6.やべえのがきた!
「フォーク博士、俺は後から行きますんで先に戻っておいてもらえますか?」
「ん、みんなで戻ればいいんじゃないかね?」
うう、全く事態を理解してねええ。ま、まあそうだろうなとは思ったけど……フォーク博士だしな……
「フォーク博士、せっかくアシェットが鮮度抜群にするためにゲイザーを凍らせてくれたんです。俺は……ええと、お腹が痛いんで後から行きますから!」
「そうかね、うむ……それは……仕方あるまい」
フォーク博士は女子二人に目をやると納得したように腕を組んで頷く。うんうん、女子の前で用を足したくないものなー。
切迫してる状況だけど、博士の余りに分かってない様子を見るとイライラするどころか不覚にも少し和んでしまった……
「敏捷強化」
俺は三人に脚力を増す魔法をかけて、顎で急げと促すとアシェットがゲイザーを抱え上げて表情を一切動かさず一言。
「ティル、気を付けてください。おそらく手練れです」
「ああ、倒すわけじゃないから何とかなるよ。フォーク博士をよろしくな」
「はい」
アシェットは心配してくれているんだろうけど、声色からも表情からその気持ちが俺には感じ取れない。でもまあ、きっと心配してくれてるんだ。たぶん……そうだよな?
うん、そうに違いない。
俺は走り去るアシェットら三人の様子を眺めながら、再び魔法を唱える。
「究極」
力ある言葉と共に魔法が発動し、俺の身体能力、五感が強化される。さあて、何が来るか。木を高速で伝ってくるとなると……嫌な予感しかしねえ。
俺は向かってくるだろうモンスターを警戒し、木の上に目を凝らす。
ん、空気が流れた?
俺はとっさに身を屈めると、背中の上を風が駆け抜ける! ま、さか、モンスターか!?
五感を強化した俺の感覚にも全く引っかからなかったぞ! 何てやつだよ。
俺は背筋が寒くなりながらも、風の吹き抜けた方向を見やる。
すると、木の上に……いた……これは、やばいなんてもんじゃねえぞ!
木の上には体長三メートルほどの黒豹に似た外見のモンスターがこちらを伺っていた。鋭い爪にしなやかな黒の毛皮……そして前足の先から付け根にかけて折りたたまれたトンボのような翅が生えている。
こいつは、「翅刃の黒豹」!
まじかよお。森のこんな浅いところにこれほど強力なモンスターが出て来るなんて……フォーク博士を逃がして正解だったぜ。
「翅刃の黒豹」……こいつはこの森林の中でも絶対王者に近いクラスのモンスターで、捕獲難易度は文句なしの十……つまり最高クラスだ。力や大きさはそれほどでもないのだが、鋭い爪と鉄でも軽々と切り裂くブレード状の翅を持つ。
それだけだとたいしたことはないのだが、奴を王者足らしめているのは絶対的なスピード。俺が出会ったモンスターの中でも奴より速いモンスターを見たことが無い。
奴はまだじっとこちらを睨みつけたまま動こうとしない。きっと不意打ちの一撃を俺が躱したから警戒しているのだろう。
しかし、この膠着状態も長く続かないだろう……ほら、奴が大きく息を吸い込んだ。
その次の瞬間、木々が震えるばかりの咆哮が森に響き渡る! 俺の体がビリビリと振るえるが、この隙に俺は魔法を唱える。
「蜃気楼迷宮」
魔法の発動と同時に俺の体からごっそり魔力が持っていかれて、膝が落ちそうになるがグッと堪え、俺は樹上の「翅刃の黒豹」を睨みつける。
蜃気楼迷宮の効果で「翅刃の黒豹」は霧に包まれ、すぐに霧が晴れる。
頼む、効果が発動してくれよおお。
俺は剣を構えたまま、じっと奴の様子を伺う……奴は俺と反対方向の木へ飛び移ると、鋭いブレード状の翅で枝を斬りつけた。
斬りつけられた枝は俺が両手を回して指先がようやく届くくらいの太さがあったけど、綺麗に切り裂かれて地面に音を立てて落ちる。
次に「翅刃の黒豹」は俺から更に離れたところにある木の上に飛び移ると、爪を振るい枝を切り倒す。その後どんどん俺から遠ざかって行く「翅刃の黒豹」……
ふう、どうやら効いてくれたようだな……魔力を込めた甲斐があったよ。
蜃気楼迷宮は対象に幻の俺を見せる魔法で、効果が発動すると対象は術者である俺から遠ざかる幻影を追っていくようになる。
ただし、対象が衝撃を受けると即時その効果は失われるという魔法になる。蜃気楼迷宮の効果時間はそれなりに長いから、このまま俺は逃走できるってわけだ。
さて、フォーク博士たちを追っかけるとしますか。
◇◇◇◇◇
無事に研究所に戻ってきた俺達は未だ凍り付いている巨大な目玉――ゲイザーをキッチンの置くと少し休息を取ることにした。
「どうぞ。暖かい牛乳です」
アシェットが湯気をあげるマグカップを二つ手に持って、テーブルの上にコトリとそれを置き椅子に腰かける。
「ありがとう、アシェット」
「いえ、クトーが動揺するほどのモンスターを相手してきたのです。これくらいは」
「ヤバい奴だったよ……」
「何者だったんですか?」
「『翅刃の黒豹』だった……」
俺の言葉にアシェットは彼女にしては珍しく眉をひそめる。少しだけだけど……
「……よく逃げて来られましたね」
「魔法のお陰だよ。効かなかったら生きるか死ぬかだったと思う」
「何の魔法を使ったんですか?」
「蜃気楼迷宮だけど……」
俺の言葉が終わらないうちにアシェットは勢いよく立ち上がり、切れ長の緑色の目を大きく見開く。
うお、珍しい。アシェットがこれほど表情を顔に出すなんて。
「驚きました」
「アシェットの驚いた姿に俺が驚いたよ」
「頭を掴まれたいようですね?」
「い、いやいや!」
慌てて逃げようと立ち上がった俺の肩をアシェットが掴み、ものすごい力で俺を再び座らせた……肩があああ。
俺が肩をおさえていると、彼女はコホンと咳を一つしてから冷徹な目線で俺を射抜く。
「二つの驚きが重なりましたから……」
「二つ?」
「はい。一つはあなたが『蜃気楼迷宮』の使い手だったこと。もう一つは『翅刃の黒豹』に効果を示したことです」
「なるほど……」
一応俺……冒険者ランクがSなんだけどな……補助魔法の使い手だってことはアシェットも知ってるはず。あー、蜃気楼迷宮は幻惑魔法の中では難易度が相当高く、習得も手間だ。
効果はそれなりなんだけど、同じくらいの習得に時間がかかる魔法にはもっと威力のある魔法や便利な魔法がある。だから、苦労して蜃気楼迷宮を覚える奴って少ないんだよな……
しかも、蜃気楼迷宮って強いモンスターにはなかなか効果を発動してくれない。今回はありったけの魔力を込めたこともあって、「翅刃の黒豹」が引っかかってくれたけど。
「ありったけの魔力を込めたから。なんとか決まったんだよ……」
「決まらなかったらどうするつもりだったんですか?」
アシェットは俺を冷たい目線で睨みつけズイッと顔を寄せる。ち、近い。いや凛とした怜悧な顔は嫌いじゃないし、美しいと思う。いいムードでこんな至近距離になれたらそらもう嬉しいけど……こ、怖いってえ。