第22話 つまらない昔話
クロードは、翌日未明に国境を越え、ジルヴェイグ大皇国に戻ってきた。
アンドーチェという少女と、クラリッサという女性を伴って、帝立フローリングス大学のある東の土地までの旅は、一週間ほど。
その間に、クロードはアンドーチェやクラリッサとぎこちないながらも話をして、少しは距離を縮めていた。
漆黒の馬車の中は、外装と違ってマホガニーの美しい木目と優しい色合いの草木染めの布張りで構成され、マダム・マーガリーが所有しているだけあって随分と乗り心地がいい。少なくとも、砂漠から流れてくる砂がそこかしこに溜まるクロードの自宅よりは、よほど人間のくつろげる空間として設計されている。
クロードの対面の座席に並んで座るクラリッサとアンドーチェは、口数少ないものの、双方嫌がっている様子はなかった。二人が改めて並んでみると、黒髪緑目で美しい母娘は一目で親子と分かるほど、よく似ている。
とはいえ、二人の間にある距離はそう易々と縮まらないだろう。時間だけではない、やむを得ぬ立場や事情が高く厚い壁となって立ち塞がっている。
こればかりは近道などない、クロードにできることだって限られている。せいぜいが、ささやかながら話の相手になるくらいしかできそうにないが、ないよりはマシだ。
その意欲を蓄えていたクロードの目の前で、アンドーチェが外の風景を眺めながら、こうつぶやいた。
「今頃、マダム・マーガリーやヴェルセット公爵は、上手くやっておられるのでしょうか」
すると、待ち構えていたクロードとまったくの同時に、クラリッサも応じた。
「きっと大丈夫だよ」
「きっと大丈夫よ」
異口同音とはこのことで、大人の二人はどちらがアンドーチェと会話をするか目配せして譲り合った末、アンドーチェは再会したばかりの母よりも気兼ねなく話せるクロードとの対話を選んだ。
「あの、クロード様。今更ですが、どうして私———たちは、あなたにここまでしていただけるのでしょう」
「うん、今更だね。ただ、疑問に思うのも無理はない」
意気込んではみたものの、クロードも二人の淑女に肩入れする理由の一つ——自身の身の上話を積極的に話したいわけではなかった。
だが、それを抜きにして他の理由を立て並べても、説得力に欠けるだろう。そう考え、クロードは少しばかり不幸で理不尽な身の上を語ることにした。
「前に少し言ったね。僕は、ジルヴェイグ大皇国の元皇族一族の出身だと」
「はい。しかし、実際に皇族だったのはお父上の代まで、クロード様は平民の身分で生まれたと」
「そう。僕の祖父にあたるロマン・リュミヌーという人は、歴代皇帝の二代に渡って筆頭親族として輝耀家を名乗ることを許された……つまりは非常に優秀で、神籤という皇帝選出システムがなければおそらく皇帝に推挙されていただろう、とさえ、あの神籤を最重要視する国で誉めそやされていた人物だった」
「お名前を耳にしたことはありますわ。かの国では唯一、皇帝の代理を務められる輝耀家の長、代替わりする皇帝に変わり長年摂政に相当する役目を果たされたと」
クロードは頷く。クラリッサのように近隣国の政治の中枢にいた人物であれば、クロードの祖父ロマン・リュミヌーの偉業と栄光は確実に知っているだろう。
未だにクロードはそんな祖父を尊敬しているし、本来であれば生涯にわたって人々の敬意と称賛をもって見送られるべき偉人だ。
しかし、ジルヴェイグ大皇国の歴史に名を残した祖父は、それを拒否した。その道を強いて選ばず、己の名誉と業績を残らず捨て去る原因となったクロードの父に付き添って生きていくことを選んだ。
クロードの視点でその経緯を簡単に説明すると、こうなる。
「僕の父は、そんな祖父を大変尊敬していた。他の皇族や貴族たちもそれは同じで、祖父は実質的に二代の皇帝と遜色ない権力を持ちつづけ、しかし厳格かつ謙虚、己の力を誇るような真似は一切しなかった。人気が出るのも当然だろう。加えて、祖父の薫陶を受けた父自身も間違いなく実力を備え、将来を有望視されていた」
クロードは身内贔屓をするつもりは決してない。むしろ、祖父と父に明らかな欠点があってくれればよかったのに、とさえ思う。そうすれば、自分の不甲斐なさも遺伝だと言い張れたのだ。
だが、どこからどう見ても祖父と父は類稀なる優秀さを誇っていたし、だからこそそれが失脚の最大の原因となった。
「控えめな祖父の待遇に対し、父だけでなく祖父に心酔する皇族貴族たちの不満があったのは事実だ。おそらく、父も彼らの巧言に気をよくして、不満を口にしていたんだろう。それが最悪の結果を招き、祖父も父もまとめて反逆者の汚名を着せられて政治の場から抹殺されたわけだ」
有史以来、権力者が嫌うのは、己を脅かせる者だ。その可能性が万に一つでもあれば、どうにかして排除しようとする。
ゆえに、清廉潔白さや謙虚さというのは、あくまで時の権力者から敵視されないための政治的態度、処世術に過ぎない。実態はどうであれ、そのように装い、無用な争いを回避する知恵だ。
その点をクロードの祖父は熟知していたが、若かったクロードの父は上手く理解できていなかった。それが悲劇の始まりとなり、あとは一家揃ってありきたりな没落の道を辿ることになった。
実のところ、それだけなのだ。クロードとしては、不幸で理不尽な、と思わなくもない。しかし、古今東西、権力闘争とはそういう論理で皆が動き、わずかでも隙を見せれば抹殺される獣さえ恐れる生存競争の場なのだから、負けたほうが悪いのだ。
ただ、それを聞いたアンドーチェは、不可解な点を見逃さなかった。
「その、それだけの権勢を誇ったお方でさえ、反逆者の汚名を雪ぐことはできなかったのでしょうか?」
「祖父は信心深い人でね。これも神の思し召しだと言って、誣告された罪をすべてを受け入れて平民になったんだ。傲慢な己や僕の父を神が嫌い、ジルヴェイグ大皇国のためにならないとおっしゃったのなら、それに従うまで……と本人の口から聞いたよ」
同時に、クラリッサも別の視点から疑義を抱いていた。
「もし、クロード様のお祖父様が本心からそう思っていらしたとしても、その後のことまで予見されておられかったとは考えづらいかと。手を打てたのに、打たなかった。おそらく……もう、政治の場から離れたかったのでしょう」
「そのとおり。多分、祖父はもう疲れていたんだと思いますよ」
クラリッサと同じように、と口に出しかけて、クロードは慌てて自分の口を塞いだ。小さく咳払いをして、語りを再開する。
「自身の権勢が絶大に上り詰めたときに生まれた、遅くにできた息子を甘やかしすぎたと考えていたのかもしれません。とにかく、祖父は父を責めなかった。生前の父はそれに気付けるほど余裕がなく、怒りと失望の中で交友のあった人々までもが排除される状況を見過ごすしかなく、ついには病に倒れた。元輝耀家の地位にあったにもかかわらず、使用人を雇うこともできず雨が降れば汚水の匂いが漂うような家に住み、困窮のただなかで恨みにより殺され……まったくどうしようもない最期を迎えるしかなかった」
思い返すことも躊躇われるような、苦い苦い記憶だ。
クロードと両親は、地方都市の貧民街に程近い家に住んでいた。三人で住むには狭く、淀んだ用水路のそばという人々から避けられる立地で、周囲からはよくいる都落ちの没落貴族と思われていた。
唯一、クロードの祖父については、交流のあった祖父の古い知人が密かに屋敷へ匿い、最期まで看取ってくれたのだ。もちろん権力者たちに悟られていただろうが、老い先短く国中で世話になった者も多いから、そのくらいならば、と見逃されていたに違いない。
とにかく、理不尽の中でも救われることは一つくらいあった、というわけだ。
しかし、それ以外は最悪と言ってよかった。
「それで終わればまだよかったんだが、元輝耀家への恨みは海よりも深く、山よりも高く蓄積されていたらしく、今度は僕が標的になった」
アンドーチェの顔が曇る。他人の話でも、理不尽に理不尽が重なると彼女は納得がいかなくなり、ついには我慢できなくなって質問をぶつけてきた。
「ですが、クロード様は皇族の身分ではなく、生まれる前の出来事でしかないというのに、それでもですか? それは、八つ当たりや逆恨みの類ではありませんか」
「そのくらい、父が祖父の偉大な業績をぶち壊したことは、ジルヴェイグ大皇国の人々にとって重いことだった、とでも思っておこう。ともかく、僕はかの偉大なるロマン・リュミヌーの孫ではなく、大罪人の子として扱われていたらしくてね」
祖父の威光は、翻って父の罪を大きくしただけだった。
もし祖父がジルヴェイグ大皇国の政権中枢にいたならば、どれほどよかったかと嘆く人々は大勢いた。
どれほど有能な官僚や大臣がいたとしても、輝耀家の名に違わぬ名宰相ロマン・リュミヌーにはおよばない。そう言って、いなくなった祖父を惜しむ人が増えれば増えるほど、没落の発端となったクロードの父への憎悪が深まる仕組みだ。
成人前だったクロードもまた、その憎悪の一部を引き受けざるをえなかった。
「大学の寮では暗殺の危険性があるからと、教授に手引きしてもらって大学内の迷宮のような書庫に隠れ住んでいたこともある。フローリングス辺境伯に散々頭を下げて帝立大学の警備を強化してもらったり、嫌味を言われつづけたり、なんてのはまだいいが、最悪だったのは押しかけてきた暴漢どもに、父と祖父の墓を教えろと脅迫されたときだったかな。墓を暴いて反逆者の骨を犬に食わせてやる、だなんて言われた日には、瀕死の僕でさえ腹が立ったもんだ」
実家を離れ、東の砂漠に面したフローリングスの帝立大学に入学したかつてのクロードを待ち受けていたのは、命の危機と侮辱の日々だった。大多数の常識的な人々はほぼ無関係のクロードを憎むような真似はしないが、そうでない人々の行動は常軌を逸することも珍しくない。
特に、累が及んで権力の座から追われた貴族たちの怨念は凄まじく、今後皇帝への反逆が起こらぬよう見せしめのために、などともっともらしい理由を並べて、クロードをあえて惨たらしく殺そうとしたことなど一度や二度ではない。
そのたび、クロードは師匠である教授や比較的良識のある大学関係者に助けられ、命からがら逃げ延びた。嫌味も罵倒も無視して、勉学に打ち込むことでクロードは正気を保っていられた。
そのせいで、生きている人間よりも死体と向かい合った時間のほうが長くなり、法医学者という地位を得てしまったのだから、皮肉な話だ。
ふと、クロードは聴衆の二人を窺った。
驚きのあまりか、クラリッサは口元を手で覆い、アンドーチェはさらに顔を曇らせている。
ようやく、クロードは己の過ちに気付いた。
「失礼、レディたちには刺激の強い話だった。忘れてほしい」
何とも締まらないが、これ以上は話す必要もないだろう。クロードは面倒な身の上話を打ち切ることにした。
その代わり、なぜ自分たちを助けたのか、というアンドーチェの疑問には誠実に答えようと努める。
「だからまあ、理不尽な出来事はこの世に腐るほどあって、無力な僕たちはそんな場面では力を合わせて乗り越えていくしかない。たとえ相手が見ず知らずだろうと、その場にいたのなら乗り合わせた舟、それこそ神の思し召し、とでも嘯いてね」
実のところ、理由などどうでもいいのだ。立場のある大人になれば、誰かを助けることに理由が必要になるだろうが、幸いにもクロードには大した立場などない。
不幸も理不尽も、誰もが余すことなく被っていることなど知っているからこそ、困っているときはお互い様なのだから、居合わせたなら助けてやればいい。
大人なのにその程度の考えしか持っていないことをアンドーチェから隠すために、御託を並べて情けない身の上話を口にしただけだ。助けられたほうが気まずくならないように、とクロードにしては気遣いをしたつもりだった。
クラリッサはそのことに気付いているだろうか。しかしながら、目の前の淑女は気付いていても見なかったことにするだろう。
案の定、クラリッサは微笑み、そのように言葉を引き継いでくれた。
「では、今回私たちは幸運だった、ということにしておきましょう」
「うん、それがいい。幸運は続かない、ということも肝に銘じておけば完璧だ」
おそらく、それでアンドーチェは納得していないだろうが、もう話は締められてしまった。今更掘り返すほど躾の悪いことはせず、アンドーチェは何も言わなかった。
むしろ、クラリッサのほうが何かを言いたげに、クロードを見つめている。間違っても自分に惚れたわけではないだろう、そう確信してクロードは尋ねる。
「どうかしましたか、レディ。僕が何か気に触ることを言ってしまったのであれば」
「いいえ、そのようなことはありませんわ。ただ……クロード様に会えたことは、私やアンドーチェにとって、義父やマーガリー叔母様にとっても、本当に幸運だったのでしょう」
しみじみと、そして淑やかに、クラリッサはわずかながら内心を吐露した。
「やってきたのが他の誰でもなくあなただったからこそ、私たちは最悪の結末を回避できたのです。一度きりの幸運が何もかもを好転させることもあります。どうか、幸運の使者となったことは誇りに思ってくださいまし」
翠緑色の瞳は、力強くクロードを見つめていた。
もう一つの幼さの残る翠緑色の瞳は、母の言葉を支持するように小さく頷き、滅多にない褒め言葉に戸惑い落ち着かないクロードを見て、笑みをこぼす。
格好がつかないまま、クロードは癖っ毛の頭を照れ隠しに掻くしかない。
クロードを追い詰める意思などなかったクラリッサは、少し弾んだ声で娘の名を呼び、馬車の窓の外へ視線を移した。
「見て、アンドーチェ。青々とした草原に、金色の夕日、それらを遮るものは何一つないなんて、本当に美しいわ」
アンドーチェとともに、クロードも馬車の窓から外を見る。
広がる景色は、ジルヴェイグ大皇国西部特有の、大規模な牧草地となっている丘陵群だ。なだらかな丘に丈の短い柔らかな草が生い茂り、牛馬や羊たちに恵みを与えている。
そして乾燥した気候は、夕日を黄金に変える。風でなびく草原の波はどこまでも続き、道のはるか先まで常緑の香を届けていく。
雨の多い森林地帯にいたアンドーチェも、王城に閉じ込められていたクラリッサも、このような景色を見たことはなかったのだろう。
横顔のよく似た母娘は、もう誰にも縛られていない。茫々たる大地の果てまで目を凝らし、まだ見ぬ土地を望む。
「ええ、そうですね、お母様」
自身を母と呼んだその一言に、クラリッサは思わずアンドーチェへ振り返る。
アンドーチェはというと、素知らぬ顔のまま、窓の外へ視線を向けたままだ。
「アンドーチェ……」
クラリッサの吐息のような声に、アンドーチェはいつもの調子でこう返した。
「それはそうと、お母様。落ち着ける場所に着いたら、まずクロード様の癖毛を整えて差し上げようと思っています」
「あら、それはいい案ね。私も手伝いましょう」
突然の話題転換に、クロードははたと、己の無精を指摘された気がした。
「……ひょっとして、見過ごせないほどだらしなく見えるのかい?」
「というよりも」
アンドーチェとクラリッサは目を見合わせて、それからおかしそうに微笑む。
「一時でも家族になるのでしたら、そのくらいのお節介は焼かせてください」
家族。
まったくもって、クロードは返す言葉もなかった。
母と娘は、家族になれたのだから。




