3.新しい聖女様
目が覚めた。明るくて、暖かくて、柔らかな空気が流れている。
ここはどこだろう。
私は大きな寝台に寝かされていた。
上げられた天幕の向こうは、清潔感のある広々とした部屋。寝室のようだ。
淡い色で揃えられた上品な調度品。テーブルの椅子は、なぜか一脚だけ寝台の脇にあった。
明かりが差し込む窓には、細かな刺繍が施されたカーテンが揺れている。
誰かの部屋なんだろうってことしか分からないけど。まるで夢のような、穏やかな空間。
もしかしたら、夢なのかもしれない。結局、私はあの暗い地下で助からなかったんだ。
力尽きる直前に見ている、一睡の幸福。
そう考えると納得がいくけど、少し寂しい。
もう絢華式を見上げることも、お茶を淹れることもできない。――クロム様に会うことも。
胸がぎゅっと痛んだ気がして、ため息が漏れた瞬間。
部屋の扉が静かに開いて、誰かが入ってきた。
背の高いその影は、白い礼服に身を包んだ護衛騎士様。
後ろでゆるく結えた青い髪に、オレンジの瞳が綺麗な――クロム様。
「クロム、さま……」
「あ」
ドアを閉めたクロム様は、起き上がった私に気付いて。
瞬きをして。
すごくホッとしたような顔で駆け寄ってきて。
「あの、こ――むぐ」
力一杯抱きしめられた。
「目が覚めた……よかった……」
詰まっていた息を吐くような声で、そんな呟きが聞こえた。
それは心からの安堵の声。耳に優しい声と暖かい腕に、私はやっとこれが夢じゃないと気付いた。
礼服は肌触りが良く、腕は暖かい。力は入ってるけど痛くない。痛くはないけど、振り解けない。何が何だかわからなくて。でも。すごく嬉しくて。私はその肩に額を預けて。
すぐに、そうじゃない。と思い直した。
私は助かったんですか? あの場所からどうやって? 聞きたいことはたくさんある。
「あ、あの。クロム、さま」
「ああ……ごめん」
パッと離れた温もりを目で追うと、クロム様は脇の椅子に腰掛けて息をついた。
「魔力の補充はある程度できてると思うけど、具合はどう?」
「魔力は、ええと」
手のひらを見つめ、小さな光を灯してみる。すぐに掻き消えたけど、多少は戻ってきてるようだ。
「疲れはありますが……多分、休めば大丈夫だと思います」
「うん、それなら良かった。でも――」
クロム様の手が伸びて、私の髪に触れた。
「髪の色は変わってしまったね」
「え? ああ、本当ですね」
肩から流れ落ちてる髪は、色がかなり薄くなっていた。濃い灰色だったのが淡い銀になっている。
「魔力が減りすぎたのかもしれませんね」
「そっか……」
クロム様は溜め息のように頷いた。その視線はすくった髪に落とされていて、なんだか思い詰めてるような表情に見えた。
「俺がもう少し早く気付いてたら、キミの色を変えることなんてなかったのになあ」
見たことない表情と聞いたことない声に、私はなんと返せば良いのか分からなくなってしまう。
いつもの楽しそうな目じゃない。気付いたら逃げ場のない身軽な言葉じゃない。彼にだってそんな表情もあるだろう。分かってる。でも、クロム様が気にする事じゃない。私の髪の色が変わった。それだけ。そう、それだけなのに。そんな顔をさせてしまったのが嫌で。いつものように笑って欲しくなる。
けど。何を言えば良いんだろう。
「で、でも!」
「?」
「私、死んだわけじゃない、ですし」
苦し紛れに出てきた一言は、彼の表情を変えることに成功した。きょとんとした顔で瞬きをしている。
「私、まだ生きてます。それは、クロム様が助けてくれたから、ですよね?」
「……ああ、うん。そうだね」
目を伏せたクロム様は口の端を緩めて頷いた。
「元気とは言い難いですけど。大丈夫です。元気になります。髪の色だけで済んで良かったと思ってください」
ねっ、と詰め寄るように言葉を重ねる。
少し気圧された顔で私を見ている。その視線に負けないよう、ぐっと見上げる。
根比べのようなにらみ合いの末、クロム様は困ったように笑った。
「そうだね。うん。キミが生きてる。それでいい」
頷くクロム様の目は、普段のような色を取り戻したようだった。
「それに、キミが俺に突っかかってくるなんて珍しい姿も見れた」
「っ! そ、それは。クロム様が、あんな顔するからで……」
「うん。柄にもない事をした。こう言うべきだった。――その色も綺麗で似合ってるよ」
「う。なんですぐそういうことを……いや、その。あ、ありがとうござい、ます」
小さくなってしまったけど、思わず否定しかけた言葉をお礼に替える。クロム様は何も答えなかった。ただ、ポットに入っていたお茶を注いでくれた。受け取って口を付ける。ハーブがほんのりと香るそれは、甘くて温かい。身体にじんわり染み渡る。
クロム様は何も言わない。ただ、私が飲み終わるのを待っているようだ。
表情はいつも通りのように見えるけど、この沈黙は何なんだろう。
耐えきれずに違う話題を探す。
「あの、絢華式は。どうなりましたか?」
もう祭りは終わってしまったのだろうか。それならあの式はどうなったのだろう。
「ああ。そうだね。うん。絢華式は無事に刻まれたよ」
「そうですか」
「ただ、その時にちょっと色々あって。今、上は大忙し」
「?」
問題。魔力が足りなかったとか、式が上手く刻まれなかったとかだろうか。いくつかの心当たりに首を傾げる。クロム様は「そんなことより」と話題を切り替えた。
「キミが無事でよかったよ」
「そんな。聖女様でもない一介のメイドに……というか、よく私が居ないって気付きましたね」
「ん? そりゃあそうだよ」
クロム様は当たり前のように頷いた。
「なんの理由もなしに3日も姿を見なかった」
「……それだけで?」
「そうだね。それだけ」
でも、と言葉をつなぐ目が細められた。今にも溜息をつきそうな顔をしている。
「俺にとってはそれ程のことだったんだよ」
いつもより小さな声だったけど、それは、クロム様の中にある感情の表れに思えた。心配していた。ほっとした。そんなのがたくさん詰まった声は。私が、あの時に縋って呼んだ声に近いような気がして。
それは。つまり。
「……」
「リエル」
「……はい」
「ここまで言ったらいい加減気付いて欲しい、とまでは言わないけど」
クロム様の目が私を見る。真面目な顔でも、人懐こさを感じる顔でもない。見たことのないその視線は、真っ直ぐで、熱くて、私の言葉を詰まらせる。
部屋は広いのに、2人きりなのに。追い詰められたような緊張感が背中に伝う。
「君にはもっとはっきり言うことにするよ」
「えっ、いや、その」
「リエル。俺はね」
「……っ! 待っ、て! ください!」
慌ててその口を塞ぐ。塞いでしまって考える。
ええと。この流れでそれは。これまでの言葉ってもしかして。そういうことで。
「え。いや。だっ……だって、それは。その」
「うん」
「あれは。社交、辞令とか。そんな……の、じゃ。なかった、ん、ですね?」
「うん」
視線をそろそろと向けると、クロム様の目が笑った。
途端に、これまで受け取ってきた言葉が意味を含んで私の上に降ってくる。
喉が渇く。声が詰まる。思い出される私の態度に、悲鳴をあげて布団に潜りたくなる。あんまりだ。あんまりな対応だった。恥ずかしさと申し訳なさで、背筋が冷たいのか、頬が熱いのか分からない。
「うぁ……ごめんなさい。私……」
「うーん。ここで謝られると傷付くなあ」
「あぁっ! いえ。そういうのじゃ。なくて!」
声が小さくなる。そう。そういう意味のごめんなさいじゃない。
「その。私。喜んでも……いいん、ですか」
「うん。いいよ」
その一言で、目から涙が溢れた。
クロム様は何も言わず、私が塞いだままの手をそっと握って下ろした。
「ごめんなさい……私、全然、気付かなくて」
「いいよ。キミがその辺に鈍いのは気付いてたから」
大きくて暖かな手が、私の手を包み込む。
「で。続きを言ってもいいかな?」
「…………はい、おねがいします……」
顔は上げられないし、色んな意味で消え入りそうな小さい声だったけど、ちゃんと届いたらしい。うん。と頷く声がした。
「リエル。俺はね。キミのことがずっと好きだった。正直言えば一目惚れだったし、髪も声も……どこを取っても好きなんだけど。空を見上げる横顔が特に好きなんだ。護衛っていう大義名分も手に入ったし、これからはしっかりと、キミのことを守らせてもらうよ」
「はい。ありがとうございます。その、私も。クロム様のこと好き、で……って、えっ?」
クロム様はなんと言った? なんか後半がよく分からなかった。
瞬きをする私に向けて、クロム様がにやりと目を細める。
「キミの恋人としてはもちろんだけど、俺の職務もしっかり全うさせてもらおうかと思ってさ。ね。聖女様」
「……は? 聖女さ……えっ、どういう、ことですか!?」
「あっははははは! 良い反応だ」
「笑い事じゃなくてですね!?」
クロム様ひとしきり笑うと立ち上がり、背筋を真っ直ぐに伸ばして恭しく礼をした。
「リエル=ゼスティニア様。新しい聖女様としての就任、おめでとうございます。私、クロムガット=ジェウエッジ、誠心誠意お守りすると誓います」
「……」
「って事なんですが?」
「どういうことなんですか!?」
思わず声を上げると頭がくらっとした。ふらついた身体を、クロム様はそっと支えてくれる。
「ほらほら、まだ本調子じゃないんですから」
「……クロム様」
「はい」
「普通に、喋ってください」
何も分からないのに、両想いだと分かった人が突然他人行儀になるのはちょっと寂しい。
「――ふふ。分かったから、そんな目しないで」
クロム様は布団を私にかけて、椅子に座り直す。
長い足を組んで、「つまりね」と軽い声で続きを話してくれた。
「先代の聖女様――ヴィオラジア嬢が、精霊に認められなかったんだ」
「えっ」
思わず起き上がり、目眩に襲われる。眩む頭を抑えていると、クロム様は傍にあった上着を掛けてくれた。
「精霊が、認めなかったって。どういう」
「それがさ」
と、クロム様は語る。