第16話 老いてなお客人は矍鑠と
クロードとアンドーチェは目を見合わせる。少なくとも、今日のクロードにアンドーチェ以外の客の予定はない。
すると、アンドーチェが進んで扉へと向かう。クロードは手紙を新聞の下に隠し、扉を開けるアンドーチェを見守ることにした。誰が来たとしても、執事見習いのアンドーチェのほうが来客のあしらいに慣れているだろう、情けなくもクロードはそう思った。
軽い咳払いをして、アンドーチェは執事らしく、音もなく扉を押して誰何した。
「はい、どなたでしょうか?」
そこまではよかった。
来客の顔を確認したであろうアンドーチェが、明らかに声を震わせて、素早くクロードへと振り返ったのだ。
「ク、クロード様!」
「どうした?」
普段と違い、クロードは真面目で神妙な声色に聞こえるよう応じたつもりだったが——アンドーチェを押しのけて来客がやってくると、「はて?」と首を傾げざるをえなかった。
無断入室してきた来客は、短い白髪の老人だった。六十代半ばから七十くらいだろうか、とはいえ、老人とは思えないほど体格はよく、先日会った王宮付武官アルキスに勝るとも劣らない。それは軍服らしき紐飾りの多い礼服と赤い鞘のサーベルが見栄えするほどで、顔のしわで予想させる年齢よりもはるかにキビキビした足の動きでやってきたのだ。
よく見れば、白髪の老人の後ろには護衛らしき筋骨隆々の男性たちが二人ついてきていた。さらに廊下にはまだ手勢がいるようで、一体全体この物々しさは何なのか、部屋の主人であるクロードはまるで予想だにしない事態に身動きが取れない。
そんな戸惑いをよそに、白髪の老人はクロードの前に立ち、真正面から見据えてきた。
「貴殿がエルネスト・クロードか」
その声は、さして大音量でもないくせに、恐ろしいほどに威圧的で、腹の底から畏怖が湧き上がる。耳ではなく体に直接的に響いてくるものだから、クロードは白髪の老人がただものではないと悟る。
そんな大人物が、わざわざクロードを訪ねてくる理由など——考えてもみたが、やはりあったため、クロードは礼儀正しく接することにした。
「ええと、閣下、どこかでお会いしましたか?」
「アルキスから聞いている。我が義娘の秘密を暴かんとする無謀な男がいる、とな」
王宮付武官アルキス。イヴォンヌとともにクロードへ接触して、ドゥ夫人からの手紙を秘密裏に渡してきた人物の名がここで出るということは、アルキスはこの白髪の老人へクロードについてすべて話したということだろう。
それだけの高位の人物、大人物で白髪の老人となると、当てはまるのはごく少数だ。加えて、ここがロロベスキ侯爵領都ゾフィアであることを勘案すると、やってこられるのは一人しかいない。
「まさか」
それでもまだ信じられないクロードへ、白髪の老人はついに名乗った。
「メレディッド・ロイバード・ルチル・メイリン・オヴ・ヴェルセット。それとも、ヴェルセット公爵と名乗ったほうが通りがいいかね、Dr.クロード」
白髪の老人は、長い長い自身の名前に誇りを持っているようだ。その名に偽りはなく、クロードの想像どおり、名前のとおりの人物だろう。
確かにクロードは会えることなら会ってみたかったが、まさかクラリッサの義父であるヴェルセット公爵自らやってくるとは思いもしなかった。おずおずとこちらの様子を窺っているアンドーチェにとっては、義理の祖父に当たる可能性のある人物だ。
護衛の一人に扉を閉められ、出入り口が塞がれたところで、クロードは観念して自らも名乗ることにした。頭を下げ、胸の前に右手を置き、歌が響いていくように喉から声を通らせる。この作法をやるのは、幼少期以来だった。
「お目にかかり恐悦至極にございます、公爵閣下。私の名は、エルネスト・クロード。ジルヴェイグ大皇国、帝立フローリングス大学にて教鞭を執る、しがない法医学者であり……あとはそうですね、没落貴族の係累、という肩書も持っていますよ」
「言うものだな」
「いえいえ、事実ですとも。我が家——先代皇帝の大叔父ロマン・リュミヌーを祖とする輝耀家は、神籤を批判してすでに没落しましたので」
当然、それはもうヴェルセット公爵も既知のことだろう。ロロベスキ侯爵夫人たるマダム・マーガリーの客人クロードの名を知り、その経歴を調べずに会いにくる、ということはありえない。
そして——そもそも、別段隠しもしていないが——ジルヴェイグ大皇国没落貴族の末裔であるクロードは、『行方不明のクラリッサ嬢』事件のある一点において真偽を見抜けるのだから、そのアドバンテージを披露しておくことは悪い手ではない。
歴史が一歩間違えていればジルヴェイグ大皇国皇帝であったかもしれない男は、きっぱりとヴェルセット公爵へ己の見解を断言する。
「だからこそ、分かるのです。ポーラウェーズ伯爵家など存在せず、当時の第二皇女キルステンが主張した反乱云々は、我が家のことを参考にしているのだ、と」
クロードは椅子を引っ張り出した。この部屋には素朴な焦がし茶色の木製椅子二脚しかないため、ヴェルセット公爵とアンドーチェに譲る。自身は向かい合うようにベッドの端に座ろうとし、護衛二人はきっちり閉じた扉の前で立ちっぱなしだ。
ヴェルセット公爵は小さくともレディであるアンドーチェを先に座らせて、それからベッド上の書類を片付けていたクロードの手元を目ざとく捉えた。
「手紙を先に読むかね?」
「いえ、せっかく訪ねていただいたのですから、是非とも閣下のお話を先に。どうぞ、そちらにお座りください」
焦がし茶色の木製椅子は、とても高貴な身分の大人物を座らせるためのものではないが、ヴェルセット公爵は気にしなかった。文句一つ言わずアンドーチェの隣に座り、クロードはほっとしたが、一方でアンドーチェのほうが何か言いたいことがあるらしかった。
それもそのはずだ。いきなり一度顔を合わせたっきりの祖父かもしれない人物がやってきて、クロードはクロードで政治的な自身の出自をペラペラと喋った。いくらアンドーチェが聡明であっても、さっぱりわけが分からない、そう言いたいのだろうことは見て取れる。
大して沈みもしないベッドの端に腰掛けたクロードは、戸惑いを隠せていないアンドーチェを気遣う。
「アンドーチェ、疑問があるみたいだね」
「え……ええ、はい。その、私はジルヴェイグ大皇国のことは、あまりよく知らないものですから」
「それは当然だ。他国の政治の話だし、つまらないものだよ」
「つまるつまらぬは貴殿が決めることではない。ほれ、話してやれ」
何ともはや、ヴェルセット公爵はクロードへ顎で指示してきた。不甲斐ない部屋の主は(やっぱりそうなるかぁ……)と少し後悔しつつ、自国の政治文化と、自身とその生家の顛末についてかいつまんで語りはじめた。
「ジルヴェイグ大皇国が皇帝を選ぶ儀式のことを神籤と言うんだが、あれに選ばれなくても皇帝一族でもっとも有力な家系のことを筆頭親族、輝耀家と言うんだ。皇帝を補佐し、中には臣籍に降りて位人臣を極める者も少なくない。もっとも、皇位継承権を捨てなければ、次の神籤にも参加できる立ち位置にある」
それらの慣習が、あまりにも自国内では当たり前の歴史、当たり前の儀式であるため、外国人からすれば奇異に映るのだと自覚するのはクロードが大学に入ってからのことだった。他国では王位継承権順位や実力で玉座を得るらしいが、未だにジルヴェイグ大皇国は王権神授の伝説から宗教的意味合いの強い儀式で王を決める。
他国と比べ何とも時代錯誤な、と思わなくもないが、実際それで政治が上手くいっているのなら誰も文句はないはずだ。皇帝一族内で内乱が起きないのは、神籤で神が皇帝を選んだのだという大義名分の看板が大きすぎるからだし、広大な面積を誇る領土は一度たりとも侵略を受けておらず、むしろ一千年以上前の建国以来拡張しつづけている。
だが、やはり不満はくすぶっていた。
「輝耀家を任されていた僕の祖父は優秀だったが、父はそれが不満だった。自分の父ほど優秀でもこの国では頂点に立てないのか、と常々不満に思い、父もまたその優秀さを継承してはいたが、ついにはジルヴェイグ大皇国の皇帝を選ぶ仕組みが悪いのだと公言して憚らなくなった」
今にして思えば、クロードも父の不満が分からなくもない。優秀であるのに評価されない、働いたのに対価をもらえない、ましてや祖父のことを尊敬していたのなら、父はなおさら憤り、世の仕組みが間違っていると思うだろう。
そして、残念ながらジルヴェイグ大皇国の大多数は、世の仕組みが間違っていないと思っていたのだ。
「僕の父が変革者となることを恐れた皇帝一族の他家の陰謀により、反乱を計画した廉で我が家は輝耀家の地位や財産を失い、平民に落とされた。まあ、妥当なところだ。誰だって自分たちの利権が危うくされるのなら先手を打つ、当然だね」
クロードが生まれたころ、すでに生家は平民の身分で存続しており、クロードが八歳になるころには優秀で偉大な祖父も天に召された。元輝耀家の一族という名誉ある身分は祖父一代でおしまい、父は特権を失って成人前に平民となったため、皇位継承権は一度も持たなかった。
これらの話は、有名と言えば有名、知るべき筋には知れている程度のもので、たった今クロードの目の前で真面目な表情で耳を傾けているヴェルセット公爵ならばきっと知っていただろう。
ただ、平民に落とされた元輝耀家の一員と喋る機会などなかっただろうし、これまでは人伝ての又聞きだったためか、アンドーチェとともに興味深そうに聞いている。
「で、その後に僕は生まれたが、僕の父に協力した貴族たちが見せしめでよく捕まったり、身分を剥奪されたりが続いた。だから僕は家名を捨てて、名前を平民そのものにして、エルネスト・クロードと名乗って権力争いからできるだけ遠ざかった。身の危険だけじゃなく、僕を旗頭にして反乱を扇動するような連中も残っているだろうからね。仕方なかった」
はい、この話はおしまい、とクロードは手を叩く。意識を切り替えて、本来の話に戻らなければ——いや、クロードはすぐにでも戻りたかった。実家の没落話など話したって当人には面白くも何ともないからだ。
しかし、曲がりなりにもクロードは皇帝一族の血を引き、高等教育を受けている身だ。ジルヴェイグ大皇国のことならば、そこいらの貴族や知識人よりも詳しい。それは確かで、ヴェルセット公爵もそれを買っていたようだった。
「ならば、分かるだろう。クラリッサの出身はジルヴェイグ大皇国になどない、と」
すぐにクロードは頷く。
「ええ、もちろん。あれですよね? 黒髪緑目のクラリッサは北方の蛮族と呼ばれる人々の血を引くだけで、ちゃんとイアムス王国の民だと。とはいえ、ジルヴェイグ大皇国出身者も北方の蛮族も、イアムス王国の人々からすれば同じ『外国人』です。だからデルバート王子は気に入らず、第二皇女キルステンは上手いこと追放できるかもしれないと企んだ」




