四話・兎と、世界と
えーっと。
俺が名前を付けてもらって、代わりにいつまで続くかも分からない旅について行く?
うーん、あまり良い交渉じゃあない。
旅についていったら国許に帰れないし、結果、人妖衆の仕事を投げ出すことになる。任務放棄って字面がまずいよなぁ。
ただ今名前をつけてもらえなかったら、俺は死ぬ訳で。
……なるほど、俺には拒否権なんて、初めから無かったのか。
「分かった。その条件を呑むよ」
交渉には大失敗したのに、そう応じる俺はなぜか嫌な気分じゃなかった。
……なんでだろう?
「…! 交渉成立、ですわ!」
ともあれ、嬉しそうにぐっと拳を握るヘレン。
はじめの大騒ぎから馬鹿な子じゃないのかと思っていたけれど、案外強かな所もある。
ただの人間にしては体力も随分あるし、一体何者だろう。
ともあれ、気にはなるが今は兎だ。あれを倒さなきゃ始まらない。
ただ初めて見る妖?だから倒し方なんて知らない。
「ヘレン、なにか兎を倒す策を……………知らないから逃げてるんだよな、ごめん」
途中でやめておく。
悪いことを聞いた。
「自己完結しないでくださいな!時間さえ有ればあんなのわたくし一人でも倒せますわよ!……多分」
「多分」
まあヘレンの雰囲気から、なにかしら戦闘手段があるような気はする。けれど時間があったところで、それが成功する確率はあまり高くなさそうだ。
自信もなさそうだし。
「じゃあ俺が闘うから、もしなにかできたら後ろで叫んでくれればそっちに譲るよ」
「あ、ありがとうございますわ?」
ヘレンさん、譲ってくれなくていいと顔に出てますよ。
うーん。あの兎、俺で倒せれば良いんだけど。式神なしじゃ心許ない。
神様仏様、少しで良いから俺に微笑んでくださいよ。
こんなところに記憶無しで放り込まれている時点でそういう存在には期待していないけれど、それでも困った時くらいは縋りたくなる。
深く息を吸って、走って少し乱れた呼吸を気持ちだけでも整える。
一つ二つと息を吸うと、心なしか頭がすっきりして覚悟が決まった。
……よし、やってやるか。
「止まるぞ!後ろにいろ!」
「え、ちょっと!」
足を急停止させて、無理矢理方向転換させる。右手は鯉口をきった刀の柄に置いて、いつでも抜ける状態に。
もし兎が止まれずに突っ込んできたら、そのまま斬る───って、はやっ!?
兎はいつの間にか、俺の太刀で三本分くらいの距離にいた。
鎌鼬もびっくりのもの早さで進行方向の真正面にいる俺に突っ込んでくる。
俺は慌てて刀を抜いた。
ギシ、と足の筋肉が軋ませ、兎が地面を蹴る。
「ふっ!」
一歩だけ足を踏み出し、刀を横薙ぎに振った。
キイィンと金属同士がぶつかったような音を立て、空中で兎の角の先端と、俺の刀がぶつかる。
「ぐっ」
右手だけで刀を振ったせいで攻撃の負荷をまともにくらって、腕がジンと痺れる。
もう少し兎の体重があったら折れていたかもしれない。
だがその甲斐あって、と言うべきか、角を弾かれた兎は、当たり前のように体幹を崩して宙を舞った。
無防備な真っ白い背中が俺の目の前をゆっくりと落ちていく。俺は刀を握り直した。
「ふっ」
力を抜いて、兎の胴を斬りつけた。
刃はすっと吸い込まれるようにして兎の身体へと消えてゆき、深く裂けた傷から赤い血が飛び散って真っ白な毛皮を汚した。
「プキッ……!」
小さな悲鳴を上げながら、兎はもんどりうって地面に転がった。
内臓を傷つけたのだろう、兎から流れる血は黒々としていて止まる気配もない。致命傷のようだった。
もう長くないだろうと、刀についた血を飛ばし鞘に収める。
腕が少し痺れたが、特に傷は負わなかった。身体の調子は悪くても、それなりに闘えるようだ。
周りに敵の気配は無く、これで一段落だろう。
俺はほう、と息を吐いてから、後ろに下がらせたヘレンを見やった。
あからさまにほっとしてらっしゃる。
「なんか一人で倒せた」
「それは良かっ………直接手を下せなくて残念ですわ!」
「そうだなー」
うーん、この子も自信さえあればもっと何か出来そうだけどな。
次は期待してますよ、と。
「プ……」
「ん?」
ふと下を見れば傷を負った兎がいた。
まだ動けたのか。
瀕死とは言え、少し残心が足りないかもしれないと反省していると、兎が地面を前足で削っているのが目に入った。
死の間際に、一体なんなのだろう。
初めは少しでも遠くに逃げようと足掻いているのかと思ったが、どうも違う。
兎の削った地面にはなにか規則性があった。
不思議に思った俺は視点をぐるぐると変えながらそれを眺め続け、とうとうその正体に気付いた。
これは文字だ。
胸を何かで圧迫されたような息苦しさを覚える。
俺はしゃがんで、角付き兎に頭を近付けた。
苦しげに浅い息を吐くこの不思議な生き物は、さっきまでの猛った素振りすら見せず、静かな赤い目でただ俺を見ている。小さな身体から流れる血は地面に大きな水溜りを作っていた。この出血では、もう長くないだろう。
「…また、来世で」
今まで使った覚えは無かったが酷く思い入れのある言葉の気がして、そう言った。今度はこんな形でなく出会えることを願った。
「プ………」
兎は小さく鳴くと、前足を俺の方へと伸ばし、右手に触れた。
俺がその小さな前足を握っていると、兎は静かに生き絶えた。
「このキラーホーンラビット、どうかしたんですの?」
横からふいと死体を覗き込んでくるヘレン。
説明するべきか少し迷ったが、考えた末に兎の引っ掻いた地面を指差した。
「これ、なんですの?」
「この兎が書いた」
「え?」
まさか、という顔をするヘレン。けれど俺は首を振った。
腐葉土を削って書かれたそれは紛うことなく俺に対する感謝の言葉で、確かに兎が遺したものだ。
「ど、どういうことですの?」
困惑したようなヘレンの声。
この反応からみて、そうザラに起きることではないのだろう。何故だか少しほっとしながら、俺はヘレンに説明した。
「多分だけど、この兎は動物としての本能の他に人格があったんだと思う」
「人、格……?」
妖にも似たのがいた。
疫神と言ったか、普段は温厚な性格なのに時たま人格が入れ変わり、凶暴な人格の方が人の世に病を撒き散らす妖怪だ。
病気を流行らせて間は温厚な人格の意識はあるが、身体を動かせない。毎度、疫神という役割に染まった人格に囚われてしまうのだ。
「予想だけど二重人格みたいなもので、普段生きている時は人格の方なのかもな。切り替わるタイミングは、そうだな……人や獲物を見つけた時、とか?」
「………あ!」
思い出したようにヘレンが手を叩いた。
「そういえばわたくしがこのラビットを見つけた時、目があったんですわ。それで慌てて一目散に逃げたんですけど………考えてみれば、キラーホーンラビットが初めから追いかけて来てたらわたくし、ここまで逃げ切れてないですわ」
そういえばそうだ。
明らかに兎の方が足が早いのに、追いつかれるのは随分経ってからだった。俺がヘレンに出会っていない時から含めたら、かなり長い時間が空白になる。
もしかしたら本能を止めようと、人格の方がどうにか足掻いていたのかもしれない。
そして俺は、善良な人間が意に反して人を殺した時、どれだけの悲しみに暮れるか知っている。
そして殺人が止まらない時、人を殺すくらいなら自分が死んで終わらせる方が良いと考えることも。
きっとこの兎の人格もそうだったのだろう。
自分が死ねて、ほっとしたのだ。
「ちゃんと供養してやりたいな」
もう魂はここにいないとしても、放置していくにはあまりに不憫だ。
俺は墓を掘ろうと地面に手をかけたが、それをヘレンが遮った。
「それならわたくしが掘りますわ」
そう言って、これくらいしかできませんもの、と言ってヘレンが手を伸ばした。
「【第二階梯、デ・カウウス】」
聞いたことは無いが、術の祝詞だろうか。
幾何学模様をした円陣がヘレンの指先に浮かび上がり、彼女の指差していた地面がべこりとへこんだ。
「すごいな」
思わず声に出た。
微かに指先から何かが見えたが、霊力は動かず、式神の気配もない。
「あら?もしかして魔法も忘れてしまってるんですの?」
「どうなんだろ?ただそれ、初めて見た気がするんだよな」
魔法、と言うらしいが、式神やら妖術やらは覚えているのにこんな異質な術を忘れているとは考えづらい。
多分、もともと見たことが無いのだろう。
「それなら道中に少し説明しますわ。さ、取り敢えずキラーホーンラビットの供養をしますわよ」
ヘレンにそう言われて、俺は兎の小さな身体を抱え上げ、穴に横たえた。
普通穴を掘ったら土が出るはずなのに、魔法とやらの力のせいか、残土が出ていない。結局は側面から少しずつ土を削って埋めることになった。
上等なものなんてないから、墓標は石でいいだろう。
しっかりと手を合わせ、あの魂の来世の平穏を祈った。
「じゃあ行くか」
たっぷりと時間をかけた後、俺はそう言って立ち上がった。
ぶんぶんと頭を振って、気持ちを切り替える。
いつまでも暗い気分でいたら兎に失礼だし、自分とヘレンのためにもならない。
「ええ、それじゃあこれから宜しくお願いしますわ、旅の仲間として」
にっこりと屈託なく笑ってヘレンがそう言う。
俺が妖の子だからか、太陽のように眩しいその笑顔に、少しくらりときた。
「…名はお早くお願いしますよ」
「ふふ、良い名前つけてあげますから楽しみにしてて下さいな!」
そうするよ、と呟いた。
ふと気付けば、太陽はまだ俺達の真上だった。考えてみればこの土地に来てからまだ数時間しか経っていない。
「……新鮮だなぁ」
知らない森で、知らない獣を相手取り、知らない人間と共に行動する。
いつもの殺戮の日々とは打って変わった半日が、随分と違う色に見えた。
「なにか言いました?」
「いや、なんも」
横から顔を覗き込んできたヘレンの言葉を躱す。
森を抜けるまで後どれくらいだろうか。
人妖衆の仕事に戻れなくなるほど、この異色の景色に魅了されなければいいんだけど。
俺はそう小さく心に戒めながら、ヘレンの横を歩き始めた。