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第7話 花をみつけた少女

 



 7月29日、上杉軍は、飛騨国の三木良頼と江間時盛の争いに、三木氏を支援して介入。武田軍の飛騨国侵入を防ぐため、春日山から善光寺横山城へ進軍。

 8月1日、更級郡八幡宮にて戦勝祈願。

 8月3日、小田切館周辺、川中島に陣を張った。




                  *




「五形様! 」

小高い丘の上から、甲斐方向より眼下を通り信濃川中島方向へと続く道を見下ろしていた芹は、甲斐方向に、紺地に金の風林火山の旗を掲げた武装した列を発見し、五形を振り返った。

 五形が、うむと頷く。

 小田切館周辺に陣を張ってから1月弱。

 芹となずなは、五形と共に武田の動向を探るべく、毎日、甲斐方向へと出掛けては、報告しなければならないような事柄に出会わぬまま陣へ戻る毎日を繰り返していたが、ようやく動きらしい動きがあった。

 報告するべく踵を返す五形に、芹は続こうとする。いよいよだと、胸を高鳴らせて……。






 勇んで一歩、踏み出した、芹の斜め後ろから、ストンと何かが地面に落ちる気配。

(? )

芹が何の気なく振り返ると、なずなが地面に、これまで見張っていた道の方向を向いたままの状態で座り込み、震えていた。

 その頭は、何かの動きを追うように、ゆっくりと左から右へ動いている。

「なずな? 」

声を掛けながら肩を掴むが、反応無し。

 右方向へ動ききった頭は、そこで停止。

 芹はなずなの正面に回り込む。

 もともと色の白い顔は、更に血の気を失って青ざめ、目は大きく見開かれていた。全身が小刻みに震えているという動きはあるものの、完全に固まっているも同然の状態。1月ほど前に藤袴が春日山に現れた時の状態に似ていた。

「芹、なずな」

少し先に行って足を止めた五形から、声が掛かる。

「五形様、なずなが……」

五形の呼びかけに返しつつ、芹は、

(…なずな……)

しゃがんで、なずなと目の高さを合わせ、見開かれたその目の奥を一度覗いてから、そこに映っているものを確認すべく、なずなの顔の向いている方向を見た。

(! )

そこにあったのは、武田の列の進む道の向こうの崖の上の森の中を、列と合わせるようにして進む、藤袴と他8名の忍の姿。

 瞬間、

(…また、あいつか……! )

芹は、喉の奥と言おうか胸の奥と言おうか、その辺りがカアッと熱くなり、頭の中の諸々のものが、きめの粗い泡が消えていく時のようにジュワジュワと微かな音をたてて消滅していくのを感じた。

 目に映る景色が流れ、藤袴の姿が近づく。

 自分が藤袴に向かって走っているのだと、まるで他人事のように認識する。

「芹? どうしたのだ! どこへ行くのだっ? 」

驚いたような五形の声を、背中で聞いた。






 藤袴を視界に捉えたまま、藤袴までの最短距離を、武田の列の頭上さえ跳び越え、一直線に駆け抜けた芹。

 藤袴は、もう目の前。腕を思いきり伸ばせば届く距離だ。

 だが何だか遠い。無色透明の幕が幾重にもかかっている感じがする。全てが、他人の視点だ。

「藤袴あっ! 」

すぐ近くで怒鳴り声。

(! )

芹は驚き、ハッとする。消滅してしまった頭の中の諸々が、いっきに復活した。怒声は、芹自身の口から発せられたものなのだが……。

 足を止める藤袴と他8名。

 徐に芹を振り返った藤袴は、

「何だ。誰かと思えば、上杉の小童じゃねえか」

言って、溜息。

「遊んでほしいの? 確かにこの間、また今度遊んでやるって約束したけどさ、俺ー、今、仕事中で忙しいのよ」

 面倒くさげに喋る藤袴を前に、芹は、自分の血液が頭のてっぺんから足のほうへ向かって、スウッと静かに引いていくのを感じていた。

 固まったなずなの視線の先に藤袴を見つけ、喉の奥か胸の奥かが熱くなったのまでは憶えているが、それ以降のことが全く分からない。

 おそらく、また藤袴のせいでなずながおかしくなってしまったと、頭に血がのぼってしまったのだと思うが……。

(…何やってんだ、オレ……)

芹の心を後悔が支配する。

 藤袴が自分など相手にしないで、このまま行ってくれることを祈った。

(面倒くさいんだろっ? 頼む! このまま行っちまってくれっ! )

 藤袴は面倒くさそうなまま続ける。

「それに、お前の厄介な保護者まで付いて来ちまってるし」

(保護者? )

 芹の無言の問いに、藤袴、芹の肩の向こうをチラッ。無言で答えた。

 つられて見る芹。

 そこには、

(五形様! )

固まっているなずなを小脇に抱えた五形。

 たった今、武田の列を跳び越えている最中だ。

「過保護なオトーサンだな。子供なんざ、ちょっとくらい痛ぇ思いをさせてやんなきゃ分かんねえのに……」

ボヤくように言っている途中で、

「……って、あれっ? 」

藤袴は何かに気付いた様子。

「うちがやった養女まで一緒じゃねーの」

(なずなのことか……? )

五形の小脇のなずなと藤袴を見比べながら、芹は、自責の念にかられた。

 なずなが藤袴の姿を見かけて固まったところまでであれば、以前の時のように自分が抱きしめてやれば、または時間が経てば自然と、普通の状態に戻ったかも知れないのに、自分が頭に血をのぼらせて藤袴に向かって来てしまったせいで、なずなまで危険な目に遭わせることになってしまった、と。

(面倒くさいんだろっ? あんたの嫌いな五形様も来たことだし、他の武田の人たちはどんどん歩いてるから置いてかれちまうし、行ってくれよ! 頼むから! 悪かったよ、忙しいとこ呼び止めてっ! )

全身全霊で祈る芹。

 藤袴は溜息を吐いてからウインクをひとつ。そして無情の一言。

「なずながいるなら仕方ねえな。ちょっとだけなら遊んでやるよ」

 芹は絶望した。

(五形様と藤袴が互角で、今のなずなは全く戦力にならないことを考えると……)

計算上、他8名は自分が何とかしなければならないことになる。無理だ。立派な大人の忍を一度に8人も相手になど出来るわけがない、と。

 しかし、そこまでで、

(あ、でも)

芹は、ふと気がついた。

(なずながここに来なきゃいいだけじゃん。まだ来てないわけだし)

 そこで芹は、

「五形様っ! 」

五形に向かって叫んだ。

「引き返して下さい! なずなを連れて! 今すぐっ! 」

 しかし、時既に遅し。

 芹がひととおり叫び終えた時には、五形は崖に近づき過ぎたために一旦、芹の視界から姿を消し、突然、宙を舞うように再び現れて、崖の上に着地をしたところだった。

 芹は、今度こそ本当に絶望した。

 藤袴が、他8名に何やら目配せをする。

「芹、引き返せとは一体……」

 藤袴の目配せを受けてのことか、他8名が、芹と五形の間に壁を作るようにして、五形のほうを向いて並んで立ち、その言葉と姿を遮った。

「五形様っ! 」

不安にかられ、思わず五形の名を呼ぶ芹。

 だが、8名の並んだ隙間から見える五形の表情は、平時と変わらない。

 8名が揃って苦無を構えた。

 うち両端の2人が、すぐさま五形に突進。苦無は投げずに握った状態で、突いていくような構え。

 2人の握ったままの苦無が五形に届……くと思われた瞬間、五形は、なずなを抱えたまま、真上は、苦無を手に襲い掛かってきた2人の頭の高さスレスレまで跳んでかわし、その場で体を捻って半回転、自然の重力にまかせて2人の背後に降りざま、その背中、首のつけ根辺りにそれぞれ1回ずつトントンッと軽い蹴りを見舞って崖下に落とした。

 しかし相手も忍。すぐに崖の下から跳び上がって来、空中から五形目掛けて苦無を投げつける。

 ほぼ同時、残り6名が一斉に五形に向かって行った。

 6名に対しては、完全に背を向けている五形。

「五形様っ! 」

芹はヒヤッとする。

 が、五形は、背後の6名のことも気配でか察知していたらしく、背中の忍刀を抜いて、飛んできた苦無を薙ぎ払うようにして叩き落し、その流れのまま6名を振り向いて牽制した。相変わらずの、平然とした顔つき。

(…五形様って……すごいっ……! )

初めて見る、表情ひとつ変えずの五形の戦いに、芹は見惚れた。

 と、

「おいおい、どこ見てんの? お前の相手は俺だろ」

斜め後方から藤袴の声。

 ハッとし、振り向く芹。

 刹那、

(! )

藤袴の右手の苦無が芹の鼻先に突きつけられた。

 芹は飛び退く。

(何やってんだ、オレ! )

 ニヤリと笑う藤袴。

 そしてまた今度は、左の苦無が突き出され、後退する芹。

 右、左、右。後退、後退、後退。次々と繰り出される苦無による攻撃に、芹は、抜刀する間さえ無い。

 そうしてついに、

「! 」

芹は、崖っぷちに追い詰められた。

(…やべ……)

「これで終わりだ」

藤袴が低く凄む。

 芹は、グッと息を詰め、思わず、もう半歩退がった。足の裏が3分の2ほど崖からはみ出て、体がカクンとなる。

(危ねっ! )

だが、それで気づく。

(何だ。別に追い詰められてないし、やばくなんてないし、終わりでもないじゃん。この高さなら全然大丈夫だ)

 藤袴の左肩が微かに動くのが見えた。

 攻撃が来るのを察し、芹は崖下へ逃げるべく、後ろ向きのまま、はみ出しているほうの足とは反対の足を崖の外へ踏み出そうとする。

 その時、芹の視界の隅に、8名全員を地面に転がし終えた五形が、芹を助けようとしているのか、その場になずなを放り出し、芹のほうへ向かってくるのが映った。

 五形の手から離れたなずなは、まだ固まっているようで、地面にペタンと座った。

 突然、藤袴がククッと笑う。

(? )

芹は、何だか嫌な予感がした。

 藤袴の意識が、ほとんど自分に向いていない。どこか他の方向へ、なずなへ向いているような気がしたのだ。

 藤袴が左手の苦無の握り方を変え、そのまま顔の横へ持っていく。

 違和感を感じる芹。鋭い先端が真っ直ぐに自分へ向けられているのに、全く怖くない。

 芹自身は苦無を使わないため、本当のところは分からないが、近距離で突いてくる手つきに見えない。どちらかと言えば、遠くを狙って投げる手つきのように見える。

 藤袴が左手を後ろに引く。これまで芹に対して仕掛けてきた突きの攻撃の中には無かった動きだ。

「と、見せ掛けてー」

藤袴が、急に軽い口調で言った。

(見せ掛けてっ? )

芹の中の嫌な予感が的中した瞬間だ。

 芹は、慌ててなずなのほうへ走ろうとする。

 そこへ五形が、芹と藤袴の間に、芹を背に庇う格好で滑り込み、割り込んだ。

 なずなのほうへ、まさに踏み出したところだった芹は、五形に躓き、転ぶ。

 藤袴が、なずなのほうへクルッと体の向きを変えつつ、高く跳び上がった。

 同時、藤袴の左手の苦無は、その手を離れ、なずな目掛けて飛ぶ。

 苦無を投げ、着地するや否や、藤袴は、苦無を追うように自分も走り出した。

 芹も、転んだ状態から急いで起き上がり、芹が転んだことに対しての五形の、「大丈夫か? 」との呑気な質問には答えず走る。

「芹! 」

すぐ耳元で五形の声。いつの間にか、芹の後ろをピッタリついて走って来ていた。

「私のせいで転んでしまったな。すまなかった」

(そんなの、今はいいからっ! )

芹は少々イラッとしながら、ひたすらなずなに向かって走る。

「なずなっ! 」

芹は叫んだ。

 なずなの固まったのが解けて、なずなが自分で苦無を避けてくれればよいが、それは無理そうだ。

 なずなへと向かう苦無のスピードは速く、もう、なずなまであと5尺ほどしか無い。

 芹は必死で走るも、

(駄目だ! 間に合わないっ! )

 勝手に的が外れてくれることを祈るしかない状況。

 あとは、一か八か石でも投げてみようと、芹は、走りながら下を向いて手を伸ばし、足下の小石を拾って上体を起こした。

 と、不意に、白い影が芹の視界を横切り、なずなの前を塞ぐ。

 直後、ガキンッと、硬い物同士がぶつかる音。

 白い影は、30代前半と思われる旅姿の巫女だった。

 艶やかな黒髪を持ち、美しいと言うよりは可愛らしいと言ったほうがしっくりくる、小柄で柔和な印象の巫女。彼女が、なずなを背に庇い、手にしていた杖で苦無を叩き落したのだ。

(…誰だかしらないけど、助かった……っ! )

ひとまずホッとする芹。

 しかし、安心したのも束の間、苦無を追って走って来た藤袴が、巫女の杖に弾かれた苦無を地面に落ちる前に受け止め、握って、右足で斜め前、巫女の左側に踏み込みつつ、なずなに向けて突き出した。

(! )

芹の心臓が、痛いくらいにバクンと脈打った。

 ガチッ! 咄嗟に体を捻り、巫女は杖で苦無を受け止める。

 そこでようやく、芹は、なずなのもとへ到着。

 芹に合わせて到着した五形の、「芹、勝手にどんどん動かれては困るぞ。護りきれぬではないか」との小言に答える余裕など無く、なずなに駆け寄った芹は、正面は巫女がいて自分の入れるだけの隙間が無いため、なずなの右側に膝をついて、側面から抱きしめる。

 自分の心のままの行動。この間のようなぎこちなさは、少なくとも、芹自身の感覚としては無い。

 芹がなずなの無事をしっかりと感じたくて、その温もりを味わうように、鼻先をなずなの髪に埋め、呼吸をすること数回、ピクンと微かになずなの体が動く。

「芹…」

なずなは掠れた声で芹の名を口にし、ゆっくりと芹のほうを向いた。

 なずなの固まったのが解けたのだ。

「…なずな……! よかった……! 」

長い溜息と共に吐き出す、心の奥底からの言葉。

 もう一度、強く強くなずなを抱きしめ直しながら、芹は反省した。藤袴のせいで、と、頭に血が上って、向かって行ってしまったこと。

 確かに、藤袴を倒すことが出来れば、それは根本的な解決になる。

 しかし、芹にそんな力など無い。倒すどころか返り討ちに遭って、なずなを護るためには絶対に死なない、とのなずなとの約束を破ることになってしまうだろう。

 今、自分が藤袴に向かって行った状況としては、実際のところ、なずなを護ろうとしたわけではなく、ただ単に、自分が勝手に頭に血を上らせてのことで、なずなは関係無いのだが、きっと、なずなは、そう解釈してくれず、自分を護るために芹が死んだ、と思ってしまう。

 それに、出会ったばかりの頃、叱ってやるとも約束した。ずっと、傍で生きると……。

 傍にいるのだから、なずなが固まってしまう度に抱きしめて解いてやればよいのだ。根本的な解決など要らない。

 今だって、なずなが離れた場所を移動中なだけの藤袴を目にして固まった最初の段階で、そうすればよかったのだ。……さっきも思ったことだが、重ねて、そう思う。

「どけ、千代」

苦無と杖で押し合いながら、藤袴が低く口を開く。

 芹はハッとし、なずなから藤袴が見えないよう、自分の体で、さりげなく視界を遮った。

 なずなが藤袴の存在に気づいている様子は無い。

 ずっと固まっていた後なのだ。頭の中はもちろん、目や耳も、まだ正常な働きを開始していないのかも知れない。

 それならば、と、芹は考える。

 芹は当然、今すぐに、なずなを連れてこの場を去ろうとしていたのだが、今暫く留まろうと。

 なずなと藤袴の距離は3尺程しか無く、いつ攻撃されてもおかしくないし、なずなが藤袴の存在に気づけば、きっとまた固まってしまう。

 危険なことは分かっているが、かと言って、不用意に巫女の陰から出ることは、ただ藤袴に攻撃のチャンスを与えてしまうだけに思えたのだ。

 まともに戦えば、おそらく、この巫女は藤袴より弱い。

 それなのに、藤袴は、巫女を力で捻じ伏せることをせず、説得で何とかしようという姿勢を見せている。

 つまり、藤袴には、この巫女に手出し出来ない何らかの理由があるのだ。

 五形がなずなを護ってくれる気がさらさら無いということは分かった。

 そんなことは五形の自由なので、芹は、それを責めないし、そんな権利も無いが、五形が護ってくれない以上、芹が護るしかない。

 藤袴が相手では、芹は、なずなを護りきれないであろう。……よっぽど、上手くやらなければ。

 だから、すぐに状況が変わりそうな不安定なものではあるが、とりあえずは安全な巫女の陰にいて、機を窺おうと考えたのだ。

 藤袴の、どけ、との言葉に対し、巫女は無言でふるふると弱く小さく、首を横に振った。

 藤袴は続ける。

「大体、何でお前がここにいるんだ」

「旅の途中です。もうすぐ、今、道場にいる娘たちのほとんどが巣立って行くでしょう? ですから、空きが出るので、新しく受け入れる娘を集めに、と」

「そうか。なら、こんな所で道草を食ってないで、さっさと旅に戻れ」

「バカ兄のほうこそ、崖下の道を行く他の方々は、皆、とっくに行ってしまわれましたけど、良いのですか? 」

「ああ、塩崎に一緒に到着できさえすればいいからな。すぐに追いつくさ。それに、なずなの始末も俺の仕事だからな。道場を脱走した者については、そういう決まりだったろう」

(…馬鹿兄って……)

機を窺いつつ、また、いつなずなが藤袴の存在に気づくかとビクビクしながら、藤袴と巫女やりとりを聞いていて、芹は思った。酷い呼び名だ、と。

 だが何故か、呼んでいる側からは全く悪意を感じられず、呼ばれている側も、あっさり流しすぎている。不思議だ。

 芹はビクビクと余裕が無いながらも、いや、むしろ、気持ちを少しでも落ち着かせるために、全くどうでもいい横事だが、その藤袴の呼び名について考え、結果、

(あ、そうか)

すぐに、ストンと腑に落ち着く。

(『うま・しか』のバカじゃなくて、フジ『バカ』マか……)

「…千代女、様……」

芹の腕の中で、なずなが突然、非常に驚いた様子で呟く。

 その目は、真っ直ぐに巫女の背中を仰いでいた。

 なずなの呟きに、

(はっ? この人が千代女様っ? )

驚く芹。

 大まかに分けて、2つの理由で驚いた。

 1つ目は外見。

 芹がなずなの話を聞いて勝手にイメージしていた千代女様像は、年配で擦れた感じの女性。それが実際には、思ったほど歳が多くなく、擦れた印象も無い、まだ少年である芹から見ても、ある種の可愛らしさを感じられる親しみ易い感じの女性であったこと。

 2つ目は驚きであり疑問。

 千代女様であれば、本来なら藤袴と共になずなを始末する側のはず。なのに何故、今、こうしてなずなを庇い、藤袴相手に戦っているのか。

 芹のその2つ目に丁度答えるようなタイミングで、実は千代女であった巫女は、藤袴との会話を続ける。

「その決まりは、道場で身につけた様々なことを、悪用されることを恐れてのものですよね? でしたら、少なくても、なずなは大丈夫です」

 藤袴は、深く溜息。

「お前は甘いんだ。今にきっと、大変なことになる。現に、今、なずなは上杉にいるだろう」

 すると千代女は、フッと柔らかな笑みを零し、

「なずなが上杉にいるのは、ちょっと意味が違う気がします」

頭だけで、斜め後方をチラッと振り向く。

(ん……? )

気のせいか、芹には、千代女が、五形に意味ありげな視線を向けたように見えた。

 千代女は藤袴に視線を戻し、

「バカ兄、わたくしが御館様の命に従い巫女頭領の任を受け、道場を開いて親の無い娘たちを集め修行させたのは、娘たちに自分自身の力で生きていく術を身につけさせるため。この戦乱の世で、身寄りの無い女子がひとりで生きていくのは、男子のそれに比べて、とても難しいですから。わたくしは、そのお手伝いを、娘たちが幸せに生きるための手助けを、したかったのです。

 けれども、それが、脱走で命を奪われることになるなど、娘たちを縛りつけてしまうものとなるならば、娘たちにとって、幸せとは程遠い結果を招くものとなるならば、わたくしは、このお役目を降ろさせていただくしかなくなります。

 わたくしにとって、巫女頭領の任は、娘たちの未来を手伝えるという生きがいとも言えるほどのやりがいと共に、夫・盛時を失った寂しさを紛らわせてくれる大切なものだったのですが、そのうち重きを置いているやりがいのほうがなくなってしまうのなら、続ける意味などありませんから」

そして溜息をひとつ。俯き加減になって、視線を上目遣いに変え、

「…ああ、でも、わたくしは、このお役目を降りたら、どうなってしまうのでしょう? 生きがいを失い、娘たちも去り、娘たちとの思い出の詰まった道場も引き払い、夫の遺した広い城の中で、ひとり、廃人のようになって、ただ老いさばらえて、いずれやって来る死を待つことになるのですね……」

 ウジウジウジと湿っぽい調子で話され、藤袴は聞くに堪えなくなったのか、

「あー、もういい! 分かった分かったっ! お前の好きにしろっ! 」

放り出すように面倒くさそうに大声で言い、苦無を引いて、くるっと背を向ける。そして後ろ姿で、低く静かに、厳しい口調で、

「俺はもう、なずなを追わない。ただし、なずながこの先も妙な動きをしなければ、だ。ちょっとでもおかしな素振りを見せたら、その時、俺は動く。他の娘たちも同じだ。いいな? 」

 千代女は、パッと顔を上げ、

「分かりました。ありがとう、バカ兄」

ウジウジウジから一転、明るい、軽くさえある返事。 

 藤袴は、大きく大きく溜息を吐いてから、五形にやられて地面に転がっていた8名のうち、起き上がってきた5名に、転がったままの残り3名を背負うよう指示し、連れ立って、崖下の道を行った武田軍と同じ方向へと森の中を駆け、去って行った。

(……何だかよく分かんないけど、これってもう、なずなは、藤袴に襲われなくて済むようになったってことか……? )

会話が長く、展開についていけず、芹は呆然としてしまいながら、藤袴の背中を見送る。






 ややして、

「なずな」

芹と同じく藤袴を見送っていた千代女が、芹・なずな・五形のほうを振り返った。

「間に合ってよかったです」

なずなに向けられた、この上なく優しい目。なずなのことが大切なのだと、その目が語っている。

「千代女様……」

まだ驚いたままの様子のなずな。

 千代女は頷きながらしゃがみ、なずなと目の高さを合わせた。

「なずな、あなたは幸せの花を見つけたのですね」

そして意味ありげな視線を、今度は確実に五形に向ける。

 さっきのも気のせいではなかったと確信する芹。

(…千代女様、間違えてるよ。なずなの相手が五形様だと思ってる……。この人、天然ボケなのか? オレの腕の中にいるなずなに話しかけといて……。普通にいけば誰がなずなの相手かなんて一目瞭然だろうに、どうしたら、五形様が相手だってふうに見えるんだ? 五形様が相手ならいいのになあ、なんて希望が、そう見せてるのか? )

 千代女は続ける。

「わたくしは、道場であなたに色々なことを教えてきました。それはひとえに、あなたに幸せな人生を歩んでもらうため。ですから、あなたが幸せの花を見つけ、それを命の糧とし己を大切に生きていけるのであれば、それはそれで、わたくしは嬉しいのです。

 よく見つけましたね。わたくしは、あなたを誇りに思います」

「千代女様……」

芹の胸から身を起こすなずな。

 千代女は愛しげになずなを見つめ、

「抱きしめていい? 」

なずなが頷くのを確認してから、そっと包み込むように自分の胸に引き寄せ、背中を優しくトントンとやった。

 芹は、自分自身には、そのような記憶は無いが、きっと、母親が小さな子供を抱く時というのは、こんな感じなのだろう、と思いながら眺める。

 もっとも、なずなと千代女の体の大きさはほぼ同じ……いや、なずなのほうが大きいくらいなのだが。

「なずな。これより、あなたは自由です。道場脱走の咎で、あなたに追っ手がかかることは、もうありません。そして、お別れです。あなたは上杉、わたくしは武田の人間。再び相見えし時、その状況によって、我らは敵となりましょう」

 暫しの沈黙の後、千代女は尽きない名残りを惜しむように、ゆっくりとなずなの体を離し、立ち上がって、

「では、お達者で」

寂しげに見える笑みを残し、背を向けて崖の方向へ歩く。

「千代女様! 」

なずなが少し急いだ様子で立ち上がり、

「今まで、ありがとうございましたっ! 」

 芹も立ち上がり、頭を下げた。

 芹も、千代女に対して感謝していた。

 なずなが村を出て倒れていた時、拾って育ててくれなければ、自分はなずなに会えなかった。

 そして、傍から見ていてハッキリ伝わる、千代女の、なずなに向けた溢れんばかりの愛情。この先は、自分がそれを受け継ぐのだと、心に誓った。






 千代女は崖の縁まで行って、一旦、振り返り、微笑む。

 森の外からの光を受けたその笑顔は、とても綺麗で、芹は思わず見惚れた。

 直後、崖下の道へと飛び降りた千代女が、芹の目には、光の中に融けたように見えた。

 千代女が融けた光を見つめながら、芹。

(結局、オレがなずなの幸せの花だって、言えなかったなあ……)

しかし、

(ま、いっか)

むしろ言わなくて正解だったと思った。

(千代女様は相手を五形様だと思い込んでるから、許してくれたのかも知れないし)

と、そこまでで、ハタと思考を止める芹。

(何を考えてんだ、オレっ! )

無性に悔しくなった。

 他のことならば別にいいとして、と言うか、今の自分ならば当たり前として、なずなの相手としての自分を五形よりも劣った存在であると、自分で思ってしまったようなものと感じたためだ。…そこだけは、なずなを大切にすることにかけてだけは、誰にも負けないと自信があったはずなのに……。

(決めた! オレ、絶対に五形様を超える! 五形様より立派な忍になって、いつか千代女様に、『なずなの幸せの花はオレでしたー! 』って、ヘラヘラ笑いながら言いに行ってやるっ! )




                  *




 8月下旬、武田軍は更級郡塩崎に陣を構えるも動かず、60日間近くの睨み合いの末、上杉軍は飯山城へと兵を退き、後に塩崎の対陣とも呼ばれる、忍同士の小競り合いのみに終わった第五次川中島の戦いは、幕を閉じた。

 以後、上杉は関東出兵に力を注ぎ、武田は東海道や美濃、上野方面に向かっての勢力拡大を目指したため、川中島で大きな戦いが行われることは無かった。






                 * 終 *





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