三話・兎とヘレンと俺と
幸いにも、この森は樹木がそう多くない。一本一本がそれなりの間隔を空けているから走りやすかった。枝も俺の背丈より高いところに生えているのが多く、気にしなくても当たる心配はないようだ。
「お、いたいた」
俺の進行方向と直角に交わるように、人が走っていた。よく見れば女だ。赤くて長い髪の毛が走るたび、激しく揺れている。
俺は進む方向を変えて、彼女と並走するような道をとった。そこから少しずつ距離を縮めていく作戦だ。
「おーい。あんた、大丈夫?」
間に木を三本分くらい挟んだ距離で声をかけた。
あんまり近すぎるとびっくりするだろうしと思ったからだが、それでも驚くものは驚くらしい。
「誰ですの!?」
綺麗な青い瞳をまん丸に広げて、その女──いや、どちらかというと少女かな?──は驚いたように俺に問いかけた。
いや、問いかけたというよりは驚いた時の条件反射といった方が近いかもしれない。とにかく、驚いているのは確実だ。
まあいい、取り敢えず自己紹介しよう。
………あ、特に名乗ることがない。
「えっと、通りすがりの者ですが」
「なんでシュヴァルツの森で『通りすがり』の人に会うんですのよ!?」
自分の情報が不確定のものが多すぎて適当に名乗ったら、即座に噛みつかれた。
よく分からんけどシュヴァルツの森っていうらしいね、ここ。
「まあまあそんな事は置いといて。なんであんた走ってるの?」
「色々言いたいことはありますけど、取り敢えずあんたって止めてくれません?わたくしにはちゃんとヘレンっていう名前がありますわよ!」
そりゃあ羨ましい。
「それはごめん。じゃ、ヘレン。なにから逃げてる?」
「後ろからキラーホーンラビットが来てるんですのよ!追い付かれたら角で串刺しですわ!」
そう噛み付くヘレンはかなり前から走っているようで、珠のような汗が額に浮かんでいる。
というより、キラーホーンラビットとは一体なんだろうか。角で串刺しって、鹿の類いの妖怪だろうか?
ちらりと後ろを見てみる。
高速で森の景色が流れていくだけだ。
「……なんもいないけど」
「あれの姿が見えたらお終いですわよ!?だから逃げてるんですわ!」
そうは言われてもまずそんな名前の妖怪にも動物にも会ったことないから、どんなのか知らないし………ん?あれは?
「なあ」
「なんですの!」
ヘレンは走るのに必死で、視線すら向けてくれない。
「後ろから白い兎が追いかけてくるんだけど」
「そんな、ですわ!?」
あ、俺は見ないで後ろだけ見るのね。別に良いけど。
まあ誰が見たって事実は変わらない。
小さな白兎が、確かに後ろから追いかけてきている。
………うーん。
俺の記憶だと兎って肉食動物に見つからないよう、極力目立たないように生きてる草食動物だったんだけどな。なんであんなに目立つ色をしてるんだ、ここは雪山じゃないのに。
それなりに気温はあるけれど、もしかして冬毛が抜け損なったんだろうか。
いや、そもそも人間を追いかけている時点でまともな兎じゃないな。
しかもあの白兎、頭から角が生えている。
薄黄色をした尖った角で、太陽を反射してぎらぎら光り、これもやっぱり緑基調の薄暗い森の中ではおそろしく目立つ。
草食動物らしく隠れる気は皆無だ「あぁぁああ、ほんとですわ!追い付かれますわ!!」騒がしい。
まあただその反応で分かった。
おそらくあの兎が……えっと……カラー?ホーン……ラビットとかいうやつだ。
鹿の妖じゃなかったね。
「カラーじゃなくてキラーですわ!」
「あ、はい」
訂正が入った。
おそらくあの兎がキラーホーンラビットとかいうやつだ。
………長くて面倒だから兎でいいや。
きっとあの角で人を襲って、串刺しにするのだろう。
その後どうやって肉に刺さった角を抜くんだとかいう世知辛いことは置いておいて、ちょっと怖い。
しかもあの兎、霊力を大して感じないのだ。他に少し変わった気配はするけれど、あれは確実に妖じゃあない。かと言って動物でも無いわけで。
んー、不気味だ。
こういう時、俺はどうするべきだろう?
式神無しでなんの情報もない敵と闘うのは勘弁だけど、ヘレンを見捨てる選択肢はないし………。
ちょっと話してみよう。
「ちょっと俺の身の上話して良い?」
「そんな暇無いですわ!」
「俺、実は半妖なんだよ。しかも断片的な記憶喪失」
「人の話聞いてますの!?」
しらー。
「それで自分の名前も忘れちゃってて。結構困ってるんだよね」
「馬耳東風どころじゃないですわね!?」
そんな風に怒ってはいるが、なんだかんだちゃんと話は聞いてくれている。優しい。
「それで、俺の名前を付けてくれないか?なるべく違和感のない、良い名前」
そう聞いてみたが、ヘレンは首をぶんぶんと横に振り、大声でそれを拒絶した。
「それじゃあ記憶取り戻した時に大変じゃないですの!」
一寸思考が止まった。
……………………えーっと、まあ、うん、あれだ。
「……気にするのそこ?」
「大事なことじゃないですの!親から貰った名前は大事にしなくちゃですわ!」
………うん、取り敢えずヘレンが優しい子だってのは分かった。
わざわざそんなことまで気にしてくれてありがとう。ただ、俺の名前は俺を拾った坊さんが適当につけたやつだよ。あんまり覚えてないけど。
んー、けど困った、妖怪に名を盗られて……なんて話してたら日が暮れるよな。
今話すのはちょっと無理だ。
「詳しいことは長くなるから今言えないけど、あんまり戻る気がしないんだよ。下手したら一生戻らないかも」
「記憶喪失ってそういうものですの?」
「そういうもの、そういうもの。だから名前つけてくれない?」
「それ、わたくしに利点がありますの?」
「利点?むむ………」
それを聞かれると弱い。
俺の出来ることなんてたかがしれてる。見返りになりそうなものというと……
「あの兎倒してあげる、とかは?あれ倒さないとヘレン不味いんじゃないのか?」
追っかけられてるし。
「それはおあいこですわ。多分今、あなたもキラーホーンラビットの標的になってますわよ?」
「え、ほんとに?」
ちらりと後ろを見ても、兎が追いかけてくることしか分からない。俺とヘレン、どっちを狙ってるんだ?
途中で目標変えて、俺狙いとか?止めてくれ。
ヘレンが荒い息を吐きながら次の言葉を続ける。
「確かに倒すのはわたくし一人だと無……難しいとは思いますからそれも良いですけど。もうひと声ありません?」
今絶対、倒すの一人じゃ無理って言おうとしただろ。
うーん。この子、俺が結構焦ってるのに気付いてるんだか、足元見られてるなー。
「じゃあそれに、この森を抜けるまで護衛する、っていうのを追加でどう?」
「……あなた、記憶喪失ってことは道も分からない迷子ですわよね?それじゃあわたくしが体良く森を案内してるだけじゃないですの」
「ぐ……」
ば、ばれた。
これなら必要最低限で済むと思ったのに。これ以上になるとその後の動きに支障が出そうだし……うーん、困った。兎も近づいてきてるしなぁ。
「逆にヘレンはなんだったら名前付けてくれる?」
「あら、わたくしに聞いてくれるんですわね」
「え」
そう言われて、悪手だと気付いた。これではヘレンの言い値で名付けを引き受けてもらうようなものだ。
あーあ、ヘレンのしてやったりな顔が悔しい。
「そうですわね……実はわたくし、冒険者になって国中を旅するのが夢なんですわ」
「へえ」
相槌は打ったけど、冒険者?
旅人となにが違うんだ?というか暇じゃないんじゃないの?
よく分からないけれど、俺にその資金でも用意させるんだろうか。旅ってお金がかかるだろうし。
金の請求だったらどうしようと、俺は心の中だけ身構える。
そしたらヘレンは堂々と言葉を続けた。
「わたくしのお願いは、その旅について来てもらうことですわ!」
一寸思考が止まった。
「………馬鹿なんじゃないの?」
なんとかその言葉を絞り出す。
まさかこの短時間で二度も思考停止を余儀なくされるとは思っていなかったよ。
「それが今日初対面の人に言うことですの!?」
「その初対面の人に旅のお供を頼むな」
どれだけ危機管理能力が仕事してないんだ。
「あなたなら、胡散臭いし闇深そうだけど、信用できると思ったから、頼んだんですわ!」
「それ褒めてる?」
体力の限界が近いのか、ヘレンは言葉を短く切りながらそう言う。
そもそも胡散臭いのと信用って両立する要素なんだろうか。謎だなぁ。
とにかく、条件を整理してみようっと。