13 覚悟
絶望というペンキで全身がぐったぐたに塗りつぶされる、そんな感覚だった。
「いやっ、やだっ…許してください、お願いします。…ひぐぅっ。やだぁ、もうやめてよぉ。助けてください、お願いですから、お願いです、お願いします…。」
心も体も凌辱され続け、女として人としての尊厳を踏み躙られる。泣き喚き叫び抗った所で、それは奴等の嗜虐心を煽るだけで、無駄な行為どころかむしろ状況を悪化させるだけの行為だ。そんな事を早々に思い知らされた。
だからといって、心と体が大人しくなるなんてわけがない。どれだけ頭で理解した所で、泣き喚き叫び抗う事を止められない。そしてそれがより彼女を痛めつける刃となって戻ってくる事は理解でき、その事実がさらに心を抉る。
「やだっ、やっ、カハッ。いヒュッ。ひぃハッ…おね、ヒッ。」
最悪な事に、それでも人の心と体は、簡単に壊れてくれる程脆くは無いらしい。繰り返される凌辱行為はとっくに心を壊していてもおかしくない。繰り返される暴力行為はとっくに命を奪っていてもおかしくない。
それなのに彼女は未だ自我を持ち、身体を動かせる。そして繰り返し泣き喚き叫び抗う。必死に助けを求めているかのように。しかし、もはや彼女が求めているのは終焉だ。助けを求める気持ちは早々に無くなった。だから彼女は、心あるいは体が終わってくれる事を願っている。奴等の方から終わらせる事は無い。終わるのは彼女が終わりを迎えた時だけだ。
けれども、まだ彼女は終わる事が出来ない。まだ心が砕けない。命が尽きない。
だから、地獄も終わらない。
死にたい。終わりたい。
おぞましい。吐き気がする。
自分の感情と彼女の感情が混在している事が不思議なくらいはっきりと分かる。彼女は強姦事件の被害者で、そして私は今それを追体験させられているのだと。
人が持ち合わせていたのかと思える程の激情に、人が耐えられるとは思えない苦痛。それが今まさに自分の身に起こっている。まるで現実のように感じるほどに。
たぶん、私は彼女に憑依のような事をさせられている。激情も苦痛も、今感じる物は彼女が感じたものなのだろう。そしてもうすぐ彼女が終わる事もなんとなくわかる。当然だ。私もきっと耐えられない、彼女と同じ目に合わされたのなら。
それでも今私が私自身を保てているのはそれが、『自分じゃない』から。あまりのリアルさに自分に起こっているかのように感じるが、それでも実際は過去の事件を当事者の視点で経験しているというもの。
痛い。苦しい。殺して。呪ってやる。負の感情に心が覆いつくされても、それでも『九条美咲』という存在に戻れるなら、たぶん私は彼女のように壊れる事はないのだろう。何故かそんな確信めいた感覚があった。
そして、彼女の終わりと共に、地獄も終わりを告げた。
気付けば、『九条美咲』に戻った自分がミラーハウスの前で蹲っていた。
吐き気が止まらない。確かに自分は壊れなかったが、精神が擦り減っている事をひしひしと感じる。体も震えが止まらない。自分は刑事だが女でもある。あの光景に怒りを覚えた反面、心の底まで恐怖を刷り込まれたのも事実だ。
なんとか立ち上がろうと足に力を込めるが、上手く体が動かない。さっきまでの影響だろうか。しかし、震えて立てないというよりは、体が縛り付けられたように動かない。もがこうにももがく事すら出来ないでいると、目の前に人の気配を感じた。
そして気味の悪いウサギがニヤニヤとこちらを見下ろしていた。
「お疲れさン。どうだったかなァ?遊園地のアトラクションは楽しんでもらえたかナ?」
「最低な感性ね。アトラクションとか楽しむとか、反吐が出そう。こんな場所さっさと閉園した方が良いと思うわ。」
「おやおやァ、流石は刑事さんダ。心が強いねェ。」
自身に地獄を体験させた元凶に対し、心を奮い立たせて九条が吐き捨てる。そんな彼女を嘲笑うように悪夢は悪辣な笑みを深くする。
「それにこんなに素敵な遊園地にケチ付けるなんて、遊園地に対する冒涜じゃないイ?…VIPコースいっとク??あははははははハ!VIPいっちゃウ!?」
不穏な単語を口にしたマスコットがケラケラと大声で笑い転げる。その声に反応するかのように周囲からワラワラとウサギ達が集まり始めた。
「VIP行くノ!?」
「V・I・P!!!」
「お姉さん何したのォ?」
「ぅわっほぉーイ!!」
そして集まった彼等は九条の周囲を取り囲み、声を揃えて『VIP』コールを始める。あからさまに異様な雰囲気を作り出した集団に、九条は思わず息を呑む。ヒュッと喉を通る音が響いた。
「VIPだかなんだか知らないけど、いったいここは何なの?先輩を何処にやっ…」
「基本はネ、アトラクションは過去の事件を追体験するだけなんダ。憑依という形でネ。」
それでも気丈に現状把握に動いた九条だが、それを遮って笑い転げていたウサギが立ち上がり不揃いの不気味な歯を見せつけるように口を開いた。
「でもネ、VIPコースだと、なんと、実体験できるんダ!!!!」
「えっ??」
目の前のおぞましい何かが口にした言葉の意味を理解出来ず、九条は一瞬呆ける。しかし直にその意味を把握し急激に顔色を悪くした。
「わかったみたいだネ?キミはさっき『自分じゃない』から耐えられたと感じていたネ。その通りだと思うヨ。ま、中にはそれでも駄目な人もいるけどネ。じゃあサ…キミ自身があんな風になったら、果たしてキミはどうなっちゃうのかナ??」
カチカチと音が脳内で響き渡る。自身が鳴らしている歯の音だと理解出来ない程に、九条の心は恐怖に支配されていた。あんな地獄を自分自身が、『九条美咲』として味わう?そんなの無理だ。壊れる。壊される。さっきのであれだ。夢の中だから体がどうなるかは分からないが、それでも間違いなく『九条美咲』の心は死ぬ。
立ち上がれないままでいた九条の体が、ふわりと地面から離れる。夢の中だから浮き上がった、などではない。しかし重さをまるで感じさせないかのように彼女の体は宙に引き上げられた。残酷な未来をしっかりと自覚させるかのように、悪魔達が彼女の手足を拘束し、担ぎ上げていた。
「い、いや、やめて、お願い、やめてっ!」
彼女の懇願は届かない、届くはずも無い。ケラケラと笑い声が、繰り返される声を揃えたVIPコールが、その懇願が立ち入るスペースが無いとばかりに辺りを埋め尽くす。
「…ぱい、…けて。」
恐怖に竦んで上手く言葉を発せない。
「せん…い、たす、け…。」
なんとか発声しても、震えてたどたどしく。
それでもこの言葉が届けばきっと。あの人は頼りになる人だから。
ずっと前から、自分にとってのヒーローだから。
だからっ。
「助けてよぉ、ふーにーっ!!!!!!」
「おいっ!九条!!!目を開けてくれっ!!!」
「せ、ん、ぱい…?」
「…九条ぉっ!!!!」
「えっ?うひゃっ!!」
自身への呼び掛けにうっすらと目を開き、ぼんやりとそれを発する存在を口にした九条は、突然の衝撃に間の抜けた叫び声をあげる。
頭が何か固い物に押しつけられ視界が遮られる。少しずつ覚醒していく中で自分のものではない体温と鼓動を感じ、自身が千堂に抱き抱えられている事に思い当った九条は思わず千堂の腹を突き飛ばした。
「うぇっっ!!」
今度は千堂が間抜けな呻き声をあげ、踏鞴を踏んで九条から離れた。思わずやってしまった行為に申し訳なく思いつつ、九条は自身の鼓動が速まっている事を感じる。心なしか頬も熱く感じ、視線を千堂から外した。
しかし、その様子に千堂の雰囲気が激変する。何かを恐れるかのようにジリジリと九条のベッドから離れて行く千堂の足が視界に入り、ふと九条は視線を千堂へと戻した。するとそこには、沈痛な面持ちで扉の方へと後ずさる千堂の姿が確認できた。
訝しげに九条が千堂と目を合わせると、顔色を真っ青にした千堂が頭を下げた。
「す、すまん、九条。思わず、なんだが。あ、いや、えっと、な。」
「先輩、どうしちゃったんですか?」
「あの、な。正直、聞き辛いんだが…俺が近くにいても大丈夫か?」
「えっと、何を言ってるんですか?」
時と場合によっては口説き文句にも成り得る言葉を、青褪めた表情で言う目の前の青年に意味が分からないと、多少言葉に込める空気が冷たくなる。しかし、真剣な表情から、ふざけているわけでもその言葉が間違っているわけでもないらしい。ちらりと視界の端には心配そうな表情の看護師もいる。そしてとりあえずと千堂を部屋の外へと促そうとしている事にも気付いた。
その様子に、唐突に直前までの悪夢について思い当る。思い出した瞬間背筋をぞわりと何かが駆け巡るような不快感に襲われたが、同時に千堂の考えている事にも辿り着いた。
そのために九条の表情が強張る。そんな九条を見て千堂は自身の不安が現実になったと思ったらしい。辛そうな表情を隠す様に千堂が踵を返して扉へと駆けだそうとし…
「待ってくださいっ!!」
それを咎めるように、九条は怒鳴り声をあげた。
それは勘違いだ。そしてそんな勘違いを彼には死んでもされたくない。
嫌な夢は見た。危なかったのも事実だ。
でも、『私自身』は穢されていない。間にあった。間にあってくれた、他でもないあなたが。助けてくれたっ!だからっ!!
「最低な夢は見ました。えぇ、身の毛もよだつ悪夢でしたよ。だからって変な気を使わないでください。夢は所詮夢です。勝手な勘違いで人様を傷物扱いするっていうなら、責任取らせますよ?」
「お、おう…。って責任?」
「っっっ!…そうですね、先輩が勝手に脳内で勘違いした案件の慰謝料の相場…」
「九条っ!大丈夫なんだなっ!急いで五味さんも呼んでくるっ!!!」
言うが早いか、慌てて扉に向かった千堂はドアノブに手を掛け、
「ぶぅぇえっっ。」
「九条大丈夫なんだなっ!?」
五味によって勢い良く開け放たれたドアに吹っ飛ばされていた。
そんな光景を目にして、九条はようやくクスリと笑みを浮かべられた。
「『アトラクション』が憑依で『VIP』が実体験となる、か。」
「はい。幸い…なのかは微妙な所ですが、私も『アトラクション』止まりだったので、今の所は『嫌な夢を見せられた』くらいの感覚です。内容が内容なので、正直気分は頗る悪いのですが。」
九条が起床したため、今度は話し合いの場を九条の病室に移して行われている。主な内容は当然ながら九条の見た夢についてだ。千堂の見た夢、そして九条の見た夢、さらに本人は知らない事だが夢を見ている間の九条の状況などを含め、もはや悪夢について単なるオカルトだと切り捨てる者は一人もいなかった。
「そして、『VIP』ですが。正直、自分も経験したら今はここにいないと思います。女だからとかではなく、『アトラクション』の段階で十分にえげつないです。当事者の苦しみがまるで現実のように感じられるので。『VIP』は間違いなく人の心を壊します。『死』なんて現象に耐えられないと断言できます。」
「だが、それだと心が死ぬのはわかるが、現実で死ぬ事の説明がつかない。」
重厚な説得力を伴う九条の説明に皆が納得するが、それでも解決出来ない事があると五味が問いかける。
「帳尻合わせじゃないですかね。」
「帳尻…って、なんだそれは?」
ふと何の気なしに呟いた千堂の言葉に五味が反応する。それに対し「ただの暴論ですよ?」と前置きしつつ千堂が自論を並べる。
「心が死んでるけど体が死んでいない。死んだら生き返る事は出来ないから、死んでる方に合わせる。ジェットコースターに轢かれたなら電車に轢かれる。アクアパークで水中に引きづり込まれたから溺死する。観覧車から落ちたから転落死する。昨日旭さんが言ってたじゃないですか、場合によっては明晰夢は一種の催眠になり得るって。心が死んでると思い込まされているから、体もそれに帳尻を合わせるように死ぬ。」
「そんな馬鹿な話が…。」
「そんな馬鹿げた話を今朝からずっとしてるんですよ俺達は。ね、五味さん。」
そう言って肩を竦める千堂に対し、苦虫を噛み潰したような表情で五味が唸る。確かに今更何を言っているって話だなと溜息を零し、五味は改めて九条に向き合った。
「で、だ。千堂もお前も幸いな事にこうして目を覚ましてくれた。情報も集められた。それで、この事件に対するアプローチは何か思いつくか?」
その言葉に九条は僅かに息を呑み、千堂はその様子を見て表情を強張らせる。だが、両者共に答えはとうに持ち合わせていたらしい。九条が声の通り道を塞いだ分だけ早く千堂が先に応じた。
「いや、パッとはまだ何も…」
「先輩、ふざけないでください。五味さん、私達は跡地にもう一度行こうと思っています。」
「九条っ!?」
しかし、はぐらかそうと言葉を濁す先輩の言葉を後輩が切り捨てる。激昂して立ち上がった千堂だが、当然怒りを感じたのはその行為によるものではない。数時間前の荒々しさはそこには無いが、親が子供に対する本気の説教のごとく千堂が捲し立てる。
「ふざけてるのはお前だっ!お前がどういう状況にあったと思う?二度とあんな場所に近づけてたまるかっ!!」
「先輩は私の親かなんかですか?行かなきゃいけないのはわかっているでしょう?」
「あぁ、だから俺一人が行ってくれば良い。だいたいお前は年頃の女…」
「馬鹿にしているんですかっ!?」
勢いのままがなり立てていた千堂だったが、九条の言葉に思わず怯む。彼女は殺気さえ込められていると錯覚する程の剣幕で、立ち上がった千堂を下から睨みつけていた。
千堂が静かになった事で九条も声色を落ち着かせ、千堂や五味に、そして自身に言い聞かせるように自身の思いを吐き出した。そこには強い覚悟が込められていた。
「女ですけど、刑事です。事件の解決の道筋が見えているのに遠回りなんかしません。これは先輩に教わって、先輩から学んだ事ですよ?」
「だが、九条…」
「大体、他の人だったら頷いてますよね。流石に先輩から無理矢理連れて行く事はしないでしょうけど、本人が覚悟決めていたら、ペア組んでる相棒ならそうするでしょう?今の私は守られるか弱い女じゃなくてっ、先輩の相棒ですっ!!」
九条の問いかけに対する千堂の答えは是だ。刑事とはそういう職業だ。命の危険があるのは当然の事であり、それに対する覚悟など確認するまでもなく皆が済ませている。余程の事情が無い限り、解決するために動くべきであり、個人の心情など挟むべきでは無い。
そして、当然千堂が躍起になって九条の意思を咎めているのは、彼の個人的な心情によるものが大きい。反論出来ず黙りこくる千堂を横目に、五味が少し呆れた顔をしつつもそれでも千堂に同意見だと口を挿んだ。
「女だからあんな目には、とは俺は言わん。心情は別だがな。確かに九条、お前は立派な刑事だ。その覚悟は上司としても誇らしい。だがな。上司として意見を言うなら、千堂は御咎め無しで九条は罰を受けたという事実がある。ならば千堂一人で行くという方が建設的だとも言える。」
「っ!そうだ、九条。だから俺一人で行くべき…」
「「お前(先輩)は黙ってろ(てください)」」
味方を得てはしゃぐ子供染みた千堂を、上司と後輩が声を揃えてばっさりと打ち捨てる。二人の剣幕についに口を完全に塞いだ千堂を尻目に、改めて五味が九条を視界に据えた。
「九条。お前と千堂が二人で向かうべきと判断した理由を言え。」
「…もう一度遊びにおいでと。『二人で遊びにおいで』と言われたんです。」
「夢の中で、か?」
「はい、それに『彼にもそう伝えてあるよ』と言っていたので、先輩も言われているはずです。」
本当か?と五味が鋭い視線を千堂へと向ける。その目に映ったのは、黙ったまま嘘がばれた3歳児のように視線を逸らす千堂の姿だった。
目は口程に物を言うとは言うがもう少し年相応の反応をしろと、今度こそはっきりと五味が呆れ顔を浮かべた。さらにはここまで静かだった旭が「ははは…」と乾いた笑いを零す。逆に言えばそれくらいには場の雰囲気が弛緩した証拠でもある。凝り固まっていた空気ごと解すように五味がコキコキと首を鳴らした。多少なり上司がリラックスした今がチャンスだと言わんばかりに、九条が明確な意思を提示する。
「他の人が行っても、何も起こらず、そして悪夢を見せられるだけです。もう一度来いと言われた、私と先輩とで行くべきなんです。二人で来いって言われてるのに、一人で行っても何にもなりません。」
「…わかった。九条、準備が出来次第千堂を連れてもう一度行って来い。」
「五味さん!?」
「千堂、上司命令だ。九条と共に跡地に行って来い。」
「…チッ。わかりましたよ。」
五味の決定に納得がいかない千堂だが、命令を下す上司の迫力に悪態をつきつつ渋々了解の意を示す。本来なら上司としての説教が入る所だが、さすがに千堂の気持ちも分かるのか五味は静かなままだった。
着替えなどの準備があるだろうと、九条と看護師を部屋に残し、男三人は部屋の外へと出る。そのまま自分も準備があるからと、まだ少し不貞腐れた様子で自室へ戻る千堂だったが、後ろからその襟首を五味に掴まれ、三度の間抜けな奇声をあげる。
「ぅくふぉあっ!!ちょっ、けほっ、何しやがるっ!?」
「さっきの舌打ちの分だ。気持ちは分からんでもないからこれくらいで勘弁してやる。」
「あぁそれは失礼しやしたねぇ。…上司命令で九条止めたっていいだろうに。」
態度は相変わらずなまま自身の不満を吐き捨てる千堂に対し、五味が威圧感を込めた様子で向き合う。重々しい様子に千堂が身体ごと振り返った。
「なんですか?」
「いつまでも不貞腐れていないで、覚悟を決めろ。」
「は?あんな命令を下しておいて何を?」
「危険な目に遭うかもしれない、そういう覚悟じゃない。何があっても九条を守るという覚悟だ。」
五味の言葉に千堂は目を見開く。
「上司としては九条の言い分が正しいと判断するしかない。事件解決のために采配を振るうのが上司の役割だ。だが心情としては、やはり部下が心配だ。だからお前に任せる。お前に頼るしかない。」
「五味、さん…。」
「惚れた女なんだろう?覚悟を決めて、命を張ってでも守るのが男の役割だ。」
「なっ!!!!」
絶句する千堂を見ながら五味がニヤリと笑う。五味の背後からは「やはりそうでしたかぁ」なんて旭の間の抜けた声が聞こえる。
「ばっ!そんなんじゃねーし。そりゃ大事な後輩だけどそれとこれとは…」
「思春期か。30過ぎての反応じゃねーぞ、ガキが。」
「うっせーよっ!!…ってか!大体、命張ってでも守れって、九条が無事なら俺は死んでも良いって事か?俺も部下だろ!おい、矛盾してんぞ上司っ!」
動揺を隠せないまま、それでも話を逸らそうと揚げ足取りに走る千堂だったが、それでは不十分だと五味が嘆息しながら答える。
「お前の事は九条が守るだろうから問題無い。」
「は?それってどういう?」
「あいつはお前の『保護者』という役割だからな。そう前から認定しているだろう?ん、なんだその顔は?九条もお前に惚れてるとでも言われると思ったか?勘違いで過度な期待を抱く中学生か?」
そうからかいながら今度は厭らしく五味が嗤う。流石にここまでの扱いは、千堂に対して動揺を通り越して怒りを齎したらしい。見た目だけは立派な青年は、ピクピクと頬を動かしながら目の前の上司に噛み付いた。
「あぁ、わかったよ!事件も解決して無事に九条と戻って、てめぇの面に報告書叩きつけてやる!書類が貼りつかない程度には油拭っとけよガマガエルがっ!!!!」
最大限の悪態を叩きつけてそのまま自室に飛び込んだ千堂は乱暴に扉を閉める。やれやれと言わんばかりに首を振った五味だったが、その顔には柔らかな笑顔が浮かぶ。これが千堂という青年の操縦方法なのだろうと、おぼろげに納得した旭も穏やかな表情となった。が、直後豹変した五味の顔を見て瞬時に青褪めた。
「今、ガマガエルとかほざきやがったな、アイツ。無事に全部終わったなら、ちゃんとお祝いしてやらなきゃなんねーなぁ。そう思いません、旭さん?」
「…えぇ、事件解決後も千堂さんが無事だと良いんですが。」
「はっはっは、全くその通りですなぁ。」
般若の面のような笑顔もこの世には存在するのだと、旭は初めて思い知る。未だ現役の勤勉な学者であろうとも、まだまだ世の中には知らない事が圧倒的に多いのだろうなと、妙な納得を持って遠くに目をやったのだった。