22.無力な自分
「お願いだ!頼む……!」
目の前で頭を下げるイェンス様に、私はたじろぐことしか出来なかった。
事の始まりは、ほんの数分前に遡る。
今日は放課後にポスト先生の所へ行く日。なかなか離してくれないリオをなだめてから薬学室まで来ていた。
「あれ?」
ドアを開けようとしたが鍵がかかっており、またか、と肩を落とす。
私が手伝う日になのに不在で閉まっていたことは過去に1度や2度ではない。教師なんだから授業が終わる時間くらい把握しておけ、と思うのだが、何度苦言を呈しても直らないのでもう諦めている。
ドアに寄り掛かり、廊下の窓の外を眺めていると、遠くから目立つ人物がこちらに向かって歩いてきた。
あれは間違いなく、イェンス様だ。
放課後は生徒会室に直行しているはずである。それなのに校舎の反対側まで何の用だろうか。
関わる気もないので、通り過ぎるまで頭を下げていた。
「クレア令嬢」
しかし困ったことに、彼は私の目の前で歩みを止めた。しかも名前まで呼んだのである。
こんなどこにでもいる生徒の私に、彼みたいな人物に呼び止められるはずがない。何かの間違いだと思い、顔を上げると、しっかりと目が合った。
思い当たる節は、この前のリオとランドル様が揉めたときぐらいか。だが、あの話は終わっているはずだ。一体何だと言うのか。
頭の中がこんがらがっていると、イェンス様は静かに口を開いた。
「薬学者の名門、ノースドロップ家の令嬢と見込んで頼みがある。妹を助けてくれないか……!」
そして話は、冒頭に戻る。
自分より身分の高い人に頭を下げられる経験などない私は、パニック状態だった。
唯一救いだったのは、薬学室が校舎の隅にあることぐらいだろうか。この状況を人に見られたらどうなると思っているんだ!
「えっと、とりあえず頭を上げてください!この状態ではお話を聞くことすら出来ませんから……」
他に人が来ないか辺りを見回していると、私の遠くの方から知った声がした。
「あれ?クレア、どうしたの?」
やっと先生が戻ってきた。部屋の鍵を指で振り回している辺り、私を待たしていることへの罪悪感はひとつも無さそうだ。
「イェンス様、とりあえず中に入りましょう。先生!早く鍵を開けてください!」
私が声を荒げると、先生は慌てた様子で鍵を開けた。
先生がお茶を煎れてくれた。宰相の御子息にビーカーでお茶を出す勇気だけは見習いたいところだ。
一瞬ぎょっとしたが「ありがとうございます」と受け取ったイェンス様は、さすがと言うべきか。
「で、事情を教えてくださいますか?」
「あぁ……」
私が促すと、イェンス様は一枚の紙を机の上に置いてから重い口を開いた。
事の次第は、こうだ。
イェンス様の妹の容体が急変したらしい。元々病弱ではあったが、今回はいつもより酷い。
毎日苦しむ妹を何とかしたく、多くの医者を頼った。そこで医者に言われたのが、ある薬を飲ませれば改善するかもしれない、と。
ただその薬を作るには足りないものが二つあった。
一つはシノネの花。この国では育てていない花で輸入するしかない。色んな船に掛け合ったが、手に入るのは早くても一ヶ月後だと言われたそうだ。
もう一つはこの薬を調合してくれる優秀な薬学者だ。ただでさえ難しいレシピ。例え花を入手しても貴重な品を失敗せずに作れる人が必要である。
優秀な人材の多くは王宮に勤めている。イェンス様の父は宰相だが、私用で王宮のものを使うことは出来ない。王宮の者は、王族のために存在するのだ。
窮地に追い込まれたイェンス様は、藁にもすがる思いで私の元へやってきたらしい。
「お話は分かりました」
「だったら……!」
「ですが、お役にたてるかどうか分かりません」
私の返事に、イェンス様は沈痛な面持ちをした。
「我が家にはシノネの花がありませんし、調合出来る人もいるかどうか…‥」
シノネの花はうちの植物園でも育てていた。しかしそれは昔の話だ。繁殖が難しく手がかかるので、今は必要な時に輸入することになっている。
「しかし君の能力値なら……!」
「勝手に鑑定したんですか?」
「……すまない」
人の能力を勝手に鑑定するのは失礼だ。
イェンス様が鑑定能力の持ち主だということは、有名な話だしゲームの設定でもあったので知っていたが、まさか只の生徒である私に使っていたとは思わなかった。それほど思い詰めていたということか。
確かに私の能力値は、基本的な薬なら調合できる薬学者と同じぐらいだ。しかしそれはあくまでデータ上の話。実際処方するのとは訳が違う。
「私はまだ勉強中の身ですので、調合した物を人に飲ますのは責任が負えません」
薬学者に明確な資格は無いが、師匠からのお墨付きが無いと人に提供が出来ない。私や兄の場合、父親に認めてもらう必要がある。
専門学校の実技試験にもなっている治療薬や回復薬なら他人にも提供することが出来るが、病の薬となると私には手におえない。
その旨を伝えると、イェンス様はがっくりと肩を落とした。
「そうか……突然すまなかったな」
「いえ、お役にたてなくて申し訳ございません」
イェンス様は暗い表情で立ち上がり、重い足取りで部屋を出て行った。
助けてあげたいけれど何も出来ない私は、彼の後姿を見つめることしか出来なかった。
自分の無力さをこんなに歯痒く感じるのは初めてだった。




