(21話)走る街と泳いでく雲
金田の手に、冷気を帯びた魔力が集中する。
「グリーツ!!」
その瞬間、ピタリと風は止んだ。金田の解き放った初級の氷魔法は、泳ぐようにアンドレアスへと進む。
3m80cm。2m40cm。2m。1m30cm1m。
50cm、
40cm、
30cm、
20、
10、
9,
8,
7,
6,
5,
4,
3,
2,
1,
0.
ぎゅる。
身体を抉る音と空気に対抗する音の不協和音。茶色いビール瓶とは比べものにならないほど透き通った氷のナイフを血が一瞬で染めた。流れを変えた血が外へ一目散に散ろうとしたが鋭利な氷が蓋をして出れない。しかしどうしても外に出たいらしい血は仕方なく口から飛び出ることにした。そのため、ハイツのチープな床は赤く染まる。途端に鉄のツンとする匂いが、 臭いが、 香りが、 薫りが、
痛い。
理解が追いつかない。
「ごぶッ」
びちゃ、ビチャ。
また、勢いよく吐き出された血がハイツの廊下を元気に汚す。血の海が広まった。
「お前の勝ちだ。金田…。ユリ、悪かったな…」
ずる、とアンドレアスの肩がずり落ちる。
「………え?」
4秒、それと0.16秒ほどして、やっと彼の妹は走り出した。
「うっ…わあああああ!お兄ちゃん!お兄ちゃん!!」
支えようにも、力が抜けていて、どこを支えようか考えれない。
すぐに秋野が駆けつけて、一緒にアンドレアスの体を支えた。正面からいくものだから、血がモロにかかる。
しかしそんなことは気にせず、彼女はありったけの声を上げる。
「機堂!きっ!救急だッ」
「おおッ!」
すぐにポケットに手を突っ込んで、またすぐに抜く。
「あかん、ない!」
抜かれた手には携帯電話が無かったのだ。
「えッ!ど、どうす…」
動揺している2人に、同じくらい動揺している金田が言う。
「もうここの住人を呼ぶぞ!」
「…せやな!それしかない!」
「…た、頼むッ」
人が死ぬ、人が死んでしまう。その姿を見たくないという恐怖心と、ただ助けたいという純粋な心だけを原動力に、手のあいていた少年2人は駆け出そうとしていた。
していた。
「…!」
「クッソ!」
思うどうりに体が動かない。やけに体が重いのだ。心臓が働いていないみたいだ。血が流れていないみたいだ。感覚が消えているみたいだ。
こういう時、人はパニックになりやすい。だから、まず冷静さを保つことが大事だ。そして、だからみんなは冷静であろうとした。
だが急に集中が切れてしまった。床に散ったアンドレアスの血がもう一度、目に映ってしまったからだ。
さっき、見たばかりなのに、どうしてか二度目の血はより精神にダメージを与える。
「うッ…」
下品な言い方だが、ショックでゲロを吐いてしまいそうになる。途端に機堂は手で口を抑える。
そして思い切って目を瞑った。視界が黒くなり、一瞬にして眉間にしわがよる。
「…」
同じくらいに、金田も今になって疲れが回ってきた。
「ハァッ、ハァッ…」
早く、早く助けないと。
止まっていた2人の時間が動き出すのは、ほんの数秒だった。
「誰か!!誰か救急車を!!!」
「誰かァ!!人が倒れとるんや!!」
助けを叫ぶ。ピンポンなんて押している暇ない。少しでも、人が駆けつける可能性が高まるように、遠くまで届くよう叫ぶ。
「誰かいませんか!?!」
「救急車を呼んでくれ!!」
このクソ安いハイツの安っぽい壁に、そこまでの防音機能はないはずだ。
小難しい言葉も言わず、2人はひたすら「誰か」を呼んだ。
止んだ風。
「ユリ…」
アンドレアスが手を伸ばす。
「お兄、ちゃん…」
伸ばされた手を、ユリは優しく掴み、自分の肩にそっと回した。
その時、「誰か」が来た。
「誰か」さんは、美しい肌に涼しげな服を纏っていた。あと、美しく大きな黒い宝石のような顔をしていた。
「Andy‼︎‼︎」
そう叫んだ彼女は、息を少し切らしていた。それに、汗で服が体に張り付いている。どうやら急いで駆けつけたみたいだ。
そんな彼女を見たそれぞれは、それぞれの反応をする。
「…」
「良かった…」
「よ、良か…って、え!?」
「…ふゥ」
「……るっ、」
琉瑠流ぅっ!!!
…ああ、今さっきこう叫んだのは、その「誰か」さんの親友であるユリだ。
「……痛ッ!」
「…うん。これでよし」
「…」
「…」
「なっ」「あ、」
2つの声が重なる。アンドレアスと琉瑠流の間に、ほんの少し気まずい空気が生まれる。
「先、」「先に」
今、6人もの青年達は、安い安いアパートの、何も無い一室にいた。レイクハイツの隣に位置するアパートだ。(ちなみに、家賃の安さと、建物のボロさはレイクハイツに引けを取らない)
「…」「…」
何がどうしてこうなったのかというとだ、あの後…
倒れたアンドレアスのところに近寄った琉瑠流は、アンドレアスが小声で言ったことを聞き、「みんな、すまないまず私達の拠点としているところに来てくれないか」と言って案内したのだ。それに従った結果、着いた先はこのアパート。そしてついさっきまで、琉瑠流はアンドレアスの手当て…応急処置をとっていたわけだ。
「…ハァ。もうアンディは安静にしてくれないか?」
「う…」
ずこずこと彼は黙り込む。
十数分前の、自分達と戦ってたときとは比べもんにならないくらい弱気だなぁ…。
そんな目でアンドレアスと琉瑠流を見ながら、秋野はこれから始まろうとしている話に耳を傾けている。
「よし、やれやれ。…では、まず最初の最初に言いたいことがある。」
「?」
ユリと秋野、そして金田に機堂、全員がキョトンとしていると、急に
バン!
と音が鳴った。
4人がビクッとなっているのにも気づかず、琉瑠流は大きな声で言う。
「本っっっ当に、ありがとう!!!」
見ると、琉瑠流は土下座をしていた。
「ルルルちゃん…」
ユリが喋っても、顔も上げずにそのまま話を続ける。
「ユリ、お、お前には…その、今は言えないけど、別に話がある…あ、あります」
「…」
「でもまずは本当に。本当に、ありがとうって言いたかったんだ。…金田君、すまなかった。…そして、みんな、ありがとう」
こう言ってやっと頭を上げた。主に感謝の言葉みたいだが、言いたいことが溢れているようだ。それに、琉瑠流は表情が見えないし、涙こそ流していないが、感情は伝わる。
「私は、アンディがお前達を【殺】そうとしているのを知っていた。それなのに、止めようとしなかった!…そのくせ、心のどこかでアンディが負けて【殺】されることが怖かった。死んでほしくなかった。共に生きたかった」
それを聞いたアンドレアスは、隣で、紅くなった頬をぽそぽそと掻いた。
「…」
「アンディと私は…いくら誤魔化して言おうが、敵だ。それも、お前らを…こ、殺そうとした。ハハ…さっきから同じことしか言ってないな……助けてくれてありがとう」
その後も、琉瑠流の感謝の言葉は尽きなかった。
秋野は、それを涙目で聞いていた。気を抜いたら、すぐに滴となって落ちてしまう。
そうだ。柚も、死にかけたんだ。でも、そんなことじゃない…なぜか、そのことに怒りが湧かない。でも柚が死ぬってのは本当に怖いんだ…。怖い。私は、怖い。
………ああ、本当は、心のどこかで、柚の神候補を辞めさせて、また日常に戻ろうとしているのか、私は。
「あ、秋野君?」
琉瑠流にそう呼ばれ、ハッ、と意識の世界から戻る。
秋野は、でもなんで呼ばれたんだろう?とも思った。話を聞いていないのがバレた…ということでもなさそうだ。そもそも、話はしっかり聞いている。
?…なんで今名前を呼ばれたんだろう…
「涙が…」
流れていた。
目の前の彼女が、ハンカチを伸ばして、拭き取ろうとしてくれていた。
慌てて、そのハンカチからちょっと体を離し、手でぱたぱたと涙を拭く。
「なっ、だっ、だ、大丈夫です!あああっ、ありがとうございますっ!」
「?…ああ。しかし話が長くなってしまったな」
「…」
「……うん。そうだ、ユリ、今日は泊まっていかないか?っ!じゃ、なくて…と、泊まりましょう?」
立ち上がった琉瑠流はユリに向かって言った。
「…!え、ア、ああっ!そうしようカナ〜」
ぎこちなくユリが応える。
「では、ちょっと料理を手伝ってくれ…や、手伝ってくれない?」
「そうだネ。…そうだヨ!じゃあ、もう早速、冷蔵庫に案内してもらおーかナ!」
「ああ、そうだな。ユリには話したいことが…」
彼女達は、こう言ってどこかに行ってしまった…。
「やっと話ができるな」
次に、肩に包帯をグルグル巻かれたアンドレアスが口を開いた。消毒済みの傷の上に大きく巻かれた包帯がみんなの目を引く。
(まぁユリも金田も、機堂も秋野も、琉瑠流に手当てしてもらったのだが)
「金田君。神候補が優しくあっては駄目だ、敵に甘くあっては……とは言えない立場になってしまった」
真剣な顔つきで彼は話を続ける。
「すまない、今の俺は、馬鹿のひとつ覚えみたいに、ありがとうとしか言えなくなっている。だからまず一つだけ言わせてくれ。ありがとう」
「…はい!」
「うん。『あの時はどうかしてた』では済まされないことをした。許してもらった訳ではないし、許されることでもない」
「…」
「改心なんて良いものでもない。ガラスの雨を止めた、ユリの魔法を見たとき、お前達に勝とうという気持ちがなくなってしまった。…恥ずかしいことだが、ユリが、俺の魔法からお前達を守っている姿と、自分を重ねてしまったんだ。…琉瑠流のときは守れなかったのに、俺からみんなを守ったユリに自分を重ねたんだ…」
「…そんなこと、ないです」
「……え?」
「すぐに琉瑠流さんとアンドレアスさんは強い信頼関係があるって見て分かったし、それに…琉瑠流さん、幸せそうでしたよ?」
「はは、ありがとう。金田君。また、君の甘さに……いや、優しさに救われてしまったな」
「いや、優しくなんか…」
「なぁ、金田君」
「はい?」
「これから。これからの俺は、頑張る。自分の力で、琉瑠流を守ってゆきたい。それと、これから何か困ったことがあったら、いつでも頼ってくれ。今からの俺は、お前達によって生かされている命だ」
その後、3人は帰ることにした。ご飯までいただくわけにはいかないし、と思っていたから。
もう外はすっかり暗かった。上を見ると、青黒い雲が、赤の混じった青い空を泳いでいる。
「…」
「…」
「…」
「……あっ!!」
「?」
「きゅ、急にどうしたっ!」
秋野がおもむろにポケットに手を突っ込む。
「これ」
手には、金色のロケットペンダントを握っている。
「あー、ユリさんの…」
「明日届ければいいんちゃう?…それよりも、こんな目に遭わされたんや。中身くらい見ても罰当たらんやろっ!」
そういえばそんなことが気になっていた。戦いの中、完全に忘れてしまっていたが…
「よ、よし…」
小さな写真。
近所の公園をバックに、写っていたのは、4人の少年少女だ。そう。ユリと、機堂と、金田と、……ユリの隣で笑っている秋野の
トントントントントン。
野菜を切る音。2人の女性が並んで料理をしている。
「それで、その…ユリ」
トントントン。
「ナーニ?ルルルちゃん」
トントントン。
「謝りたい。アンディを、お前の兄を止められなくて」
トン…
ユリの野菜を切る手が止まった。いつの間にか琉瑠流の手も止まっていた。
「ユリ、ごめんなさい。私は、お前の兄が、お前に何をしていたか…ヒッ、し、知っていたのに…ウッ」
嗚咽の混じった謝罪をする琉瑠流の手からは、いつの間にか包丁が無かった。いつの間にか、ユリの手からにも。
「ごめんなさい。しかし、…でも、私は、ユッ、ユリちゃんとまだ、友達に戻ろうとしている。ア、ア''ア''…最低だ。私、まだ、ユリちゃんと友達に戻る気で…」
次の言葉が、琉瑠流から言われることはなかった。
「?!…ユリ、ちゃん…?」
じわ…とお腹があったかくなっている。その温もりは、だんだん広まった。
「友達に戻るなんてそんな…寂しいこと言わないデ。ずっと…ずっと友達だったでしょ?」
ユリの綺麗な手が、琉瑠流の美しい肩をギュッと掴んで離そうとしない。
「ウッ、ウワァァァア!!!そんな!私はユリに……。ユリ…。ユリ……」
琉瑠流の涙を見たことはないけど、ユリは、琉瑠流が心で泣いているのを、心から泣いているのを感じた。
ユリもぐしょぐしょと琉瑠流の服を濡らしている。
その日、2人は人生で初めて、心からハグできた。
窓の外では、やっぱり紫になりきれていない空を、雲が泳いでいた。走る街を見下ろして、のんびりと雲が泳いでいた。
誰にも言えなかったことは
もう言えたんだ
親友に




