第10話 新聞と思考と学者と
学者にとって、停滞の時間というものは存在しない。
クロードも例外ではなく、学者は一秒、一分たりとも思考を止められない職業病を患っているものだ。睡眠時間でさえも夢の中で数式を解く哲学者もいれば、食事中に嬉々として解剖学の講義を始める医者もいる。
それゆえに、クロードは新たな興味の対象を見つけたことで、たるんでいた思考の歯車が急激に回転しはじめた。
これに論文風のタイトルを付けるなら、「現下イアムス王国における『情報流通網』の構築維持およびその影響下における王都情報の封じ込め」とでも言えよう。
クロードは宿に持ち帰った異なる新聞を三つ、ベッド上に並べ、その横で寝転がりながら紙をめくる。しおり兼重石にされた万年筆、ノート、謎の文字が途切れ途切れに書かれた紙切れなどが紙面上に散らばり、持ち主の長考が終わるのを待っている。
(今日買ったのはロロベスキ侯爵領の新聞だけ、それでも三社あって、どれも記事の文章の質は高い。まあ当然だろうな、これだけロロベスキ侯爵領は栄えていて、いくつも学校や文化的施設を備えている)
クロードは最初、イアムス王国をそこまで発展した国とは思っていなかった。無理もない、ジルヴェイグ大皇国という大国に住まう知識層からしてみれば、辺境もいいところである。
しかし、そのジルヴェイグ大皇国を相手取った商売をするロロベスキ侯爵領であれば、遜色ない発展を遂げた大都市を築けるのだ、とクロードは認識を改めた。
新聞が人々へ伝えるもの、それは単なる文字情報だけでなく、文化レベルそのものを喧伝する材料なのだ。毎日大部数を印刷することの労力や経費、情報収集の手段、集めた情報の選別や推察、それに応じた政治的、経営的な判断……これらは、硬貨と引き換えの需要だけではその存在価値を保てない。
文字とは、読み書きの能力だけでなく文章理解力も求められる。
印刷とは、印字だけでなく需要に見合った大量の同じ文字情報を綴る。
情報とは、伝えられた人々の行動を大きく左右しうる。
その三つが成立し、商業として採算が取れる新聞の流通網は、きわめて高度な文化資産となる。そして、それを維持することとよしとする為政者の存在が、さらなる進化を促す。
(第一、新聞社なんてのは後ろに大口出資者がいないと成立しないからな……王侯貴族、資産家、銀行、あるいは軍隊。流通網の範囲が広がるほどに、すさまじく維持費用がかかる。でも、そのデメリットを受け入れるだけのメリットがあるからこそ、存在する)
新聞屋台の店主が言うには、王都から逃げ出した知識人たちのおかげで、今のイアムス王国には多くの地方新聞が存在しているそうだ。
(つまり、各地の領主たちは、それぞれお抱えの新聞社を使って『情報流通網』を作り、王国の統制から抜け出そうとしている、とも読める。もしくは、そう策動しなければならない理由がある)
情報封鎖もなされる厳重警戒の王都から逃げ出さなければならない知識人といえば、まず国王やドゥ夫人の治世に反対する一派か、素行が悪くて追放されたかのどちらかだろう。貴族たちも一応はその両方に含まれる。
クロードは新聞の記事の一文を、指でなぞる。
そこには、半年前、とある領地の貴族が贅沢三昧をしていたため農民に反乱を起こされたにもかかわらず、その領地にはまともな軍隊がなかったため結局その貴族は追放され、農民たちは新たな領主を担ぎ上げた、と書かれていた。
王政の国家で、常識的に考えてありえない現象だ。王権の封じた貴族の領主が追放されたにもかかわらず、記事の中では誰もそれを悪事と捉えていない。普通なら国王や封じられた領主の面子にかけて農民を排除し、乱を鎮圧するものだが、近隣領主も新たな領主も農民に罰を与えることさえしていない。
記事の続きによれば、王都もまた、軍隊を派遣することも、新たな領主を任命することもせず、半年もの間沈黙を保っている。
この記事で重要なのは、この記事がイアムス王国でもっとも栄えたロロベスキ侯爵領の『情報流通網』に当然のごとく載っている、ということだ。
(領主に刃向かう農民反乱、王権の保証する領主の追放という一大事を、イアムス王国の王侯貴族たちは大々的に知られてもかまわないと思っている。そりゃあろくでもない領主がいなくなった万々歳、っていう勧善懲悪な戯曲的大義名分は分かるが、いい意味で明日は我が身と捉えていないってことだ)
反乱が大逆であれば、農民たちは罰せられてしかるべきだ。しかし、この記事では贅沢をした領主が罰せられ、新たな領主を迎えた農民たちはハッピーエンドとなっている。
それは、イアムス王国に国王やその権力とは異なるレイヤーの認識があって、その認識者たちへ向けた記事であれば、このような書き方になってもおかしくはない。
ただ、その認識の中身をまだ掴み損ねているクロードは、そこまでしか思考が続かなかった。
それよりも、別の記事に目が移る。
今月、イアムス王国王都から発布された公報は、カレンダーと独占議会を通過した十八本の法案のタイトルのみしか記載されていなかった。法案に特に重要なものはなく、王都はきわめて平穏だったようだ……と締めの一文は皮肉っている。
クロードが三つの新聞のどれを読んでも、王都に関する情報はそれだけだ。情報封鎖されているというのは伊達ではない、王都に情報が入ることはあっても出ていくことは稀であるということだ。
しかし、施行する法は議論され、発布されている。どの程度かは分からないが貴族たちを通じて税は納められ、国家として存続している——それが今のイアムス王国だ。
その基盤の危うさは、繁栄するロロベスキ侯爵領にいては分からない。具体的な収支や税収、官吏の態度を把握したくても、外国人であるクロードはそう派手に動くわけにはいかないし、イアムス王国の人々も簡単には明かしてくれないだろう。
ましてや、新聞にさえ書いていないなら、今のところクロードに知る手段はほぼない。せいぜいが、アンドーチェを呼び出して尋ねる、くらいだろうか。
(……彼女も多忙だろうし、仕方ないから明日からもよその新聞を一部くらい買ってみるか。比較検討なら時間もあるし、余裕余裕)
クロードは少し湿気ったベッドの上でゴロゴロしながら、新聞を流し読みする。徐々に新聞たちは湿気を吸ってしんなりとなっていき、もはや乾かしても波打つばかりだ。
翌日になって、ロロベスキ侯爵領では買った新聞にしっかりアイロンをかけてから読むことが常識である、ということを宿の主人に教えられて、クロードは宿一階にある共用アイロン台を毎日使う羽目になるのだが、日に日に指先の火傷跡が増えていくことを見かねたアンドーチェに叱られるまで、そう時間はかからなかった。




