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胡蝶  作者: 戦国
12/17

12 跡地の過去

 病室に戻り洗面台で顔を洗った千堂は、先程までの倦怠感が嘘のように無くなっている事に気付いた。悪夢の影響下から遠退いたからだろうか。しかし、体の回復とは反対に頭の中はあやふやで、行き場を失った怒りと虚無感が綯交ぜになり、グチャグチャと音を立てて千堂の心を掻き乱しているようだった。


「気持ち悪い。」


 ふと口から無意識に零れただけの言葉だったが、自身のその呟きに気付いた瞬間猛烈な吐き気が千堂を襲った。ふらふらと壁にぶつかりながらもトイレへと身体を運び、便器に顔を向けて蹲る。下を向くだけで簡単に胃液が喉を通り抜け、嫌な酸っぱさが口内を満たした。

 そのまま唇を辿ってポタポタと水面へ落ちて行く様子をぼんやりと眺める。吐いたおかげで気持ち悪さは解消されたが、多少すっきりした脳内を今度は後悔が埋め尽くす。その感情が胃をキリキリと刺激しているように感じられ、気持ち悪いわけでもないのに、千堂は再度嘔吐することとなった。


 ずっと便器に顔を向けていたためか、あるいは自身の感情に振り回され続けていたためか。病室の扉が開いた事に当然のように千堂は気が付かなかった。背後に気配を感じてようやく口を拭いながら振り返る。そこには五味が千堂を見下ろしながら佇んでいた。


「情けねぇ面してんな。いつまでそうしているつもりだ?」


 情け容赦無い上司の発言に千堂は顔を歪める。しかしそれに反発する気力すら湧かない。もごもごと言葉にならない音を零す千堂だったが、唐突に胸倉を掴まれて目を見開いた。


「いつまでそうしているつもりだ?」

「い、いつまで…って。」

「言い直してやろうか?いつまで、九条をあのまんまにしておくつもりだ?」


 襟首を絞められ荒い息が直接かかる距離で上司に告げられて、何よりその内容に千堂は背筋を正す。


「お前が気付いた通り、男が離れたお陰で九条の過呼吸は治まった。後は悪夢から目覚めさせるだけだ。ウジウジと過去を後悔してないで、お前の知った情報を寄こせ。そして解決案を絞り出せ。」


 その命令を受けて、ようやく千堂の意識は覚醒する。そうだ、まだ終わっていない。九条の状況は最悪だが、『死』という取り返しのつかない最後には至っていない。逆に言えば、今、この時も、ずっと彼女は苦しみ続けている。

 自身が無駄にしていた時間の分だけ想い人が苦しむ。自分の阿呆さ加減に怒りが沸き上がり、千堂は自身の右頬を拳で打ち抜いた。


「せ、千堂さんっ!自傷行為はっ!落ち着いてください!!」


 五味の背後からの声に、旭の姿を確認する。成程、どうやら視界も狭まっていたらしい。旭の不安気な声は先程の廊下での千堂の行動を鑑みての事だろう。自嘲染みた笑みを浮かべた千堂は旭へと視線をやった。


「すみません。今のは気合を入れただけです。目ぇ覚めました。五味さんすみませんでした。」


 再び五味に視線を戻すと、くるりと背をむけ椅子を用意していた。二つ並べた所でベッドを指差し振り返る。


「お前はベッドに座れ。時間が惜しい。早く始めるぞ。」


 そのまま五味は旭を用意した椅子へと促す。ベッドの横に二つ椅子が並び、二対一で向き合う形だ。旭が腰掛けたのを確認した五味も着席する。そして鋭い視線を千堂へ突き刺した。


「さっさとしろ。」


 震えあがりそうな声色に慌てて千堂が駆ける。直前までのふらふらした様子が嘘のような俊敏な動きで千堂はベッドへ飛び込んだ。



 部屋内の全員が席に着いた所で、当然五味と旭は千堂の夢について聞きたがった。しかしその要望を宥めつつ、千堂は五味に尋ねる。


「五味さん、昨日遊園地の過去について調べて来てくださったんですよね?先にそっちを教えてくれませんか?」

「なぜだ?」


 五味の声には不満と僅かだが焦りのようなものが感じられる。九条は五味にとっても大切な部下だ。その気持ちは当然の事だろう。だからこそだと千堂は口を開く。


「俺自身が夢の内容を少し整理しないと話すのが難しいって事もありますし、俺も五味さんも多分焦ってます。どちらにしろ両方について話し合うなら、先に事実を確認共有しながら、心を落ち着かせる時間も取った方が頭も働きます。」

「…はぁ。お前は多少落ち着いたみたいだな。その通りかもしれんな。じゃあ先に昨日俺が調べた事を話そう。」


 千堂のその答えに、五味が大きく息を吐き出す。そうして千堂が望んだ遊園地の過去に纏わる情報を話し始めた。



 五味が調べた内容は、遊園地の異常性を改めて示す事柄だらけであった。そしてそれらは明らかに七不思議への繋がりが感じ取れるものでもあった。


 まず、それ単体ならばそれほど異常性を感じられない、所謂事故が二件。ジェットコースターでの死亡事故と観覧車での転落事故。

ジェットコースターの件は開園中の事故で客が一名無くなったらしい。ただ整備不良などではなく、最終的には安全バーをちゃんと卸していなかったために起こった人的要因による事故との判断されたようだ。昔の遊園地ならでは起こりえた事なのだろうか。ともかく、この事故で遊園地の評判が地に落ち、閉園の一番の要因となったとも言える。

観覧車は、休園中に点検業者が転落死したものらしく、こちらは完全に単なる事故と処理されている。そこに不自然さは無い。


続いて微かに不自然さを感じさせる案件。遊園地内での誘拐事件と思われるものが複数。遊園地全盛期、遊園地内で子供が居なくなったという事が何回かあったらしい。迷子自体は割と良くあるため、ほとんどは見つかってはいるらしい。しかし、数件行方不明のまま未解決のものがまだあったようだ。


そして、明らかに異常性を感じさせる案件。アクアツアーとお城の地下室。

アクアツアーの水槽内からは白骨化した遺体が一体、地下室の壁などからは大量の人物の血痕が、それぞれ発見されたらしい。これは閉園後取り壊し等の調査の際発覚したもので、当時警察内で騒然となったらしい。しかし、それぞれの痕跡はあまりに時間経過が過ぎており、また当時の科学捜査技術の未熟さもあり、事件の概要がまるで掴めないまま迷宮入りしているとの事だった。

 他にもミラーハウス内はその立地もあり、廃園後、薬物取引の現場の疑いがあったり、件の強姦事件などなにかと騒がしい場所だったらしい。


 総じて、遊園地及び跡地における過去は碌な事柄がなく、心霊スポット云々関係無しに曰く付きも甚だしい場所であった事が分かった。また、結局メリーゴーラウンドだけは分からないが、それ以外の七不思議はちゃんと過去の曰くをなぞった物になっている事も、遊園地跡地が極めて異質で異常な場所である事を物語っていた。


「調べて行く内に正直鳥肌が立ったよ。全くもって碌な場所じゃない。何よりそんな場所が未だに残っているのが信じられん。そう思って調べたらな、やはりと言うべきか、もう一件出てきたよ。」

「もう一件…とは?」


 ここまでの話に、流石にオカルト好きでも堪える物があったのか、微かに顔を青褪めさせながら旭が五味に反応する。その反応に苦笑いを浮かべながら五味が吐き捨てた。


「跡地の解体依頼を受けて動いていた解体業者内で不審死が相次ぎ、15名亡くなったんだと。そこで色々揉めて結局解体の話は流れた。で、今まで放置なんだと。」


 これで終わりだと五味が一つ溜息をつく。その音がはっきりと耳へと届く程に室内は静まり返っていた。旭も千堂も言葉を発することが出来ない。そんな二人を気にせず五味が千堂へとぶっきらぼうに問いかけた。


「で、だ。千堂。お前の見た夢だ。」

「俺の見た夢、ですか。」


 五味の話に呑まれていた千堂はオウム返しに呟く。悪夢の臨場感そして九条の悲劇から、自分の見た夢を信じさせられてはいた。しかし、五味の話を聞いてさらにその信憑性が高まるなど、どれほど悪辣なのだろうかと千堂は身震いした。

 千堂自身に、跡地とその夢に対する疑いはもはや無い。呪いだと確信させられている。だが、これから話す内容を文字だけで考えれば、B級オカルト話も良い所だ。果たして上手く伝わるものかと五味に目を向けた千堂だったが、その不安はさっと霧散した。あぁ、この人なら大丈夫だった。この人が上司で良かったと、少しだけ穏やかな心持ちで千堂は自身の見た悪夢について語り出すのだった。



 千堂の話が終わると今度は五味と旭が声をあげられないでいた。昨日学生から聞いたという悪夢の話をしてはいたが、千堂自身が体験した事もあり、話に臨場感が伴っていたためだろうか。

 千堂自身、記憶力に自信はあるが、そういった事関係無く昨晩の悪夢は一部始終完璧に覚えていた。それこそ悪魔のようなマスコットキャラの発する言葉一言一句逃さずにだ。そのため悪夢の悪辣さと意味不明さも五味と旭の口を封じている一因でもあるようだった。


「悪夢が単なる夢じゃないとしたうえで、疑問点があります。」


 このままだと二人は口を開かないだろうと感じた千堂は、会話を先導するべく話題を広げる。その意図を察した様子の五味がそれに乗っかった。


「俺から挙げよう。それに対してお前なりの答えがあるものを教えてくれ。当事者の感覚じゃないと判断つかないだろうからな。」

「そうですね…わかりました。」

「まず確認だが、夢の内容は一言一句間違いないんだな?」

「はい、自分でも気味が悪いくらい、隅から隅まで頭の中にこびり付いています。」


 それならと、椅子に座りなおした五味が千堂へと鋭い目つきで質問を投げかける。


「まず単語で分からない事だ。『入場券』『VIP』『アトラクション』『制限』『フリーパス』ってところか。そして一番分からない事として、九条がああなってお前が何故今起きているのかって事だな。」

「…そうですね。」


 五味の言葉に思わず千堂が顔を歪める。何故自分だけ許されているのかと自責の念にかられそうになった千堂を、五味が静かに窘める。


「勘違いするなよ?お前を責めてるつもりなんざ毛程も無い。お前がこうして意識がある事自体は喜ばしいことなんだ。それで…意味が分かるものはあるのか?」

「えっと、まず、『入場券』は日中に跡地内に入るという条件かと。植松との対比でそう判断します。次に『アトラクション』は遊園地で過去に起こった事件の追体験かと。入院中の学生二人、死亡した学生三人、そして九条のいずれも過去の事件との類似性が見てとれます。九条はおそらく強姦事件の、それも被害者側を…」


 そこまで話した千堂が唇を噛締める。口に出すべきでは無かった。言葉にした事で余計にその残虐さが胸に突き刺さる。五味と旭も鏡で映したように悲痛さを顔に浮かべている。


「っと、すみません。後は正直わかりません。『VIP』はさっぱりです。ただ、なんらかの『制限』に引っ掛かったから俺は見逃された。そして九条は見逃されず、でも『フリーパス』じゃない…。」


 と、なんとか話を続けていた千堂が思わず口籠る。下を向き「フリーパスじゃない?」と尚も続ける千堂だったが、唐突に顔を上げると旭へと身を乗り出した。


「旭さん!!九条の脳波とかって今観測してます!?」

「いや、さっきの騒動の時に取れてしまっていて。」

「ならもう一度準備をお願いします。ひょっとしたら何かの兆しが確認出来るかもしれないっ!」


 そう息巻く千堂に旭がたじろぐ。その様子に五味がどういう事だと目を向けると、鼻息荒くなっている自らを落ち着かせるように、淡い期待をゆっくりと口にする。


「藁にも縋るような淡い希望だけど。九条に対して『フリーパスじゃない』って言ったんです。そのまんまの意味として取るなら、回数制限があるって事。入院中の学生二人のように、脳波に動きがあるかもしれない。」


 その発言に合点がいったとばかりに旭が大きく頷く。そのまま「わかりました」と席を立ち部屋を飛び出して行った。開けっぱなしの扉の外から大きな声で指示しているのが聞こえる。部屋内の二人が呆気に取られている間に、指示を済ませた旭がいつのまにか戻っており、思わず千堂は苦笑いを溢した。


 一時のドタバタが無かったかのように三人が再び向き合う。そのまま千堂が会話を再開しようといた所で、徐に旭が小さく手を挙げた。


「一つ良いですか?」

「何かありましたか?」


 いえねと前置きしつつ旭が続ける。


「気になる事がありまして。千堂さんが見逃された『制限に引っ掛っている』という事に関して。」

「何か気付いた事ありましたか?」


 そういえば当たり前のように刑事同士の会話に混ぜていたなと、今更思い立った千堂だったが、特に気にせず先を促す。


「『善行には善意を持って返す。でも、悪行には悪意が返される』。あと、学生さんの夢では『過去に敬意を払えるキミはここに入る資格ない』でしたっけ?悪質な悪夢を見せているくせに、変なヒントのような事を言っていますよね、そのウサギのマスコット。制限というのが、それに関係しているのかなと思いまして。」


 その言葉の意味を呑み込むのに、千堂は僅かばかりの時間を必要とした。体感した恐怖から、突き付けられた絶望から、その悪夢の登場人物に対して理不尽で話の通じることの無い悪魔だと思っていた。

 しかし、言われて見れば、言う必要の無いヒントを口にしている。勿論ただの戯言かもしれないし信用できるわけでもないが、実際植松は跡地内に入る事を免れ、何より跡地内に入った自分も見逃されている。


「なので。その言葉を前提として、千堂さん、あなたが跡地で行った事に何か心当たりはありませんか?『善行』で『過去に敬意を払う』という事に該当しそうな事で。」


 旭からの問いかけに軽く瞼を閉じた千堂は、つらつらと脳内で昨日の跡地内での行動を辿る。しかしパッと思い当る節がまるで無い。首を傾げながら思案に耽る千堂だったが、あぁと漏れ出た五味の声に目を開けた。


「答えかは分からんが、あれじゃないか?」

「あれ、とは?」

「いやね、例えば殺人現場なんかで仏さんが居る時は、大概の刑事も手を合わせたりするもんなんですが。コイツは仏さんが居なくても、あるいは事故現場なんかでも、『死』に関係した場所では黙祷するんですよ。良い事ですからどうこういうつもりも無かったのですが、若いくせに信心深いヤツだなぁとは思ってまして。跡地でもしたんじゃないのか?」

「いや、そういえば確かにしましたけど…そんな事で?」


 五味の出した一つの答えを千堂は思わず否定する。確かにそうした行動を取ったのは間違いないが、五味の言うような信心深さが千堂にあるわけでは無い。今回の事件があるまで幽霊やら死後の世界やらそういった事柄は全く信じていなかったし、黙祷を捧げる事も特に意識して行っているわけでも無い。ただ、そうした方が良いと育てられ、そのまま考えも無く行ってきた、クセのようなものだったからだ。

 そんな事を考えながらも頭の片隅では昨日の行動を辿っていた千堂は、もう一つの『善行』に分類されるだろう自身の行動に思い至った。そのまま腰掛けていたベッドから立ち上がり、壁に掛けていた背広のポケットに手を突っ込んだ。


「おそらく学生達の物かと思いまして。『ゴミを拾った』ってのは善行にはなりますかね。ただ、これも自分が許されるには弱いような…。」


 そう首を傾げながら「証拠品です」と透明な袋に入った吸殻を五味に手渡す。そして再び思案に暮れようかとした所で、旭が溜息と共に口を開いた。


「得てして善行ってのは、本人が意識していないでやっているものなんでしょうかね。」

「そうかもしれませんね。」


 五味も肩の力を抜きながら相槌を打つ。二人の様子に千堂が困惑していると、「良いですか?」とまるで道徳を教える先生のように旭が語りかける。


「その悪夢側に立って考えてみて下さい。過去の事件等で決して良いイメージの無い場所で真摯に冥福を祈ってくれた事。自分達が死に至り眠っている、言わば墓所に投げ捨てられた害意を取り除いてくれた事。どちらも間違いなく善行ですよ。」

「俺も同意見だ。お前がそんなつもりが無かったとしても、お前が許された理由には納得がいく面もある。まぁこの考え方は死者の存在を前提としているからなんとも言えないけどな。」


 二人の出した結論に千堂の理性は納得させられる。その内容を頭では理解できる。出来たからこそ感情は理解を拒否した。


 なんだそれは。もしそれが本当なら、そんな些細な違いが自分と彼女との今の大きな差を齎しているというのか。上から目線で神様気取りにもほどがある。

悪人か善人かと問われればもちろん自分も善人だとは思う。だが間違いなく九条の方が善人だ。何故それを見抜けない、見抜いてくれない。無差別では無くそんな差配が出来るのなら、どうして。


 どうして自分じゃなく彼女が傷つけられなければいけない?


 理不尽な暴力という燃料で燃え盛っていた火種に、神様気取りの御巫山戯という油がぶちまけられる。感情の器内で納まっていた怒りの業火が器ごと飲みこむように燃え広がる。

 耐え切れず吐き出した息によって火傷したかのように喉奥が熱い。まるで千堂の心情を実際の現象なのだと肯定しているかのようだった。


 それでも先程のような愚行を犯さないようにと、千堂は自身の感情を捻じ伏せる。そんな彼への褒美のように待ち望んだ報告が齎されたのはその直後だった。


「先生っ!九条さんの容体に変化がっ!!」


 扉を勢いよく開けて入って来た看護師の言葉に、号令に合わせたかのように三人が揃って立ち上がる。


「何があった!?」

「何と言ったら良いか…。先程までの意識が混濁しているような様子じゃなくて、九条さんの言葉で助けを求めるように変わって。」

「どういう事だ?」


 旭の問いかけに何故か看護師は千堂へと視線を向ける。


「『先輩、助けて』って。言葉にならない叫び声じゃなくて、微かに絞り出すような声で。それでもはっきりと先輩って聞こえて。先輩って、千堂さんの事ですよね?」


 看護師の言葉を聞き終える前に千堂は駆けだしていた。「ひっ」と小さな悲鳴をあげた看護師が、扉へと猛然と走る千堂の道を開けるように横へ飛び退く。背後からは出遅れた五味や旭の慌てた声が投げ掛けられたが、千堂には追い付かない。


 助けられなかった。守れなかった。その後悔は一生残るだろう。

九条の病室の扉を乱暴に開け放ち、千堂が九条へと駆け寄る。

それでもまだ俺に助けを求めてくれるのなら。

ベッドに横たわる九条の手を握り締める。

今度こそ。



「九条ぉっっっ!!戻って来いっっ!!!」

 想いを自覚した後輩への絶叫と。


「頼む。九条を返してくださいっ。」

 悪夢への懇願を。


 悶え苦しみ続ける美女へ向かって、千堂の全身全霊を込めた慟哭が木霊する。


不躾な男の接近に、唐突な青年の接触に、そして鬼気迫る野獣の如き咆哮にも眠り姫は特別な反応を示すわけではない。

男が近付くだけで暴れまわった先程を思えば、状況は確かに変化しているのだろう。ただ、聞き慣れた、いや、聞き慣れない彼女らしからぬか細い声で自分への助けを求めている。それでも彼女のものだとはっきりわかるその声が、先程まで以上に千堂の心をきつく揺さぶっていた。


「…けてよぉ、…いー。」


 彼女の口から零れ落ちた言葉は、無償に千堂の心を掻き乱した。こんなにも弱弱しい彼女の声を聞いた事は無い。けれど妙な既視感をも感じる。だがそんな違和感を気にする余裕など千堂にあるわけもなく、彼女の手を握る力が無意識のうちに強くなった。


その手に縋るように千堂は自らの額を擦り付ける。彼女の声はこんなにも近くで自分の胸に突き刺さる。ならば自分の声だって彼女に届いたって良いだろう?


「九条、俺はここにいる。お願いだから目を開けてくれ。」




 ピクリ、と、細い指が千堂の手の甲をなぞったのは、その直後の事だった。


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