五百七十一話 幻想と裏切り
肩を掴む手が、震えていた。
今にも指がほどけそうである。それが、わずかな力を振り絞って縋り付いているように見えて、胸が痛くなった。
なんとなく、伝わってくる。
メアリーさんの『痛み』に、俺は共感している。
だって彼女は、俺の同類だった人だから。
メアリーさんの能力には劣るものの、俺も彼女と系統の人間であることには違いない。
故に、分かる。いや、分かってしまう。
彼女が何に対して傷ついているのかに、気付いてしまったのだ。
「物語が制御できない」
一方、彼女は俺が察していることに気付いていない。
いつもなら、下位互換であるはずの俺の思考なんて容易く読んでいるはずなのに、今は何も見えなくなっているようだ。
いや、あるいは……あえて、見ないようにしているのかな。
「ワタシのプロット通りにいけば、今頃キミは絶望の淵にいるはずだった。腑抜けたメイヒロインであるシホとケンカして、その代わりにクルリが新ヒロインとして台頭し、三角関係にもつれて……誰を選ぶべきなのか、キミは大きな選択を強いられるはずだった」
彼女は語る。
物語に関して饒舌になるのは、いつものことだ。
しかしその口調がいつもより弱々しいせいで、まるで弱音を聞いているような気分になってしまって……胸が、痛かった。
「ビーチに人を引き込んで、閉鎖的な物語に穴をこじ開けた。ここから更に物語を広げるはずだったんだ……必要であれば、リョウマだって呼び寄せる算段も立てていたんだよ? 彼を投入して、更に物語を進める予定だった――はずなのに」
ビーチが開放されたのは、竜崎を登場させるための呼び水だったらしい。
なるほど……よくできたプロットだ。たしかに、あいつがいたら更に物語がややこしくなる。
しぃちゃんとの関係を壊し、胡桃沢さんとの関係を作った後、そんな俺たちを竜崎が見たら……きっと、憤るだろう。しぃちゃんを思って、それから俺の不甲斐なさに腹を立てて、介入してくるはずだ。
そこから派生していけば、もしかしたら竜崎がしぃちゃんへの恋心を思い出す展開も生まれるかもしれない。あるいは、しぃちゃんの幸せを心から思って、今度は彼女の味方となって俺に説教をする、なんてこともできる。
その方が、物語の盛り上がりとしては適している。
でも……現状、そうなり得る気配はなかった。
「……リョウマは、呼んでも来なかった。ユヅキとキラリと別のビーチで遊んでいるらしい」
そんな、ありふれた理由で彼は物語の舞台に上がることを回避した。
この時点で、メアリーさんのプロットは歪んでしまっている。
「まぁ、彼の登場は最悪……海水浴が終わってからでもいい。このイベントで、キミたちの関係性が変化すれば、それからでも遅くない。でも、どうして――」
そして、彼女のプロットが破綻している最大の理由。
その原因は……『俺』だ。
「――どうしてコウタロウは、未だにシホと仲良くできている?」
……俺たちの様子だって、しっかり把握しているのだろう。
メアリーさんが想定するよりも、関係が壊れていないことを知っているみたいだ。
「おかしいよ。ねぇ、コウタロウ……キミなら分かるだろう? 物語が終わるには、しっかりと山場を作らないといけないんだ。それなのに、キミはどうして……ワタシを、裏切った?」
その問いかけが、憎悪を含んでいればまだやりやすかった。
恨みや怒りじゃなくて、彼女が抱いている感情は『悲痛』である。
たぶん、メアリーさんは察している。
それでも知らないふりをして……ううん、違う。直視しないように目を背けて、わずかな可能性にかけているんだ。
「もしかして『覚醒』でもしたのかい? ワタシを超えるシナリオが、キミの中にはあるんろう? だからワタシの想定しない出来事ばかり起きているんだろう? ねぇ、コウタロウ……そうなんだよね??」
俺が、彼女を超えた可能性を。
メアリーさんの理解が及ばない存在へと昇華したという、有り得ない幻想を見ようとしている。
もちろん、そんなことはありえないのに――




