蛙飛び込まず
数十年振りに阪神タイガースが優勝、日本一を決めたこの夜。道頓堀周辺は異様な空気に包まれていた。
『立ち止まらないでくださーい。と、飛び込まないでくださーい』
警備及び交通整理に動員された警官隊、その手に持つスピーカーからの呼びかけは風と共に人々の肌を撫でる。道頓堀の両脇、柵の内側。そして上にかかる橋にはズラッと彼ら警官隊とマスコミ勢がカメラを構え並んでおり、さらにその三列目、四列目は野次馬たちがその瞬間を収めようとスマートフォンのカメラを向けている。
「あ、ちょっと通してくださーい。へへっ、今からこいつが飛び込みま――」
「馬鹿っ、やめろ!」
咄嗟におれは一緒に来た友人の口を塞ぎ頭を押さえ、まるで護送される犯人と警官のように身を屈めた。
数秒の静寂。揺らいだ空気が元に戻ったと研ぎ澄ました感覚で感じ取ったおれは大きく息を吐き、友人から手を離した。
「おいっ、なにするんだよ、人がせっかくよぉ」
「馬鹿野郎っ、この異様な空気を感じないのかよ……」
先程の服が擦れ合う音とザッという靴が地面を叩いた音。あれは友人の発言に反応して一斉にカメラがこちらに向いたことにより起きたものだ。
あれらは獲物を待つ飢えた獣。なぜならこの夜、未だ道頓堀に飛び込んだ者は一人もいないのだ。
「んー、だからさぁ、お前が一人目になろうって話だろ?」
「だからお前馬鹿かよっ」
おれたちは声を潜め、話した。確かに、道頓堀への飛び込みは言わば恒例行事。前回、タイガースが優勝した際は浮かれたファン数名が飛び込み、死者も出たという。だからこのように警察が警戒し、そしてマスコミが群がっているのだ。しかし、その優勝が数十年振り。つまり、時代は変化し前とは価値観も大きく違う。馬鹿なことをすればすぐにネットに晒される今の世の中。国民総パパラッチ時代。SNSに上げ、称賛され承認欲求を満たそうと皆躍起になっている。
つまり、今ここで飛び込めば名前から何からそう、大学生はその学部。社会人は職場まで晒され、就職や生活に響く。だから誰も飛び込もうとしないのだ。無論、娯楽の多様化などで野球に対する熱も昔ほどではないことや怪我や病気、単純に濡れるのが嫌など現代人らしい理由もあるだろうが
「考えすぎ考えすぎ。誰も気にしないって。それにお前、大学二年で就活はまだだろ? どうせすぐ忘れられるって。だからさ、飛び込んじゃえよ」
「そうとも限らないって……。大体、企業の面接官なんて人の粗探しが好きな連中だろう? 格好の餌だよ。この場にいる連中にとってもな」
「いやー、案外、行動力があるねぇとか褒められるかもよ」
「おー、まあ……いや、ちょっと考えちゃったけど、それならお前が行けよ。専門二年で就活の最中だろ?」
「ぜってーやだよ。ただでさえうまく行ってないのにそんな馬鹿できるかよ」
「じゃあ、おれにやらせようとすんじゃねえよ」
「おれはお前が飛び込むのを見て、憂さ晴らししたいんだよっ。盛り上げてやるからさぁ、ほら行けよ」
「どうせお前、他人の振りするだろ! と、しっー、連中がおれらを見てる。静かに……」
そう、中には飛び込もうとする奴もいる。それは当然だ。目立ちたがり屋、頭の中で計算し得だと考えた奴もいるだろう。悪評は無名に勝るというやつだ。
が、この圧。一斉に向けられるカメラ。蜘蛛の目どころではない。多眼の魔物に睨まれ、すごすごと引き下がってしまうのだ。
尤も、割れ窓理論。一人が飛び込めば、この空気は瞬く間に崩壊するだろう。だがそれゆえにそのザ・ファーストのハードルは高いというわけだ。
「だからこそなんだろ。ほら、行けよ。あ、お前、初めて付き合ったあの清純そうな子、覚えてるか? ずっと好きで、お前がやっと告白して付き合うことになった子」
「あ、ああ……」
「あれ、実はクソほどビッチだったろ?」
「まぁ……」
「処女だと思ってたのにSNSで知り合ったばかりの男とすぐに、それに何人もと」
「おぃ……おぃ……」
「つまりだな、そういうこと。雪辱を晴らすんだよ。さ、ほら」
「いや、別に初めてにこだわりはねえよ……と、言うかもう飛び込むも何もないよ……」
「元気ないな。ま、だからこそ、景気よくさ」
「お前のせいだよ! あ、なんでもな――」
「はい! 今大声を出したこいつが飛び込みまーす! 道を開けて下さーい!」
「ばっか! お前、あ、あ、あ、違うんです」
「うおーっだってよ! すげえなお前、モーゼみたいじゃん! この調子なら川も割れるんじゃないか?」
「そしたら怪我するだろうが! だ、だから背中押すのやめろ!」
「そりゃ押すだろ。親友の晴れ、いや清水の舞台だ」
「その意味じゃねえよ! 殺す気かよ!」
「さあ、ほらほら着いたぞ。橋のど真ん中だ」
「いやなんで警官も止めないんだよ!」
「一人も飛び込まないってのも寂しいんだろ。存在意義を見出せなくてさ。さっきのスピーカーによる呼びかけもちょっと恥ずかしそうにしてたし。いや、飛び込む奴いねーじゃん! みたいにな」
「だからって、う、うああ、結構高いな……」
「ほら、みんな見てるぞ。何か一言いって飛び込めよ。ほいっ」
「ほいっじゃねえよっ。大体何言えばいいんだよ!」
「お前、そりゃ優勝おめでとうだろ。当然だろ」
「急にまともなこと言うなよ。ああもう、わかったよ……本当は、処女であってほしかったぁぁぁ!」
「引き摺ってたんじゃねえか。あ」
「え」
「優勝おめでとーう!」
おれたちの横からヒョイっと現れ、そう言って飛び降りた男。気持ちいいほどの歓声が炎のように橋から夜空へと上がり、花火のようなシャッタ―の光が目の前に広がり、おれは瞼を閉じた。
「……まあ、先を越されたわけだけども、ほら」
「いや、帰るだろ、なんだよこれ……恥ずかしいこと言わされただけかよ……」
「でもなあ、お前、悔しくないのか?」
「はぁ?」
「ほら下。今飛び込んだ人を見てみろよ」
「いやー、プレッシャーはありましたけど、でもいつも大事にしているルーティンで気を落ち着かせて、で、ふと、アレって思ったんですよねぇ。あ、もう誰かに憧れるのはやめようって。自分がヒーローになろう、なるしかないってそう思ったんですよねぇ」
「ほら、ヒーロー面してインタビュー受けてるよ。まだ間に合うからお前も飛び込んで来いよ」
「嫌だっての! もう戻る、あ、馬鹿、押すなって!」
「違う、おれじゃなくて、急に後ろが、あ」
友人と掴み合い、川を背にし落ちていくその最中。おれが連想したのはペンギン、ネズミの群れ。そして……そう、まるでダムの崩壊。
あの夜、道頓堀に飛び込んだ人数は百人に上ったというだったという。
最初に飛び込んだあの男は実は前にも何度かニュース番組の街頭インタビューなどに出ており、さらに他にも何人かがマスコミ側が用意したサクラで、現場の圧に動けずにいたが、一人目が出たことで仕事をせんと慌てて飛び込んだのではないか、というのが見舞いに来た友人の話。尤も、出所はネット。ただの噂だ。
しかし、おれはそんなことなどどうでもよく、病室のテレビのニュース番組であの夜の様子を俯瞰的に眺め、ただただ、あの瞬間のおれの映像が使われなかったことに安堵したのだった。