路線バス(後編)
「バス降りる時にさ、挨拶するんだなぁって。」
僕がそう口にすると、彼女は元々大きかった目をさらに丸くした。はらはらと揺れるまつ毛が綺麗だった。
「え、しないの?」
「うーん、まぁ一概にしないとは言い切れないけど…」
「え、するでしょ。だって校外学習とかでバス乗った時さ、先生に挨拶させられたりするじゃん。」
ああ、そっかぁ。バス乗る体験がそもそも少ないとこういう事になっちゃうのか。いや、彼女がただ単純に真面目過ぎるだけか。
「いや校外学習って…。何年前の話だよ。」
「え、おかしい?」
「俺は絶対しないけどね。」
「ふーん」
と、彼女が訝しむような目つきで見るもんだから、俺はついつい抑えていた事を言ってしまった。
「路線バスの運転手なんて、そんな敬意を払うようなもんでもないでしょ。」
「え、そう?」
もう言ってしまえ、と思った。どうせ嫌われるんだ、変なところで溜め込まずにさっぱりした方がいい。俺はすう、と息を吸った。
「集団旅行とかの大型バスの運転手ならまだしも、路線バスの運転手なんて基本適当な人間ばっかりなん、だからいいんだよ。あなたまだないでしょ、バスの停留所で立っていただけにも関わらずスルーされてバスが行っちゃった経験とか。」
「え?そんなのあるの?」
「あるある。バス待ってるでしょ?で、バスが来て、降りる方のドアだけ開いて乗る方開かないわけ。降りる人たくさんいるのかな、とか思ってたら、そのままドアが閉まってバス行っちゃうっていう。」
あの時は降りてきたおばあちゃんに哀れみの視線を向けられて、かなり辛かった。俺ってそんな影薄いのかな…。まぁ否定できないところがさらに辛いんだけど。
「それだけじゃない、20分遅れて来るような時もあるかと思えば、定刻より先に発車しちゃって乗れない、なんてこともザラにあるし。」
軽く息継ぎをする。
「態度は悪いし精算でもたついたりするとすぐ舌打ちするし、運転は荒いし。」
「なんか、路線バスの運転手さんに並々ならない敵意を持ってるんだね…。」
あの時と同じ、哀れみの視線だった。
「路線バス使って生活してればすぐ実感するよ、これくらいのことなんて。」
一息ついて、ジョッキを傾ける。はい、俺の明日からの蔑称『路線バス』で決定な。わかっててもこういうのやっちゃうから、陰キャなんだって。
「でも、すごいね。」
「は、何が?」
「いや、普段からちゃんと、なんかこう、考えてるんだなぁって。」
自分の目と耳を疑った。彼女、今なんて?
「私はさ、そういうの普段からあんまり考えたことなかったから。」
彼女の声にも、視線にも、尊敬に似た何かの思いがあって、それは今まで俺が接してきた呆れとか蔑みとか忌避とかいったマイナスのものとは正反対のものだった。
「阿呆か。」
小さく口に出す。これは自分に対して言ったのか、それとも彼女に対して言ったのか、よくわからなかった。
「え、なに?」
「なんでもない。」
なんか調子狂うな、いや、これは普段人間と会話してないからってだけか。
「ねぇ、路線バスでなんか面白い話ないの?」
「面白い話?」
「うん、置いて行かれたじゃなくて、なんかこう、楽しい話的な?」
キラキラと目を輝かせる彼女を前にして、ちょっと悩む。ああ、そういえば。
「う〜ん、これを路線バスと括っていいかは微妙なんだけど」
「うんうん」
「ど田舎だけど美味しい蕎麦屋があるって聞いて行ったことがあって。最寄り駅からバスにのって2時間、しかも1日に3本くらいしかバスがないっていう。」
「あ〜、私の地元もそんなもんだわ。」
彼女が頷く。
「へぇ。それで、バス乗ったら俺一人だったんだけど。運転手さんがめっちゃフレンドリーな人で、他の美味しいお店とか色々教えてくれたわけよ。あの時は流石に俺もお礼言って降りたね。」
「なんだ、ちゃんと言うんじゃん。」
「そりゃあまぁ、ちゃんとお世話になったら言うでしょ。」
「ふふ、なんかいいね、そういうの。」
彼女は楽しそうに笑った。なんでもない、大したことない会話が、これほど心地よく感じられたのはいつぶりだっただろうか。
ジョッキの中の氷が、カランと音を立てた。