謝を込めて皆さんにプレゼントを贈ってほしいと書かれていたのです。おそらく、自分の死が近いことを知っていたのでしょう」と用意していた言葉を伝えると、涙ながらに喜んでくれた。
(愛されていたのですね、旦那さま)
本当は手紙などなく、すぐ傍に旦那さまがぷかぷか浮かんでいるのに、それを伝えられないことが少しもどかしかったけれど。
『さて、残りはひとつだな。……マーサの分だ』
怪訝な顔をしながらも、マーサはエヴェリーナの行動を咎めるようなことはしなかった。
ただ、たまにじーとにらみつけるようにエヴェリーナを見ては、視線が合うと目を伏せて逸らしてしまう。
その視線の意味が気になったが、恐らく王命でやってきたエヴェリーナを辺境伯家の一員として認めていないのかもしれない。
(先代の辺境伯さまも、産まれた時からマーサがお世話をしたと聞きました。マーサにとって、旦那さまは孫のような存在なのかもしれませんね。それが後継ぎのためだけにやってきた、私みたいな娘を快く思っていないのかもしれません)
それでも、ノアのためにもマーサにプレゼントを渡さなければいけない。
『マーサは、母の代わりでもあった。早くに失くした母の代わりに、よく俺の面倒を見てくれていたんだ』
「……」
『マーサには特別なプレゼントを用意してある。祖母の形見のブローチだ』
夕食前にマーサを部屋に呼ぶと、彼女は嫌そうな顔をすることなくやってきた。もしかしたら薄々自分の番がきたということに気づいていたのかもしれない。
「マーサ。旦那さまからの手紙に書いてありました。母親代わりに自分を育ててくれたことを感謝しているそうです。これを」
「……開けてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんですわ」
マーサは包み紙を丁寧に開いていく。そして箱の中から出てきた青色のブローチを見て、さっと顔を青ざめさせる。
それからキッと、エヴェリーナをにらみつけてきた。
「これがお坊ちゃまからのプレゼントだなどと、そんな嘘をおっしゃらないでください。これは、王女さまの――先々代辺境伯夫人の大切な宝物なのですよ!」
先々代伯爵夫人。彼女は、クレセント辺境伯が守護する国境の砦の隣に位置する、王国の王女だった。
隣国との関係を少しでも強固にするためにと、政略結婚でこの国の辺境伯家に嫁いできた。マーサは王女の侍女として、一緒に辺境伯家にやってきたのだそうだ。
(王家が私と旦那さまの結婚を急いだのは、隣国の王女の血筋を残しておきたかったからでしょう。もう百年以上も隣国間に戦争は起こっていないけれど、いつ何があるかわかりませんからね)
「ずっとおかしいと思っていたのです。奥さまを迎え入れることが決まった後、お坊ちゃまは確かにおかしな動きをしていました」
(どうやら気付かれていたようですよ、旦那さま)
「お坊ちゃまがプレゼントを用意していたというのは、本当のことでしょう。ですが、これだけはあり得ません。これは、私のような者が持っていてもいいものではないのです。――それに、病床のお坊ちゃまは確かに苦しそうでしたが、絶対に治すと約束してくれたのです。死を覚悟して、会ったこともない奥さまに手紙を託すなど、あり得ません」
彼女の目は真剣で、威圧されそうになる。
ぷかぷか浮かんでいるノアも、呆然としていた。
「あなたはこれをどこで手に入れたのですか? このブローチは、先代から大切に保管されていたはずです。……ま、まさか盗んだなんてこと……」
さすがに辺境伯家に嫁いできたエヴェリーナのことを大きな声で盗人だと断定することはできないのだろう。最後の方の声は掠れていて、鋭い視線にはどこか別の何かを求めているようでもあった。
「マーサ。私は確かに旦那さまから、それをあなたに渡すようにと託されました」
「嘘です」
「嘘ではありません」
「でしたら手紙を見せてください」
「……手紙は……」
もちろん手紙などない。
迷っていると、ぷかぷか浮かんでいたノアがマーサの隣に降りてきた。
『マーサ。これは確かに俺から、おまえへのプレゼントだ。俺自身は祖母に会ったことはないが、父から託されたんだ。隣国の辺境伯に嫁いできた時、一人だと心細いと嘆いていた祖母を慮って、家族や貴族としての地位を捨てて一緒に付いてきてくれたマーサに、祖母はいつも感謝していたんだ。だから自分の大切な宝物を、いつかマーサに渡そうとしていた』
ノアは幽霊だ。その声がマーサに届くことはない。
それが少しもどかしく思い、エヴェリーナは口を開いた。
「先々代の夫人は、あなたにいつも感謝していたそうです。家族や貴族としての地位を捨ててまで一緒に付いてきてくれたあなたに」
「どうしてそれをっ」
「マーサ。実は、私には幽霊が見えるのです」
「幽霊?」
「ええ、いまマーサの隣にいるのですよ。幽霊の旦那さまが」
ビクッとしてさっと左右を見渡すマーサだったが、その瞳にノアの姿が映ることはない。
「嘘です」
「嘘ではありません」
慌てたノアが口を開く。
『お、俺がまだ幼かった時、薬を飲むのが嫌で館中を逃げ回っていた時、いつもマーサが見つけてくれたんだ。馬小屋に居ても、お母さまの寝室に隠れていても、厨房に隠れていても。すぐに見つけてくれた』
「旦那さまが仰っています。幼い頃、薬を飲むのが嫌で逃げ回っていた旦那さまをいつもマーサが見つけていたのですね」
『あ、あと、六歳の時にマーサの眼鏡を踏んで壊したこともあるな。あの時は馬の所為にしてすまなかった。いや、きっと気づかれていただろうな。それから六歳までお、おねしょをしていたのをお父さまやほかの使用人にも隠してくれていた、な』
「……えっと、旦那さまが六歳の時にマーサの眼鏡を壊したのに、馬の所為にしたそうですよ。それから……旦那さまは、六歳のころまで粗相をされていたのですね……」
マーサの目が見開く。
「粗相のことは、お坊ちゃまと私しか知らないはずっ。……本当に、そこにお坊ちゃまがいらっしゃるのですか」
「――ええ、すぐ隣にいますよ。黒髪に、青い瞳の旦那さまが」
「っ!?」
口を押さえて目から涙を流したマーサが座り込んだ。
ノアはそんなマーサに寄り添い、温かい言葉を紡いでいく。
その言葉をエヴェリーナは伝える。
『マーサ。昔からいろいろ世話を掛けたな。やんちゃだった俺をしっかり叱ってくれるのはマーサぐらいだった。厳しいところもあったが、それでも寝込んでいると睡眠もとらずに額のタオルを替えてくれたり、一人で寂しいと言えば手を握ってくれたり……。本当に感謝でいっぱいだ』
「お坊ちゃま……!」
『お父さまが言っていた。お祖母さまは、いつかマーサを故郷に返してやりたいと考えていたんだってな。だがマーサは断り続けていたそうだな。お祖母さまを看取っても故郷に帰りたがらなかったと。父を、その血筋を必ず立派に育てるのが自分の使命だからと』
「ええ、ですがお坊ちゃまを最後までお守りすることはできませんでした。私には故郷に帰る資格などありません。それに、帰ってももう私を待っている人は誰もいないでしょう」
『……だからせめてもと、祖母が大切にしていたブローチを渡したかったのだ。このブローチは俺ではなく、おまえにこそ相応しい。誰よりも祖母を慮ってくれた、おまえにこそ』
「……お坊ちゃま……。マーサが、マーサがいただいてもよろしいのですか?」
『ああ。これを、おまえに託す』
「ありがとう、ございます」
ノアの言葉を伝え終わっても、マーサは泣きつづけていた。ブローチの入った箱を抱きしめて。
エヴェリーナがハンカチを渡すと、マーサは感謝を述べながらそれで涙を拭う。
「ありがとうございます、奥さま。お坊ちゃまの言葉を、私に伝えてくれて……本当に本当に、ありがとうございます」
「……いえ、私にできるのはこれぐらいですから」
幽霊の心残りを聞けるのは、幽霊が見える自分ぐらいだ。
だからこれまでも幽霊の話に耳を傾けてきた。
(だけどこうして亡くなった人の想いを伝えるのは、少し……切ないですね)
マーサはお礼を述べながら部屋から出ていく。
『エヴェリーナ。明朝、夜が明ける前に、付いて来てほしいところがある』
真剣な顔でそう伝えるノアの姿は、最初の頃よりも透けているようだった。
◇◆◇
クレセント辺境伯の館の裏手には小さな丘があった。その丘の頂に、ノアの両親と祖父母、それからノアが眠っている。
その丘をエヴェリーナはぷかぷか浮かぶ幽霊の旦那さまと一緒に上っていた。
館に着いた初日に、埋葬のために上った時は多くの人と一緒だったためゆっくりと景色を見ている暇はなかったが、いまは暗闇のため手元の明かり以外見えない。
それでも幽霊だからかノアには見えているみたいで、迷いなく案内してくれている。
『少し丘を登る。ラフな格好をしてくれ』
そう言われたときはどうしたのだろうかと思ったが、マーサに相談するとすぐに乗馬用の服を用意してくれた。その時のマーサの目元はまだ腫れていたけれど、不愛想だった時とは違い終始笑顔だった。
(おかげで歩きやすい服装だわ)
心の中でまたマーサに感謝を伝える。
『子供の頃、この丘を登ろうとしたら、マーサたちによく止められたんだ。俺の体力だと上りきる前に倒れるって。だから、墓参りにはなかなか訪れることが叶わなかった。幽霊になってすぐ飛んでいくことができるのは、便利だな』
ノアの呟きのような話を聞きながらあっというまに丘の頂に辿り着いた。
まだ周りは暗いからよく見えないけれど、ランプとノアの案内を頼りにクレセント家が眠る埋葬地に近づいていく。
『ここに、眠っているんだな』
「最後の旦那さまの顔は、とても安らかでしたよ」
『……そうか。熱にうなされていて気づいたときには、俺は浮かんで幽霊になっていたからな。……死とは突然なのだな』
「幽霊の皆さまは、ほとんどがそう仰られます」
人の死は突然だ。
だからこそ、死んですぐ後悔をする。
後悔をして、未練を残して、この世にただよう幽霊になるのだろう。
旦那さまもそうだった。彼は自分が死んだことに心を痛める使用人たちがずっと悲しみと共に生きていくのではないかという、未練があったのだろう。
プレゼントを渡したことによりその未練は少し軽くなり、ノアの姿は最初の頃よりも透けている。
(もうそろそろ、旦那さまは成仏されるのかしら)
いままでで出会った多くの幽霊は、エヴェリーナに未練を話すと、それで満足したのかしばらくすると成仏して消えてしまっていた。
エヴェリーナはただ話を聞くことしかできなくて、それが最善だと思っていた。
(それなのに、悲しく思うのはなぜなのでしょう。旦那さまとは会って少ししか一緒に過ごしていないはずなのに。……もう、お別れをしなければならないのですね)
『エヴェリーナ』
「あ、お花ですね。すぐに」
並ぶ五つのお墓に、一輪ずつ白い花を添えていく。すぐに用意することができた花がこれだけしかなかったのだ。
最後にノアの墓に一輪添えようとして、その手が止まった。
『どうしたんだ?』
「い、いえ……これを置いたら、旦那さまが消えてしまうような気がして」
『それは、まだ大丈夫だ。……最後の未練もあるからな』
「最後の未練?」
ノアが微笑んだ。少し悪戯っぽい笑みだった。
『それはこれからのお楽しみだ。……そろそろ、時間だな』
花を握ったまま、ぷかぷか浮かぶノアを目線で追いかけていると、空はもうすでに白みかけていた。いままで暗くてよく見えなかった周囲が、だんだんと明るくなってくる。
『ここから見る日の出は絶品だとお父さまが言っていた。俺も死んでから初めて目にしたのだが、どうだ、すごいだろう?』
両手を広げて目を輝かせるノアの背中越しに、日の出に照らされたクレセント辺境伯領の街が浮かび上がっている。
その朗らかで温かみのある光景に、エヴェリーナは目を奪われていた。
(ここで、旦那さまは暮らしてきたんだ。そして、私がこれから過ごすかもしれないところ)
公爵家にいた時ですら、こうして頂から街を見下ろしたことはなかった。
『この光景はなによりも宝だ! だからこれを、エヴェリーナ、おまえに見せたかったんだ』
「私に?」
『ああ。……恥ずかしい話なんだが、生前につ、妻になる女性のプレゼントを考えていたのだが……実は何も思い浮かばなかったんだ。だからプレゼントが用意できていなくて……。この景色が、プレゼントということにしたいのだが、だめ、だろうか?』
不安そうなノアの表情を見て、エヴェリーナは胸いっぱい空気を吸い込んで吐きだすと、明るい空に負けじと朗らかに笑った。
「嬉しいです。素敵なプレゼントをありがとうございます、旦那さま」
『……ああ、喜んでもらえて、嬉しいよ』
エヴェリーナと違い、ノアは少し寂しそうに微笑んだ。
それから無言のまま、エヴェリーナとノアは隣に並んで、光に満ちていく街を見下ろしていた。手にはまだ花を握りしめている。
お互いに遠くない別れに気づいて、何を話していいのかわからなかったのかもしれない。
先に静寂を破ったのはノアの方だった。
『どうやら、そろそろお別れみたいだ』
「旦那さま……」
ノアの姿はすっかり透けてしまっている。いまにも風に吹かれて消えてしまいそうだ。
(先ほど最後の未練と言っていましたが、私へのプレゼントだったのですね。……だからこそ、笑ってお別れしなくては。きちんと成仏してほしいですから)
エヴェリーナが微笑みかけるが、ノアはやはり少し寂しそうだった。
『エヴェリーナ。せっかく嫁いできてくれたのに、死んでしまってすまないな』
「いいえ、大丈夫ですよ」
『この国では、結婚したら一年は離縁することが叶わない。夫との死別の場合でも同じだ。だからこれから最悪一年は、俺と婚姻したままになるが……』
「それも運命でしょう。私はあなたと結婚できて、よかったと思っていますわ」
『そう、か?』
「はい。私が幽霊が見えるからこそ、旦那さまの想いをマーサやほかの使用人たちにも伝えることができました。数日と短い間でしたがとても有意義な時間でした。――旦那さま、ありがとうございます」
『……そう言ってくれるのは嬉しいのだが、なぜ、泣いているんだ?』
「え?」
自分の頬に触れると濡れていた。
笑って別れた方が幸せになれるはずなのに、どうして自分は泣いているのだろうか。
わけがわからないエヴェリーナの傍にノアがぷかぷか浮かびながら近づいてくる。
『涙を拭って上げられれば良かったんだけどな。あいにく、俺は幽霊だから』
ノアの手が頬に伸びてくる。その手がほとんど消えかかっていることに気づき、また涙が零れた。
「人との別れは、ここまで辛いものなのですね」
『そう言うな、エヴェリーナ。――また、未練が残ってしまうだろ』
「それは困ります。きちんと成仏してくれないと、悪霊になるかもしれませんからね」
『え、悪霊??』
「この世に未練が残ったまま成仏できないと、悪霊になるらしいですよ。――だから旦那さま、私たちは笑って別れましょう」
『……そうだな。エヴェリーナ。短い間だったが、世話になった。俺のことを忘れて、幸せになってくれ』
「ええ、旦那さまも。私のことを忘れて、きちんと成仏してくださいね」
自分がきちんと笑えているのかはわからない。
だけど目の前のノアが満面の笑みを浮かべていることに、安堵する。
そのノアの姿がどんどんどんどん薄くなっていく。
目尻に雫が溜まっている。瞬きをすると、もうすでに目の前にノアの姿はなかった。
「短い間でしたが、楽しかったです、旦那さま」
その言葉がノアに届いたのか、確かめるすべはない。
◇
丘を降りると、そこにはマーサが待っていた。
エヴェリーナの顔を見ると、すべてを察したのか目を伏せる。
「もしかして、お坊ちゃまはもう……」
「はい。最後は、素敵な笑顔でしたよ」
「……そうですか。奥さま、朝食はどうなさいますか?」
「部屋で食べようかと思います」
マーサと共に館に戻る。
この館にやってきてからずっと傍に旦那さまがいて、あるはずのない温もりを感じていたのかもしれない。
傍に誰もいないということに、物寂しさを感じてしまっている。
(時間が経ったら、これも消えてなくなるのでしょうか?)
マーサと別れて部屋に戻ると、つい顔を上げて周囲を確認してしまう。
だけど、どこにもノアの姿はなかった。
部屋に食事が運ばれてくる。気を利かせたのか、食事を運んできてくれたのは、マーサだった。
食事には温度が逃げないように銀色の蓋が被せられている。
マーサがその蓋を開けた瞬間、エヴェリーナは悲鳴を上げてしまった。
「きゃあ!」
『すまない、どうやら俺は、成仏しきれなかったみたいだ』
「どうされましたか、奥さま!」
蓋と共ににゅっと顔を出したのは、先ほど成仏したはずのノアだった。
衝撃的な光景に悲鳴を上げると、マーサが慌てる。ノアも目を真ん丸にしている。
「えっと、旦那さま。どうして、ここに?」
「え、そこに旦那さまがいらっしゃるのですか!?」
「はい。――って、そうではなくって、どうして成仏していないんですか!」
タイミング悪く顔を出したことを恥じているのだろうか。
幽霊のはずなのに、ノアの顔は少し赤い。
『俺も、成仏したと思ったんだ。それなのに、一向に天に召される気配はなく、まだこの世にぷかぷかと浮かんでいた。――どうやら俺には、新しい未練ができたらしい』
「と、いうと――」
『エヴェリーナ。俺はおそらく、おまえが泣き止むまで成仏することができないんだ。――いや、違うな。つ、妻を幸せにしないと、駄目なのかもしれない』
「死んでいるのに?」
『しんでいるのに、だ』
「ぷかぷか浮かんでいるだけなのに、私を幸せにできるのですか?」
『する。してみせる。そして、成仏してやる』
気合一杯と言った様子のノアの姿を見るエヴェリーナに、先ほどまでの悲壮感はなかった。
コロコロと口をあけて笑い、それに釣られてノアも笑う。マーサも少し呆れ顔だ。
「これからもよろしくお願いしますね、幽霊の旦那さま」
本当の別れがいつ来るのかはわからない。
それはすぐかもしれないし、まだ遠い先の未来の話なのかもしれない。
その時には、今度こそ笑顔で別れよう。
そう心に誓うエヴェリーナであった。