1 7月30日
茹だるような暑さの中、街中をキッチリとスーツを着込んだ青年が歩いていた。七月下旬、連日のように猛暑日を記録する日々。道を行くビジネスマンのほとんどがクールビズよろしく上着やネクタイを外し、袖捲りしている者もいる。
そんな中只一人着崩す事無く、足取り軽くさくさくと歩く様子は、彼の周囲だけ季節が異なるかのようでもある。しかし、青年の爽やかさを感じさせる黒髪短髪や、汗一つかいていない涼しげな表情も相まって、不思議なほど周囲に違和感を与えない。
その順調な歩みを目的地の入り口で止めた青年は、手に持ったペットボトルの水で喉を潤し、右手にある看板に目を向けた。
国立警察病院。
「あー。訳わかんねー。被疑者の容体なんて口で説明できんだろ。直接見て来いとか、非効率だっつーの。この暑い中マジふざけろガマガエル」
青年の名は千堂文弥。警視庁刑事部捜査一課に所属する刑事である。
中肉中背な体格で背丈は日本人男子の平均程度より些か高いくらいだが、スーツの着こなし、背筋を伸ばして歩く姿を遠目に見れば、実際よりもスタイル良くは見えるだろう。
太めの黒眉に意思をしっかり主張する大きな目。鼻筋も綺麗に通っていてバランスも良いが、優男からは程遠く簡単に言うなら『男らしい顔』といった顔立ち。若い女性から騒がれる事はとんと無いが、それでも年配女性から「ハンサムね」なんてお言葉を頂く程度には整った顔立ちでもある。
ともかく、その外見や身嗜みから、他人に与える第一印象は良い青年ではあった。
そんな外見とは裏腹に汚らしい悪態を口にした青年は、それと共に溜息を大きく吐き出した。首元のネクタイを締め直し、改めて身嗜みを整える。もう一度水を口に含みペットボトルをバッグの中に片づけると、この場所に来ることになった原因を思い出しつつ、敷地内へ歩き始めた。
「強姦、未遂、ですか?」
上司から渡された資料に目を通し、その概要を把握した千堂は、訝しげな目を目の前の中年に向ける。
年は40過ぎたくらいだったか。普段は眠たげな目をしており、口も大きい。不潔に感じない程度に顔はテカっており、肌は最近の直射日光など関係無しに年中浅黒い。初対面で『ガマガエル』なんて渾名が閃いた千堂は、自身のセンスに拍手を送りたいくらいだ。
とは言いつつ、この中年は特に不快感を与えるような外見というわけでもなく、むしろ優しげな雰囲気を醸し出しているため『人の良さそうなオジサン』なんて思われる事が多いだろう。それでもこれほど『ガマガエル』という渾名がしっくりくるのも見事なもんだなどと、千堂は上司と向き合う度毎回のように失礼な感想を抱いていた。
「不満そうだな、千堂。」
「不満も何も、犯人捕まってるじゃないですか。」
渡された資料にさらりと目を通し、再び中年と向き直る。
「被疑者は埼玉に住む大学生。都内の裏路地で犯行に及ぼうとしたところを、女性の悲鳴を聞きつけた周囲の人間に取り押さえられる。すぐに駆けつけた警官により暴行の容疑で現行犯逮捕。身柄は確保済みで身元もはっきり。後は取り調べなんなりして動機やら証拠固めやらが終わったら送検するだけ。何をしろと?」
「まぁ言いたい事は分かる。被疑者も何を考えてたのかわからんが、まだ日が落ちきる前の住宅街で、周囲が被害者の声にすぐに反応してくれたおかげで、被疑者はほぼ何もできず捕まった。被害者も、怖い思いをしただろうが、物理的な被害は、地面に押さえつけられて後頭部を怪我したことと、上着のボタンがはじけ飛んだだけですんだ。」
女性は不幸中の幸いだったと中年の目が少し優しげになった。時に「くそガマガエルがっ」などと憎らしく思う事もある千堂だが、上司の人となりには素直に好感を抱いていた。あるいは、好感を抱いている相手だからこそ気安く悪態をつけるものなのかもしれない。
「ん?その程度、といったらアレですけど、強姦未遂、ですか?それなら暴行とか強制猥褻ではないのですか?まぁそういう行為に移ろうとしたのは間違いないんでしょうけど、被疑者が否定すればそれで立件するのは難しい、のかな?」
そういえば、強姦罪じゃなく強制性交等罪だとかに変わったんだっけなどと軽く思案に暮れる。例え上司との会話の中でもすぐに意識を別にそらす。千堂がガマガエルと影で悪態をつく回数が年々増えているのは、この悪癖により目の前の上司から叱責を繰り返し受けているせいでもある。自業自得だが気付かない、いや、認めない。それくらいには千堂は未だ子供ではあった。
「まぁそれは置いておいて、だ。」
「は?」
自分でも呆れるくらいの素っ頓狂な声をあげた千堂は、どういうことだと意識を再び上司に向け直す。そんな千堂の様子に勘付いた中年は眠そうな目を少し細め、軽く睨みを効かせる。しかし話の流れを切る事を嫌ってか、何も言わず机の上に置いてあった書類を纏めて千堂に手渡した。
「もうひとつ。こっちの資料も読め。」
一遍に出せよなどと上司を睨み返し、千堂は素直に数枚の書類を受け取る。手元の書類に目を通していくが、少しずつ千堂の表情が曇っていく。そして概要を把握したところで、不思議そうに上司へと訊ねた。
「誘拐未遂、ですか?」
中年は肯くと、少し困惑の表情を浮かべながら、千堂に語り出す。
「詳細は置いとくが、それもさっきと同じく昨日起きて、被疑者も確保済みの案件だ。その被疑者ってのがな、都内に住む女子大生だったんだが。」
飲みかけだった缶コーヒーを口に運んだ中年は、同時に表情の困惑を更に深くし、溜息と共に、二つの事件を並べる理由を吐き捨てた。
「強姦未遂の男と、どうやら恋愛関係にあるらしい。」
「はい?」
先程の阿呆の様な反応以上に千堂は目を見開き、自身にそうさせた上司を見る。まぁそういう反応になるよなと苦笑いしながら、中年はその理由を説明する。
「それも簡単にわかってな。お互いのスマホに二人で移ったプリクラが貼ってあるは、LINEだったか?二人が連絡取り合っている履歴やらで、まぁ、普通の大学生のカップルなんだろうと予想できたんだが。」
そこまで聞いて上司の話に違和感を覚えた千堂は口を挿む。
「予想できた、ですか?二人とも勾留してるのに、まだ取り調べしていないんですか?」
昨日逮捕して勾留しているのなら、事件の詳細はともかく、それぞれの関係くらいは本人に確認できていてもおかしくないだろう。それが出来ていないという事はまだ何も被疑者から話を聞いていないのだろうか。調査を始める前に一度くらいは取り調べをしてからの方が色々と動きやすいのでは、と千堂は訝しげに訊ねる。
「二人とも署内にはおらんよ。なんというか、口では説明し辛いんだよな。」
それに対しての上司の返答は、何やらスッキリしないものだった。普段から物事を割りとはっきりという上司が、珍しく奥歯に物のつまったような物言いをしている。そんな様子に軽い驚きを千堂は感じながら次の言葉を待っていると、少し投げやりに上司命令が繰り出された。
「二人とも今は警察病院に収容されている。とりあえずお前も行って直接状況を確認して来い。」
「え?行ってこいって、このくそ暑い中今からっすか?」
「不満か?」
「いやね、今足が無いんすよ。電車乗り継いでとか時間かかるし、病院にいる被疑者の容体なんて、口で言うなり資料よこすなりすりゃいいじゃん。全然、効り…」
「また言葉使いが雑になってんぞクソガキ。目の前に居んのはてめぇの上司だろうがっ!」
「いてぇっっっ!!!」
思わぬ上司命令に不満を感じた千堂の素の発言に対し、中年は千堂の頭頂部を叩くことで応える。社会人勤務8年目で三十路にもなると、さすがに表面の取り繕いは板についてきた千堂だが、中身はあまり成長しておらず、時にそのざっくばらんな発言態度が思わず零れるのも彼の悪癖の一つだ。とはいっても、こうも簡単に崩れるのはこの上司を含むごく一部の相手の前だけではあるが。
「いや、それは五味さんが訳わからん命令出すからでしょう。病院に収容されてるってなら、病人や怪我人に自分ができるようなこと無いですし。被疑者の容体とかなら病院の資料見れば、」
「見てもわからんし、俺も上手く説明できん。だからお前も行って一緒に見てこい。」
言葉遣いは一応直しつつ、それでも上司に対して不平不満を並べる千堂を遮り、五味と呼ばれた中年は再度命令を下した。
自身の言葉に被せて出された命令に軽い憤りを覚えるも、だるいけど仕様がないと諦め受け入れた所で、ふと疑問を感じた千堂はそのまま口に出す。
「わかりましたよ。ただ、一緒に、ですか?」
「あぁ、説明してなかったな。誘拐未遂の方には九条をつけて、あいつはもう病院に向かってる。」
「九条ですか?」
「なんだ嫌そうな顔して。お前の保護者だろうが。」
「最近そういう扱いされるからこの表情なんですよ。俺のが先輩ですよ?」
唐突に決定した相棒の顔を頭に浮かべた千堂は、苦い顔をしながら五味に答える。自分の後輩が、上司から保護者として付けられるなど流石に気分の良い話ではない。例え自身がそのような扱いを受ける事を充分に理解していたところでだ。だが、それを抜きにして考えれば、九条という後輩との仕事はやり易い。
「しかし、なんで九条が誘拐の方を?」
「九条をあっちにっていうよりは、お前をこっちにつけようと考え、二つが関係ありそうだからその相方に九条をつけたって流れだな。ま、たまたまどっちも担当している事件が片ついて空いていたってのもあるが。」
「俺が先ですか。なんか理由でも?」
刑事部の中でも、担当する事件において、各々で偏りがちである。千堂自身、殺人や暴行などの事件を担当することがこれまでは多く、強姦も無いこともないが少ない。誘拐に関しては経験不足が否めない。担当することになればやることに不安があるわけではないが、わざわざ自分を充てた五味の思惑がわからない。
「大した理由じゃない。両方未遂で犯人は確保済みで、経験不足でも大きな負担にはならんだろう。だから捜査のし易さを考慮した。」
「し易さ?」
「被疑者の通ってる大学が若葉大学の理工学部だ。関係者等含めて聞きこみとかし易いだろ、お前なら。」
「あぁ。なるほど。そいつは朝っぱら気分が悪くなりましたね。被疑者は俺の後輩様ですか。」
嫌悪感を隠す事もせず、千堂は肩を竦めながら嘆息する。窓の外を見ればギラギラと街中を照らしている様子が目に入り、竦めた肩をさらに小さく落とした。