11 絶望
しばし誰も言葉を発しない時間が続いたが、コホンと小さな咳払いによってその静寂は霧散した。旭から新たな話題が提供され、再び医師と刑事三人の会話が始まる。
「ところで。今夜、千堂さんと九条さんでしたか。入院して脳波を観測する予定なのは。よろしければ、諸々の経緯、そして詳細を改めてお教え願えませんか?」
旭のその質問を受け、千堂は五味を見やる。五味に頷きを返された千堂は、事のあらましを、順を追って話し始めた。
稲葉仲矢を含めた六人の学生の一昨日の行動と現在。植松の話と裏付けから判明した、学生六人に共通した行動場所が遊園地跡地――男性陣と女性陣は若葉駅で解散している――であった事。そして、その跡地の噂と、植松から聞いた呪いと夢の話。
それらを踏まえた上で、先程まで千堂と九条も跡地に行ってきた事。六人と同じ行動を取った千堂九条に果たして何か起こっているのかどうか。呪いの類は眉唾物ではあるが、現状起こっている事件を鑑みると、それをキッパリと否定しきれないのだという千堂の心情。
「馬鹿馬鹿しい話ではありますが、病院側にご協力いただけるなら、一晩経過をみる価値はあるかもしれないと。何も起こらなければ、跡地に行った事は関係無かったと一つ可能性を潰せますし。」
説明しながら、千堂は自分の語る話の滑稽さに恥ずかしさを感じてもいた。実際自分自身、ほとんどその可能性を信じていない。『万が一何かあったら』という千堂の心情を理由に、そんなくだらないお願いをしても良いのだろうか、と。協力的だった病院側が、話を聞いて難色を示しても、なんらおかしくはない。
しかし、それでも千堂はこの提案を取り下げる意思はまるで無い。事件の異常性や植松の話が真に迫っていた事もあるが、一番は『九条も対象者』だという理由だ。
「医師として言わせて頂ければ、確かに馬鹿馬鹿しい話ですね。」
旭の言葉に千堂の顔が歪む。しかしその通りなので何も反論出来ない。ところが旭によって続けられた言葉は、良い意味で千堂の予想を裏切った。
「ただ、私個人としては非常に興味を抱かされます。白衣を脱いだ旭恭一郎という人間は、実は結構オカルトに興味がありましてね。遊園地跡地の噂や過去にあった事件等も知っています。学生の夢の話は初めて聞きましたが、事件に巻き込まれている学生達の事を聞いた今では、なるほど、無視出来ないお話だなと感じてしまいます。」
「無視出来ない、ですか?」
「えぇ。完全にオカルトの与太話ですよ。不謹慎でさえあります。ですがね…。」
声を顰めるようにして旭が続けた言葉は、千堂達の頭に金槌で殴られたような衝撃を与えた。
「強姦も誘拐もそこで起こった事件。溺死や列車に轢かれるのはそこで起こった事故。転落はわかりませんが、学生達の状況と遊園地の噂とが一致し過ぎてます。夢で学生が聞いたという『夢でしか味わえないアトラクション』。明晰夢で遊園地の過去を見せられ続けると考えれば、オカルト的な物語として全てが繋がります。」
そこまで語った旭は、「いやはや医師の発言とは思えませんね」と自嘲する。しかし、聞き逃せない事柄があったと千堂が反応し声を上げた。
「ちょっと待ってください。誘拐や溺死も遊園地であったと?」
「あぁ、事実かどうかは別ですよ。七不思議にあるじゃないですか。『子供がいなくなる』の元ネタは誘拐があそこで多発していたという噂から、『謎の巨大生物』も別口ではそこに『引きずり込まれる』なんてのが付いてたりするんですよ。」
千堂の問いかけに、何でも無い事のように静かに旭が答える。それに反して千堂の心中は穏やかではない。繋がってはいけない事柄が強く結び付き始めた。それはますますふざけた呪い話を肯定しているようではないか。
そんな千堂の心情を察してかそうでないのか、刑事三人にそれぞれ目を向けた旭は、千堂達の協力要請に対しての返答を告げる。
「確かに馬鹿げた話ですが、脳波測定の件は喜んでやらせていただきます。個人的感情も多分にあるのですがね。やる価値は十分にあると思います。日中に仮眠も取りましたし、一晩中稲葉さん仲矢さんと共に、お二人の脳波も私がずっと観測しますよ。呪い云々では無くても、『あの場所に行った事で脳がなんらかの干渉を受けたかもしれない』事を科学的に検証する事は、医師の判断として大きく外れているとも思いませんし。」
そう言ってにこやかに笑う旭に、千堂は思わず頭を下げる。旭との会話で間違いなく不安は膨らんだ。それは九条も同じだろう。しかし、目の前のオカルト好きな初老男性の宣言、一晩中見ていてくれるという事に、少しだけではあるが安心感を抱く千堂だった。
旭との会話を済ませた三人は、測定器の準備の時間を待つため千堂の部屋に戻った。部屋について早々、五味が後輩二人に提案した。
「俺はもう一度署に戻ろうと思う。」
「いや、えっと…どうしてですか?」
微かに不安が覗く声で九条が五味に尋ねる。中々見られない様子の九条に一瞬目を見開いた五味だったが、すぐに柔らかな表情で九条を宥める。
「あの先生になら任せられるだろう。もちろん明け方、お前らが目覚める前には戻ってくる。その前に、署で遊園地の過去の事件について洗ってくるだけだ。」
その返答に今度は千堂が驚く。
「え?五味さん、呪い信じたんですか?」
まさか先程の会話が上司の考えを根底から変化させうるものだとも思えない。彼がそのように動くには弱いと千堂は考える。そんな千堂の疑問に軽く首を振って五味が答える。
「違う、違う。まぁ確かに嫌な気分になったがな。呪い云々前提で警察が動くのも違うだろう。」
「じゃなんでまた突然?」
「脳波や明晰夢は置いといて、それでも死人が出ている。そしてそこには過去の噂と偶然では片付けにくい一致が現れた。さぁ、千堂。警察が動くに足る理由を答えてみろ。」
五味の唐突な問題に、千堂は瞬時に頭を働かせる。あらゆる状況や可能性、そして五味の思考を辿った千堂は、一拍置いて上司の求める答えに辿り着いた。
「…模倣犯、あるいは愉快犯の可能性。後は、狂信的な集団自殺あたりですか。」
「その通りだ。調べる理由が無いなら、調べる理由を見つけだせば良い。どうせお前、そんな事関係無く明日調べるつもりだったろう?」
だから俺が調べといてやると笑う五味に千堂は苦笑いを返す。見抜かれているし、やはり敵わない。
五味も恐らく、その可能性はほぼ無いと踏んでいるはず。
殺人の線で言えば、四人の死は同じ日に離れた別々の場所で、しかも事故と判断されるくらいに、その死体含めた様子に特に不自然さがあったものでもない。あるいは遺書等もまだ見つかっていないようだし、前日の様子などからも自殺は考えにくい。その方向で捜査をする事は、調べるだけ無駄とまで言わないが、優先順位はずっと下だ。
千堂も遊園地の過去について調べるつもりだったが、五味の言う通り明確な理由があっての事ではない。言葉にし辛い、言わば勘のようなものだ。刑事として動くにあまり褒められた行動では無い。それは間違いのない事実でもある。
そんな部下の思考をしっかり読み取り、あまつさえ千堂に先んじて仕事の一つをやっておいてくれるという。それは五味の優しさでもあるが、部下のサポートを進んで買って出る程に、千堂自身を買っている事の証明でもあった。
「だから、お前はその予定を外して、明日の動きを九条と考えとけ。どーせ呪いなんて何もなくて朝一から動く事になるだろうからな。」
そう笑いながら五味は部下二人に背を向け退室しようとする。サポートついでに不安も取り払おうという上司の優しさが見え隠れしてむず痒い。素直に感謝しても良いが、夕刻の『気持ち悪い』発言を思い出した千堂は、照れ隠しも含めた悪態を後ろ姿に投げた。
「そっすね。そっちは任せます。年寄りは動くの辛いだろうから、足を使った捜査は若い俺等に任せてくださいよ。」
「ぬかせ。生意気なクソガキが寝た後でも、大人の俺は働くんだよ。さっさと寝ろお子様。」
肩越しにニヤリと笑った五味は扉を開け、そのまま部屋を出て行った。隣の九条からボソッと「どっちも子供。」と聞こえたが、その通りだよなぁと納得した千堂は小さく笑顔を溢した。
その後、五味の言われた通りに、翌日どうするかを簡単に話し合う。正直五味に一番感謝したのは、話題の種を提供してくれた事だったかもしれない。
今までとは異なる魅力を感じてしまった後輩と、狭い部屋の中で二人きりだという状況。呪いやら夢なんかの不安も僅かにはあるが、それに比べれば大した問題ではない。話題が無ければ、千堂は何を喋ったら良いのかわからなかっただろう。
仕事の話という事もあり、千堂が変に緊張する事もなく話し合いは進んだ。とりあえず朝一で脳波の結果を確認。稲葉仲矢に回復が見られた場合、状況を見てとはなるが彼等への事情聴取。それがダメなら事故の三件と野田の件について詳細を聞く。
大凡の動きを決めた所で、部屋にノックの音が響いた。病院側が準備をしに来たようだ。脳波測定のための機材だろう、色々な機械が運び込まれている。隣の九条の部屋も同様なので、解散する事にした。機材を取りつける被験者が部屋にいなくては。九条を促すと静かに頷くが、俯いたままで止まった。
「もし、先輩と私が同じ夢を見たら…その時は別々なんですかね?」
か細い声に対する答えを千堂は持ち合わせていない。何と答えるか困惑していると、九条が顔を上げ、千堂の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「夢でもし会ったら…」
そこまで話した九条は言い淀む。言葉の代わりに千堂に向けられたのは、千堂が初めて目にする女性らしくもか弱い微笑みだった。小奇麗でもなく、無邪気でもなく。儚げで壊れそうな笑顔。
「夢でもし会えたら…素敵な事、じゃねーよな。」
突然の事に千堂は、逃げるように過去の名曲を持ち出しておちゃらける。九条の弱弱しさに真っ直ぐ反応できなかったためだが、それでも少しは効果があったのか、九条がクスリと笑う。
「パッと出てくる所に歳を感じます。五味さんの事言えませんよ、オジサン。」
「わかるお前も大概だよ。」
軽く毒吐く九条の顔はいつもに近い笑顔に変化していた。それでも笑顔の裏に僅かに覗く陰を払うように、千堂は力強い意思を込めた声で九条と就寝の挨拶を交わす。
「夢の中じゃなくて、また明日の朝、な。」
「はい。また明日。」
九条を励ますために、そして願いを込めて交わした挨拶。呪いなんて信じない。だから気張る必要なんてない。頭ではそう思っている。
それでも。彼女に掛けた言葉は、果たして彼女の望むものだったのか。なにより、その挨拶は正しい物だったと明日思えるのか。
機材等の説明を聞き流しながら、されるがまま機材を取りつけられながら。頭の中ではずっと同じ事を繰り返す。繰り返す毎に不安と後悔が膨らむのを感じつつ、千堂は就寝時刻を迎えた。
ずっと頭を働かせていた千堂だったが、いつのまにか脳内は空白になり、目を瞑った瞬間、突然意識を失い眠りについた。果たして単純な疲れによるものか、何者かの意図によるものなのか。当然本人は知る由も無い。
時計の針が頂点で重なった。日付が変わる、ただそれだけの事。しかし千堂にとっては、生涯悔恨の情にかられる一日が終わりを告げ、自責の念にかられる一日が始まる、そんな意味が付属されていた。
目に映った光景を千堂の脳が処理するには、幾許かの時間を要した。
どこかで見た景色。それも最近。すぐに思い出せるような事、しかしその結論に至る事を拒否するかのように千堂の脳は働く。それは記憶の欠如によるものではなく、心の弱さに因るものだと千堂は頭で理解はしていた。
遊園地跡地。
その門の前に立っている現実に、ようやく千堂の感情が追いつく。そんな彼の心を次に支配したのは、驚愕、恐怖、そして後悔。負の感情で埋め尽くされ、他の感情が入り込む余地など無かった。
自分自身で手一杯、どころではない。自身の感情さえ持て余すほど。だから聞きなれた声が聞こえるまで千堂は何も出来なかった。
「せ、先輩っ。」
それでもその声に瞬時に反応出来たのは相手が彼女だからだろう。声のした方に振り向く。いつもと同じ、左側一歩下がった場所に、後悔の理由が居た。
目が合った途端、不安と恐怖が綯交ぜになった九条の表情に、安堵が加えられるのを感じる。慌てて声を掛けようと、彼女の元へ掛け寄ろうと、反射の如く千堂は行動に移す。
しかし、唐突に聞こえ始めた音が、纏わりつくようにして千堂の喉と身体を封じた。
右耳へと流れ込んできた音楽は、間抜けながらも楽しげで、しかし今この状況で聞かされる分には多分に恐怖を煽るものだった。何故か動かせる頭だけを跡地へと向けると、視界に奇怪なウサギが入り込む。
きっとその動きは、本来なら子供達を引き付ける、滑稽で愉快なものなのだろう。ところが千堂が受ける印象はまるで異なる。滑稽さは不気味さを、愉快さは恐怖を。ウサギが一歩一歩こちらに足を運ぶ毎に、千堂の動悸が早くなっていく。
先程まで鈍かった思考が要らない働きをする。あぁ、この音楽は遊園地のテーマソングで、近づいてくるウサギがマスコットなのだ。
俺達は今、植松の話していた悪夢の中にいる。
体は動かないまま。しかしそんな事関係ないようだ。門が開き、遊園地が千堂と九条の方へと敷地を伸ばす。気付けば、二人はちゃんと園内に入っていた。そして目の前では不気味なウサギ、悪夢の執行者がニヤニヤ笑っていた。
「ようこソ!夢の国ヘ!!そう、正に夢!初回来店のキミ達には、夢の世界でしか味わえない素敵なアトラクションをタップリ用意してるヨ!!楽しんで行ってほしいナ♪」
動かないはずの体が、ガクガクと震える。ホラー映画を見た時のようなゾクリとするような恐怖じゃない。心の奥底から延々と、動物的な本能の部分で。体験した事など無いはずなのに、千堂はその恐怖の種類を悟った。
捕食者に向き合った獲物のような気分。明確な『死』の恐怖というのは、こういう物なのだろう。
震える二人を前に、執行者は尚愉しげにはしゃぐ。
「キミ達はカップルかナ?二人とも入場券を持ってるんだネ!嬉しいなァ。VIPの資格は持ってるのかなァ?一緒に楽しんでもらうカ、それとも別々カ。迷うネ、わくわくするねェ!」
ニヤニヤしながら話す悪夢が、いきなり真中から縦に二つに割れる。そのまま何事も無いかのように、それぞれの割れた面から肉が生え出し、その存在が二倍になる。
そして、千堂と九条の真正面にそれぞれ立ち直し、息が掛かる程の距離までその不気味な面を二人に近づける。
「キミは…アトラクションの制限には引っかかって無いネ!でもォ…うーン。VIPの資格は無いかァ。」
九条を覗きこむ悪夢は訳の分からない事を呟きながら唸る。対して千堂に向き合った悪夢はニヤニヤした笑いを消し、無機質な表情で口を開く。
「こっちは、入場券持ってるのに、制限に引っ掛かってるヨ。」
「えッ?カップルで遊びに来たんじゃないの、この二人?」
「お仕事みたいだヨ。刑事さんみたイ。ほラ、六人組のヤツ、VIPもあったじゃなイ。」
「えぇッ!!あぁ~だからかァ。こっちもフリーパスじゃないやァ。」
悪夢同士の会話を、千堂も九条も震えながら聞き続ける事しか出来ない。不安と恐怖で心と頭が如何にかなってしまいそうな事を感じながら、それでも千堂は何とかして九条に近づこうと、彼女を守ろうともがく。
そんな千堂の心情を踏みにじる様に事態は動く。
唐突に千堂は悪夢に担ぎあげられ、遊園地敷地外へと投げ捨てられた。受身が取れず地面にぶつかった衝撃に一瞬怯むも、痛みを無視して千堂は園内へと目を向ける。
千堂の視界に入ったのは、もう一つの悪夢に担がれ園内中心へと連れ去られて行く九条の姿だった。
焦燥、そして絶望。何も出来ない千堂の心を蝕むように湧きあがる。そんな千堂を嘲笑うかのように、門の前で悪夢が千堂を見下ろしていた。
「今回は許してあげる。君はアトラクションクリアだ。そして一つ教えてあげる。『善行には善意を持って返す。でも、悪行には悪意が返される。』君のようなパターンは予想してなかったな。また一緒においで。楽しみにしてるよ。」
♪My mother has killed me.
My father is eating me.
My brothers and sisters sit under the table.
Picking up bury them under the cold marble stones.♪
どこかで場違いな歌が流れている。その記憶を最後に、千堂は意識を失った。
「…ぅじょおぉっっっ!!!」
「うおわっ。」
叫び声を上げながら跳ね起きた千堂に思わず五味がたじろぐ。そんな五味を無視するが如く、千堂は周囲に首を振る。部屋内は明るく、窓の外からも朝日が差し込んでいるようだ。自分の頭には何やら機具がついており、そこから配線が何本か伸びている。昨日泊った病室内だと把握すると同時に、千堂を猛烈な頭痛が襲う。
「っっ!!」
「お、おいっ。大丈夫か?」
憔悴しきった様子で頭を押さえる部下を案じて五味が千堂に近づく。脳内を切り裂くような痛みに中々言葉を発せない千堂だったが、歯を喰いしばりながら上司に問いただす。
「く、九条、は?今、どうい、う、状況、だ?」
「あ、あぁ。安心しろ。あっちには看護師と共に先生が行ってる。二人とも少しばかり脳波が怪しいって事でこっちには俺が来たんだが、声を掛けたらあっさりお前は起きたじゃないか。」
五味の背後には昨日世話になった二人の女性看護師の姿も見える。痛みで頭がまともに働かないが、なんとか自らの状況を把握するに千堂は至った。とりあえず一晩経ったらしい。意識はまだ朦朧としているが、それでも自己は保てている。
自身に意識を向ければ、体も重い。だが、頭痛も含めて少しずつ回復しているようにも感じられた。体調の悪さは悪夢を見た影響だろうか。
と、そこで気付く。夢の中での記憶に。同時に千堂の心を焦燥感が駆け巡る。早く九条の元へ行かなくては。頭部に付けられた機具を乱暴に毟り取り、鉛のように重い体をなんとか動かし始めた瞬間、隣の部屋から耳を劈く様な悲鳴が響き渡った。
「いやぁあぁあぁっっっ!!!」
その声に反応した千堂だったが、思うように体を動かせずベッドから転げ落ちる。同じく悲鳴に反応して立ち上がっていた五味は背後の大きな音に振り返るが、千堂に再び背を向け病室の扉へと急ぐ。
「九条を見てくるっ!!お前は寝てろっ!!!」
しかし千堂の耳に五味の言葉など聞こえない。床に爪を立て、這いつくばる。まるで生まれたての小鹿のように弱弱しく震える様子に周囲の看護師が駆け寄るが、千堂の鬼気迫る表情を見て思わず立ち止まる。
どうにか立ち上がった千堂は、体全体を引き摺るように、しかし周囲に恐怖を感じさせる程の必死の形相で、守るべきだった後輩の元へと進んだ。
扉の前から部屋内を見た光景は、千堂にとってまさしく地獄そのものだった。
整った造りの中性的な美貌は絶望に歪み、艶っぽさを感じさせた黒髪は乱れに乱れ、意思を通す強気な瞳は恐怖と涙に塗れて赤く染まっている。何より、時に毒を時に慈愛を織り交ぜながら、千堂の心を揺り動かす言葉を紡ぐはずの魅力的な口からは、千堂の心を砕く冷徹な現実が零れ続けていた。
「いやっ、やだっ…許してください、お願いします。…ひぐぅっ。やだぁ、もうやめてよぉ。助けてください、お願いですから、お願いです、お願いします…。」
焦点の定まらない瞳をあちらこちらに向けたまま、九条は部屋の隅でもがき続けていた。現実を受け入れられない千堂はそのまま呆然とその場に立ち尽くす。
看護師達の呼びかけには応じず九条が只管に泣き叫ぶ。五味や旭が近付けばそれから逃げ回るように床を転げまわる。
周囲を認識していないようで、しかし男という存在に対し過剰反応を示しているようにも見受けられた。どこかで聞いた事のある状況。その答えをすぐに出すには、絶望に覆われた千堂ではあまりにも役立たずであった。
しかし、呆けている千堂を嘲笑うかの様に九条に変化が訪れる。それは決してこの場にいる全員に対して好ましいものではなかった。
「やだっ、やっ、カハッ。いヒュッ。ひぃハッ…おね、ヒッ。」
「っ先生っ!!過呼吸に陥ってないですかっ!?」
「まずいなっ。パニックを起こしているのか?」
看護師の女性の発言に室内に緊張が走る。見るからに呼吸がおかしくなった九条に慌てた旭が近付こうとするが、九条はより一層悶え苦しむばかり。近づいた自分から逃げ惑う様子に旭が困惑を、部下の尋常じゃない状況に五味が焦燥の表情を浮かべる。一瞬硬直した空間に、突如荒々しい叫び声が響き渡った。
「九条に近づくなっ!!!男は九条から離れろぉっっ!!!」
背後からの大声に気付いた旭と五味が動きを止める。二人の反応を待たずに千堂はさらに続けた。
「稲葉の状況に近いかもしんねぇっ!男は離れて女だけで落ち付かせてやってくれっ!」
ようやく体中を覆う絶望を振り払い状況を認識できた千堂の答えに、五味と旭が頷き部屋の入り口へと駆ける。三人は部屋の外へ出ると、そのまま千堂の病室へ戻り、病室内の二人の看護師に九条の部屋へ行くように指示をした。
九条の部屋に入った看護師に、扉を閉める前に旭が指示を送る。
「まず過呼吸を落ち着かせろ。それが治まっても暴れているようなら、鎮静剤投与を。まず君達だけでやってくれ。駄目そうだと判断したら直に外の俺を呼べっ!!」
中からの返事を待たず旭が扉を閉める。パタンという音に部屋内の喧騒がぼやけた瞬間、膝から力が抜け千堂はその場にへたり込んだ。五味と旭が様子に気付き千堂に近づくが、即座に続けられた千堂の自傷行為を止めるには間に合わなかった。
「っぐぁ――――――――――っっっ!!!!」
「ば、ばかやろうっ!」
言葉にならない奇声をあげて千堂が床に頭を何度も叩きつける。鬼気迫るその光景に一瞬呆気に取られた五味だったが、慌てて千堂の後ろに回り込み、羽交締めにして千堂の奇行を止めに入る。遅れて旭も正面から千堂を抑え、どうにか二人がかりで千堂を落ち着かせる。
「離せっ!!もう一度夢でヤツの所に行くっ!早く行かねーと九条がっ!!九条を助けねーとっ!!」
「だからって頭を打ち付ける馬鹿がいるかっ!感情的になるな。まず落ち着けっ!」
「お、落ち着けだぁ?ふざけんじゃねーぞっ!落ち着いてられるかよこれがっ!!」
「落ち着けと言っている。」
押さえつけられながらも意識を失うために暴れ続ける千堂だったが、五味の底冷えするような低く太い声に動きを止めた。その反応にようやく話が通じると判断した五味が、千堂の頭を掴み自身に顔を向けさせる。
「気持ちは痛い程分かるがな。ここでお前も感情的になって勝手に意識失ってみろ。その間俺や先生に何をしてろと?あるいは今度はお前も同じになってみろ、それこそ最悪だ。…夢と言ったな。何を見て何を体験したか、情報を俺達にも寄こせ。その上でもう一度お前が寝る必要があるってんなら、鎮静剤でも睡眠導入剤でもぶち込んでやる。」
そう語りながら千堂の頭を掴む五味の手は、千堂の頭を締め付けるように力が込められ、小刻みに震えていた。その様子に千堂は、五味も千堂と同じく底知れぬ怒りを抱いている事を感じ取り、ようやく暴れる事を放棄した。
「ついでに上司として言ってやる。お前の強みは感情に左右されなければ、誰よりも的確に状況を判断出来る事だ。そのお前が感情的になってもただのポンコツだ。無理矢理にでも今は感情を抑えこめ。冷静になったお前の頭で、さっさと状況整理して俺達に指示を出せ。」
その言葉に千堂は今回の自らの失点を思い出す。九条のこうなった原因は自分だったと。事件や夢に対する漠然とした不安に加え、九条を心配し過ぎた上での車内でのやり取り。その結果九条の反発を受け、九条は園内に入る覚悟を決めてしまった。あそこで感情を排していれば、話の流れによっては、九条を跡地の外で待機させる事も可能だったかもしれない。あるいは九条の意思など切り捨てて冷徹に命令を下しても良かった。それが出来なかったのもまた、自身の彼女に対する中途半端な感情のせいだ。
「わかり…ました。」
あぁ確かに感情的に動く俺はポンコツだ。ポンコツな男は大切な後輩を守れなかった。ならばそんな使えない奴はさっさと消えてしまえば良い。
でも、じゃあ感情を抑えて動いたら九条は助けられるのか。自分は果たして五味のいうような優秀な人物だろうか。
何より。
彼女のあんな姿を見せられて、感情を抑え込むなんて事は出来るのだろうか。
宥めるような五味の言葉に曖昧な返事を返して千堂は自問する。自分の心と向き合えば当たり前のように答えが滲み出る。『否』だ。
大事な後輩だからか?頼りにしている後輩だからか?いや、それじゃ足りない。
身内に近いくらい心を開いている相手だからか?それでも足りない。
惚れている女だからだろう?
あぁ、そうだよ。目を背ける事も素知らぬ振りをする事も、取り繕うなんて事はもう出来ない。地獄のような光景を突き付けられて、心臓が握りつぶされるかのような痛みに、否が応にも自覚させられた。自覚したからこそ体中を張り裂けそうな痛みが駆け巡る。
嗚呼、どうすれば良い?
激情は鳴りを潜め、しかしよろよろと立ち上がった千堂の目に力は無い。
「一旦、部屋に戻ります。」
呟くように口にした千堂は、言葉の通り自分の病室へふらふらと歩き出す。痛ましげな表情を向ける旭を背に、悲痛さを隠すように唇を噛締める五味を背に、千堂の手でゆっくりと扉が閉められる。先程までの喧騒が嘘のような静かな廊下に、パタンと小さな音が鳴り響いた。