2.美しいだけの式
「この間のお願い、考えてくれたかしら」
聖女様に再度問われたのは、3日後のことだった。
周りに他の人はいない。私と聖女様二人きり。
お茶のカップを片付けながら、私は用意していた答えを口にする。
「その、考えさせていただいたのですが」
「ええ」
「構成記録の確認くらいならできますが、術式の確認は……やはり、司祭様達にお任せする方がいい、かと」
「そう」
聖女様は少し残念そうな笑顔を浮かべたけど、すぐに「それじゃあ」とお茶のカップを持ち上げた。
「基礎部分だけでいいわ。記録の確認をしてもらってもいいかしら?」
「はい」
模様や規模が違ってもベースは変わらない。そこの確認だけなら大丈夫だろう。
式の作成は記録に残してあるはずだし、その記録をこの部屋で見るだけならとがめられることもないはずだ。
「それじゃあ……行きましょうか」
「えっ」
驚く私に、聖女様は細い指先を絡めて恥ずかしそうに俯く。
「記録は地下の部屋に置いてあるんだけど。あそこは静かだから……ひとりだと、少し怖くて……」
付いてきてくれないかしら。と、秘密を打ち明けるような声は、なんとかしてあげたいという気持ちを思い起こさせる。
「けど……」
「お願い。もう貴女しか頼れないの。もし誰かに見つかっても、私がちゃんと説明するわ」
「……」
そこまで必死にお願いされては、無下にもできない。
分かりましたと頷いて、地下へ向かうことになった。
明るい廊下を抜け、魔法の灯りに照らされた石段を降りていく。
白く塗られた壁。足元に光苔。湿度はあるけど暗くはない。足音は反響するけど、進むにつれて静謐ともいえる静けさが満ちていく。
絢華式を織る部屋に繋がる小さな部屋も、同様の静けさがあった。
そんなに広くない。休憩用のソファと机、それから本棚がある。本棚には本が数冊。全てここで織られた絢華式の記録だ。
奥には小さな扉が二つ。片方は聖室。聖女様が精霊達と交信しながら式を織り上げる部屋。もう一方が式に魔力を注ぐための術式が施された部屋だろうか。
予想はできても、それを確かめる術はない。そもそも、ここまで立ち入れるのも相当レアなんだ。しっかり記憶に刻んでおかなくちゃ。
聖女様は机に置いていた本を手に取り、パラパラとめくって私へ差し出した。
「このページからなんだけど」
「はい」
本を受け取り、十数ページに渡る式に目を通す。
精霊の召喚式、魔力を行き渡らせる式、空に刻み、維持する式。どれも基礎をきちんとなぞりながら、細部はレースのように飾られ、綺麗に作られている。聖女として初めての式ならば上出来に見える。
けど。全体的に整っていない印象を受けた。いや、見た目は綺麗なんだけど。
「どうかしら」
「これは……すこし、難しいですね」
「そうなの?」
「はい。全体的に綺麗に作られていますが、これでは魔力が不足するような、気がします。――例えば、この部分の式ですね」
ああそうだ。この式は見たことがある。ひとつ気付くと、他の部分も他の式を繋ぎ合わせて整えているんだと分かった。見れば見るほど、この式の荒さが浮き上がってくる。
「この部分は干渉し合い、通常より多くの魔力を消費します。もう少し離して、空白の式を織り込んで余裕を持たせることが多いです」
「そうね。でも、ここを重ねると色合いが美しくなるわ」
「そうですね。このパターンは過去の式にも例があります。とても美しい式です。でも、この年は式の維持に魔力を割いたため、聖女様の負担が増え、結果、例年より厳しい冬になったと記録にあります」
「そう。さすがね」
「ですので――」
「魔力があればいいのよね」
「?」
私が顔を上げると、聖女様は私の首にするりと何かを落とした。
「あの、これは……うっ……」
急に身体をおそった倦怠感に、立っていられなくなる。
首から下がっているのは藍色の宝石。何かの術式が込められている。これは捕縛だろうか。身体の力が抜けて動けない。
「これでは魔力が足りないだろうって、司祭様にもそう言われたわ」
と、彼女はため息をついた。美しい髪を指でくるくると巻いて、私を見下ろす。その顔に花のような笑みはなく、その目は氷のように冷たい。
「聖女、さま……」
「でも、私が織る絢華式は、繊細で美しくないといけないの。魔力の量なんて気にしないくらい、美しく、力もあると知らしめる。そうして、この国の聖女たる地位を確実にする式なの。足りないなら――集めればいいのよ」
「!」
それはいけない。
絢華式の魔力は、できるだけ純粋でなければいけない。
今は精霊の声を知るという教会が聖女の任命を行っているが、本来聖女とは、精霊に認められた者が担う役割。精霊を召喚し、祝福を国民に降らせる手段の一つとして絢華式がある。
精霊は純粋な存在だ。捧げる魔力は量があればいいというものじゃない。
ひとりで時間をかけて織り上げるのも魔力を注ぐのもそのためで。それを蔑ろにしてはいけない。どうしても不足分を補うのなら、そのための変換式も必要だ。
でも、さっき見た記録にはなかった。ただ美しい部分を寄せ集め、基礎をなぞっただけの式だった。
伝えようにも、意識が眩む。
「私、聖女になりたかったの」
聖女様は私を引きずり、一方の扉を開け、そこに私を押し込む。
「華やかで、美しくて、最高の地位。やっとなれたけど、毎年こんな大掛かりな式を織って魔力を注いで、また新しい式を織るなんて、そのためだけに生きるのは嫌。耐えられない」
「……そんなの、司祭様が」
お許しになるはずがない。
そう思ったのを読んだように、彼女は鼻で笑い飛ばした。
「そんなの、とっくにご存知に決まってるじゃない。ちょっと泣きついたらすぐに許してくれたわ。周りの人達だって、私の役に立つならって喜んで付いてきた」
けど、全然足しにならないで倒れちゃう。役立たずね。と呆れたようなため息。
ああ。最近欠員が多いのはこのせいだ。魔力を吸われて、動けなくなってるんだ。
今気付いても、遅い。私もきっと同じ道を辿る。
部屋の中央に転がされると、床に書かれた魔法陣が淡く発光した。絢華式へ魔力を流す魔法陣だ。私の魔力が魔方陣に吸われ、淡い光となって流れていくのが分かる。
魔法陣は小さな穴の奥へ繋がっている。その先に絢華式があるのだろう。
ああ、そこにあるものは。私の愛する絢華式ではない。形だけが美しい抜け殻。中身は手当たり次第に詰め込んだ魔力が混ざり合っている。
あまりの扱いに涙が溢れそうだ。
「あとどれくらい必要かしらね。日もないし……、このままじゃ美しい色も出ないかしら」
「それ以上、その口で、……式を、語らないで、ください」
「なあに?」
もうよく見えないけど、空気が張り詰めたのはわかった。
「貴女は、絢華式を……なんだと……。あれは、聖女を飾る。道具じゃ……」
「――うるさいわね」
その声は、とても冷たく、鋭かった。
ぱちん、と小さく指を弾く音で、喉がぎゅっと絞められた。
「あなた、魔力多いみたいだし――そんなに絢華式が好きなら、根こそぎ糧にしてあげる」
「――!」
光栄でしょ。そのままそこに居なさい。
そう言って、聖女様は部屋の戸を固く閉ざした。
□ ■ □
それからどれくらい経ったか分からない。
時折目を覚まして、とくとくと光が流れていくのを眺めて、気を失っている。
目を覚ます度に、私の魔力が、力が、吸い取られていくのを感じる。
ああ、嫌だなあ。
なんて思っても、流れていく魔力をただ見ることしかできない。
私は絢華式のためならなんでもできると思ってたけど、今はこんなにも無力だし、あんな式の糧になるのはとても悔しい。
けど、涙も出ない。喉も乾いたし、お腹も空いた。魔力はまだ残ってるようだけど、身体を動かす気力がない。残された時間は少ないのに、何もできない。
きっと、私はこのままここで一生を終えてしまうんだ。
悲しくなってくる。なにか。なにか無いだろうか。そう考えているうちに、また瞼が落ちていく。
無力感を噛みしめながら薄暗くなっていく視界の中。
視界の端を光がよぎって――かつん、と小さな音がした。
「?」
残った力で意識をたたき起こして音の出所を探すと、流れる魔力の明滅の中に、暁のような色をした石が転がっていた。
魔方陣の光を透かすそれは、魔石のように見える。光を透かすと明るいオレンジに見えるその石は、私を見下ろして笑う瞳を思い出させた。
石に指を伸ばそうとしたけど、ダメだった。動かない。そもそも、ここで助けを呼んでも無駄だ。誰も来るはずがない。
でも。何かあったら助けを呼ぶんだよ、という声を思い出した。
それが騎士として当たり前の行動だったとしても。私をたくさん助けてくれた。声をかけてくれた。それがとても嬉しかったのを思い出す。うん。嫌ではなかった。あの声で褒められる自分は、少しだけど胸を張っていられた。楽しかった。あの時間は、かけがえのないもので、もう二度と手に入らないのがとても悲しくて――。
ああ。好きだったんだなあ、なんて。今頃になって気付く気持ちに、ちょっとだけ笑えた。
護衛騎士としての行動の範囲内でも構わないから。それ以上は望まないから。
「助けて、ください……クロム、様」
また薄暗くなる景色の中で呟いた声に。
石がほんのりと瞬いたような、気がした。