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第2話 狩りに来た男




(…あれ……? なんか……)

 上杉輝虎の居城である、越後春日山山頂に築かれた天然の要害を持つ難攻不落の城・春日山城。

 何度か休憩を挟みながら8刻ほどかけ、巽の刻。なずな・五形と共に、五形の屋敷のある、春日山南三の丸家臣団屋敷群に帰って来た芹は、違和感を感じ、辺りを見回した。

 ややして、いつもと同じように畑仕事に精を出す人々の中に、違和感の正体を見つける。

 男たちがいないのだ。

 不思議に思っていると、

「五形くん」

少し距離のある背後から、五形に向けて女性の声が掛かり、芹・なずな・五形の一同は振り返る。

 そこには、隣の屋敷の、恰幅のよい40代の奥方・カツ。

 畑で中腰の姿勢から上体を起こし、腰をトントンしてから、芹たちのほうへ歩み寄って来て、

「お帰りなさい」

無言でなずなを気にする。

 応えて五形、

「ああ、なずなと言います。今日から私が世話をすることになりまして」

そして、その答えにカツが、そう、と納得するのを待ってから、

「ところでカツ殿。男性の方々が見当たりませんが」

「ああ、皆、菅名荘へ行ったよ」

「菅名荘ですか? 」

「もう一昨日のことだけどね。何だか、蘆名軍が攻めてきたとかで、上野から帰ってすぐ出掛けたんだ」

 五形とカツの会話を、何か戦が続くなあ、などと、特に自身の感想など無く、表面を滑るように思いながら聞く芹。

 五形、

「然様ですか。ありがとうございます」

ちょっとボンヤリしてしまっていた芹にとっては突然、礼を言って話を切り上げ、早足で自分の屋敷へ。

 芹は、五形の後について先を歩くなずなの背中に、慌てて続いた。






 勝手口から屋敷内に入った五形は、真っ直ぐに、一番奥の自分の部屋へ。

 後をついて行き、部屋の入口で見守る芹となずな。

 視線の先の五形は、床に3尺四方ほどのきれを敷き、その上に、忍装束の懐から腰から足首内側から、これまで持ち歩いていた忍道具を出して並べた。

 そして、部屋の隅へと歩き、しゃがんで、そこに置かれた櫃の中から、たった今、装束から出した物と同じ道具を取り出しては、懐から出した物は懐へ、腰から出した物は腰へ、と、出した場所と同じ場所に仕舞っていく。

 ややして、よし、と小さく言って立ち上がり、入口へ。そこで覗いていた芹の前で足を止め、優しい優しい笑みを向けた。

「菅名荘の様子を見て来る。良い子で留守番しておるのだぞ? 」

 これまでであれば、こんな時、自分の力を試してみたくて、一緒に連れて行ってくれとせがんでいた芹だが、今回の武田の動向を探る任の裏を知ると共に己の未熟さを自覚してから、まだ1日と経過していない今、試してみたい自分の力など無い。

「……分かりました」

 五形は芹の頭を優しくポンポンッとやり、

「いい子だ」

そして、なずなに視線を移す。

「なずな。ここが今日からお前の暮らす私の屋敷だ。部屋は、この部屋の2つ手前、芹の隣を使うがよい」

「ありがとうございます」

なずなは真っ直ぐに五形を見つめ、返した。

 芹は、

(ん……? )

五形に礼を言ったなずなの態度に、ちょっと、あれ? と思った。

 頬がほんのり赤い。縋るように? いや、うっとりと? ただ五形だけを見つめる目。

(この子……。もしかして、五形様のこと……? )

何故か、少しショックだった。とてもしっかり納得していたが……。五形様はカッコイイからな、と。

 なずなの礼に対し、五形は、うむ、と頷いて、では私は行くからと言い、

「芹を頼む」

と続けた。

(何でだよっ? )

芹は、なずなの五形への気持ちについての少しのショックの上に、更に、今度は大きなショックを重ねる。

(何で、この子……なずなにオレのことを頼むんだよっ! )

 なずなは驚いた表情をしている。

 ショックを隠せない芹と驚いているなずなの視線を受けながら、五形は続けた。

「なずはは歳こそ芹と変わらぬが、脱走を捨て置けず追っ手を差し向けねばならない程度の力量があると、認められているのであろう? 芹を頼めるな? 」

 五形が話している間に、なずなの表情は、はっきりと途惑いに変わっていった。

 途惑った様子ながら、頷くなずな。

 五形は頷き返し、

「では、行ってくる」

視線を芹へと戻して、優しい目で芹の目の奥を覗き込み、頭を撫でてから勝手口へ。






(オレは、なずなより下かよ……)

同じくらいの年齢、しかも女の子のなずなより下に位置づけられた芹は、番所まで五形を見送りに出るべく山を下る道を、終始無言のまま不貞腐りながら歩いていた。

 完全に自分のペースでどんどん歩く五形と、その後を小走りで、心なしか嬉しそうについていくなずなから、少し後れて……。


 番所に到着し、番所の前を左右に延びる道を、ここ、春日山より北に位置する菅名荘を目指して左手方向、五形の背中は、あっと言う間に小さくなり、直後に見えなくなった。

 五形の行った後を、芹は暫し見送り、

(いつまでも落ち込んでたってしょーがねえし……)

一度、息を大きく吸って吐き、頭を切り換えた。

(五形様は、戦い方なんかについては、どうせ何も教えてくれねえし、清白さんに、もっと、修行の回数を増やしてもらうとか。あとは……)

そこまでで、自分よりも更に長いこと五形の行った後を、未だに見送っているなずなを見る。

(…なずなに教わるとか……? けど、どうも、なずなに五形様の言うような力量があるとは思えないんだよな。藤袴に殺されそうになってた時、オレに、どけと脅すのに、苦無を持つ手が震えてたし……)

 と、そこへ、五形が行ったのとは反対方向から、何やら不規則な馬の蹄の音。

 何の気無く音の方向を振り返る芹。

 ややして、酷く興奮した様子で芹たちのほうへ向かって駆けて来る、1頭の馬が見えてきた。

(暴れ馬っ? )

そう思い、なずなの手を取って、山を登る方向へ避難しようとした芹だが、すぐに、

(っ? )

その馬上に人が乗っていることに気づいた。

 上半身裸で頭髪の乱れた血まみれの若い武士が、落ちないよう必死といった感じでしがみついていたのだ。

 ぐんぐん近づいてくる馬。 

 武士の顔がはっきりと見え、芹は、その武士を見たことがあると気づいた。

 名前までは分からないが、確かにいつか、信越国境の境目城・野尻城で見掛けた顔だ。

 芹は武士と目が合う。

 直後、

(っ! )

武士は落馬した。

 芹は、なずなの手を離し、急いで武士に駆け寄って、

「おい! 大丈夫かっ? 」

地面に膝をついて抱き起こす。

 すぐ横で、なずなが、暴れる馬を宥めた。

 芹の腕の中で、武士が苦しげに口を開く。

「殿、に……。火急の、報せ、が……」

 芹は困る。

「御実城様は、菅名荘へ行ってるんだけど……。蘆名軍が攻めて来たらしくて……」

 武士のほうも困惑の表情を浮かべ、

「では、現在、この城の護りは……? 」

 武士の質問の意図が分からず、芹は、一体どうしたのかと逆に問う。

「…武田軍が……。武田軍が野尻城を落とし、越後に入って郷村に放火を……! あの勢いでは、そのまま、こちらの城にも攻め込みかねない……! 」

 やはり苦しげで途切れ途切れのその答えに、

(! )

驚き、

(ヤベーよ! それっ! )

今の状況で攻め込まれては、ひとたまりも無いと、焦る芹。

 武士は言うだけ言うと、報せなければ、と、立ち上がろうとする。

(あ、おいっ! )

芹は慌てて止めた。

「そんな体じゃ無理だ! オレが行くっ! 」

 それから、いくら急がなければならないとは言え、この武士をこのまま放置するわけにはいかないため、なずなに頼もうと、

「あ、あの……! な、なず、な! 」

初めてなずなの名を口にした。名前などで呼んで怒られないか緊張しながら、そして、いざ口にしてみて、何とも言えない甘酸っぱい気分になりながら。……急場だというのにと、不謹慎を反省しつつ……。

 すぐ隣で馬の鼻面を撫でていたなずなは、手を止め、芹を見た。

 芹、なずなの視線に不謹慎を見抜かれそうで、見抜かれれば何か言われそうで、大急ぎで甘酸っぱい気分を振り払い、意識的に真面目に、

「この人のこと、頼める? 」

言ってしまってから、いくら態度は真面目であっても、頼みごとなど、それ自体、調子にのっていると思われそうな行為だと気づき、それでも、もう話し始めてしまっているため、途中で話をやめることも、その他にどうすることも、それはそれで何か言われそうで出来ず、内心ビクビクしながらも仕方なく続ける。

「もう一度、馬の背に乗せて、南三の丸……ほら、五形様の屋敷のあるとこまで運んで、そうしたら、カツさんって分かる? さっき五形様と話してた女の人。後のことは、そのカツさんに事情を話して指示を仰げばいいから」

 芹の言葉に、なずなは意外と素直に、

「分かった。じゃあ、馬に乗せるのだけ手伝ってから行ってくれるかしら? 」

「あ、う、うん」

芹は驚き、もしかしたら自分が気にしすぎなのではと思った。

 考えてみれば、なずなから冷たい声を浴びせかけられたのは、「…で……? 」の一言だけなのに。それだって、芹がなずなの気持ちを置き去りにして好き勝手言った後のことで、なずなにしてみれば頭にきて当然だった状況。頭にきていれば、誰だって、相手に対して冷たい声のひとつや二つ、発する。それを必要以上に引きずって、勝手な印象を持ったりしていて、なずなに悪いことをしたのかも知れないと思った。





                  *




「芹! 」

林の中を通る道、と表現するには少し広い、両側を林に挟まれた道。そこを菅名荘へ向かって走る芹の背後から、非常に規則正しい駆け足の蹄の音と、芹の名を呼ぶ少女の声。

 芹は、足を止めないまま、頭だけで振り返る。

 そこにいたのは、先程の武士の乗っていた馬に跨ったなずなだった。

 出会った時から着ていた着物はそのままに、下半身に、裾をしぼった袴を穿いている。

 なずなは、馬に乗ったまま芹の横に並び、

「乗って。平らな道なら、馬のほうが速いわ」

言うが、止まろうとする気配は無く、ただ微妙に速度を緩めた。

(このまま飛び乗れって? )

そんなことは、したことが無いと、躊躇う芹。

 しかし、

(まあ、何とかなるか)

なずながごく当然の顔でいるのだ。きっと、なずなの周りの人たち……例えば、同じ道場にいたくノ一仲間などは、当たり前にやっていることなのだろう。だったら自分だって出来るはずだと思った。

 なずなに見られるのは何となく嫌なため、こっそり静かに、一度、深呼吸をしてから、芹は地面を蹴る。

 と、芹がなずなの後ろに跨った瞬間、

(……! )

馬が突然、尻を大きく横に振った。

 落ちそうになる芹。

 なずなが咄嗟の手綱捌きで体勢を立て直す。

 落ちずに済んで、

(あっぶねー……)

ホッと息を吐く芹に、なずな、目を剥いて一瞬だけ振り返り、

「芹! もっと静かに乗って! 馬が驚いちゃうじゃない! 」

(…そんなこと言われたって……)

芹は軽く不貞腐り、

「オレ、動いてる馬に飛び乗ったことなんてねえし」

 なずなは、えっ、と驚き、それから溜息。

「それならそうと、先に言ってちょうだい。忍なんだから、当然そのくらい出来ると思うじゃないの」

 突然、なずなの左手が後ろに伸びてきた。

(? )

すぐ次の瞬間、

(! )

手探りで芹の左手を掴む。

 芹はドキッとし、不貞腐った気分が何処かへ飛んで行った。

「ほら、ちゃんとわたしに掴まって。でないと本当に落ちるわよ」

言いながら、掴んでいた芹の手を、なずなは、自分の腰のくびれ部分に巻きつける。

(……! )

芹はドキドキッ。

 自分がなずなの手を掴んだ時には気づかなかった、自分の手を掴むなずなの手の滑らかな感触。柔らかな腹部。髪の甘い香り。自分の顔は、今、きっと真っ赤だと、芹は思った。

 芹は照れ隠しに、たった今何処かへ飛んで行ってしまった不貞腐った気分を大急ぎで呼び戻し、

「どうせオレは、半人前ですらない愛玩動物だからな」

 半分は本気で不貞腐っていたが……。

 芹は正直、なずなが追って来てくれたことにガッカリしていた。ひとりで行きたかったのだ。このくらいのことならひとりで出来ると、五形に見せたかった。自分の出来ることを小さなことからコツコツと証明していきたかった。それなのに、なずなが一緒にいては、なずなが一緒だから出来たのだと思われてしまう。

「報せに行くくらい、オレひとりで充分なのに、どうして来たんだ? さっきのあの怪我人はどうしたんだよ」

言ってから芹は、自分の口から出た言葉の調子が、ちょっとキツかったかもと感じ、気にする。

 しかしなずなは、全く気にした様子は無く、前を向いたまま馬を駆りつつ、

「あのお侍様は、カツ様が、カツ様のお屋敷で見てる。カツ様に事情を話したら、お侍様の馬を借りて行けって、袴も貸してくれたわ。それに、カツ様に言われなくても、わたしは五形様から、芹のこと頼まれてもいるし」

(そっか、そうだよな……。それなのに、オレひとりでノコノコ報せに行ったら、なずなが怒られちま……)

仕方ないと納得しようとした芹の思考を、

「でも」

なずなは遮った。

「そんなの口実だけどね。だって、あのお侍様に関する仕事は、運んで手当てして寝かせたら、とりあえず終わりなのよ? さっき五形様や芹と一緒に、ちょっとの間、足を踏み入れただけの場所に、ひとりでなんて居づらいじゃない」

 これにも芹は、そりゃそうだと納得。

「それに……」

そこからは何故か、躊躇い気味に続けるなずな。

「あなたは、わたしが本当に五形様のおっしゃるほどの力量を持っていると思う……? あなた自身は本当に自分を愛玩動物程度だと思っているの……? わたしがあなたを護れると思う……? 

 わたしには、あなたは立派な半人前、しかも、藤袴と向き合ったこと然り、怪我をした状態でやって来たお侍様への対応然り、馬に飛び乗ろうとして上手くいかなかったこともまた然り、経験ごとにグングン伸びていっている人に見えるわ」

「え、そ、そうかな……? 」

愛玩動物扱いされている芹にとって、半人前は褒め言葉。それも、立派なとか、グングン伸びていってる人とか、ベタ褒めされているも同然で、芹は照れまくる。

 それに対し、なずなは、

「そうよ」

当然といった様子であっさりと返し、

「それに比べて、わたしは駄目ね」

自嘲的に笑った。

「わたし、道場を最終科目の修行を前に脱走したって言ってたでしょ? その科目を無事に終えれば、一人前の巫女として働くことになるの。あなた、気づいたわよね? 昨日、あなたを苦無で脅そうとした時、わたしの手が震えてたことを。…そんなんで、あとちょっともすれば一人前として働くようになるところだったなんて……。わたしの級友たちが、もしも脱走した場合、捨て置いたら確かに危険だとは思うけど、わたしは安全よ。他人に苦無も向けれないほどの劣等生なんだもの。追っ手が差し向けられたのだって、ただ、本当に決まりだからってだけ。五形様、きっとガッカリされるわね。わたしの真の力量を知ったら……。

 さっき、五形様から『芹を頼めるな? 』って聞かれて頷いたのは、ガッカリされるのが嫌だったのと、あなたなら、もし、わたしと二人きりの時に何か起こったとしても、自分の身は自分で護れると、わたしが護ってあげなくても大丈夫だと思ったから、だから、つい……」

(…なずな、やっぱり五形様のこと……? そうだよな。好きな人には、良く思われたいもんな……)

芹は、何だかなずなに対して、やけにおおらかな気持ちになっていた。

 馬上の風が清々しい。






 その時、ト……と、芹の背後の、ごく狭い馬上に、何か小さなものが乗ったような微かな震動。

 ハッキリと感じた芹だったが、全く気に留めなかった。

 直後、

「……! 」

芹は、襟の後ろの部分をグイッと後ろに向かって引っ張られ、そのまま馬から放り出される。

 咄嗟に受身の態勢をとって衝撃を減らし着地しつつ、もう先に行ってしまった馬を見ると、

(藤袴……! )

鶯色の忍装束を纏った藤袴が、芹のほうを向いて馬上に立ち、芹と目が合うと、挑発的に笑んでから、クルッと進行方向へ体の向きを変えた。

 なずなが藤袴の存在に気づいている様子は無い。

「なずな! 」

芹は、なずなと藤袴を乗せて走る馬を、大急ぎで追いかける。

 五形と互角と言われる藤袴。怖くないわけがない。しかし、怖がってなどいる場合ではない。

 追いかける芹の視線の先で、

(! ! ! )

藤袴の腕がなずなの首を捉え、薙ぎ倒すようにして落馬させた。

 藤袴もすぐさま馬を降り、仰向けに地面に倒れているなずなの体に馬乗りになって、片手でその細い首を押さえつける。そして、頬に、空いているほうの拳を、ガッガッガッと幾度も叩きつけた。

「っ! やめろぉーっ! 」

芹の頭の奥か胸の奥か、とにかく体の表面から遠いところで、何かがプツリと小さな音をたてて切れた。

 怖がっている場合ではないと思いつつ、それでもやはり怖がっていた気持ちが、どこかへ飛んでいった。

 芹は、藤袴に向かって突進しながら抜刀する。

「ダメ! 芹っ! 」

なずなが叫んだ。何度も藤袴の拳に遮られながら、

「狙いはわたしだけだから! 手出ししなければ、あなたは何もされないわ! わたしのことはいいから、早く菅名荘へ! わたしなら大丈夫だから! 」

 芹は止まらない。

(『わたしなら大丈夫』……? )

そのなずなの言葉が、芹には、「わたしのために芹にもしものことがあって五形様に嫌われてしまうくらいなら、わたしは死んだって大丈夫」と言っているようにしか聞こえなかったのだ。

「バカヤロー! 」

芹の中で、何かはプツプツと切れ続けている。

「オレはあんたに生きてくれって望んだんだ! 殺されるって分かってて放っておけるかよっ! くだらねーこと言いやがって! 望みどおり叱ってやる! 帰ったら覚悟しとけよっ! 」

 怒りに任せて忍刀を振りかざし、芹は、藤袴へと真っしぐら。切っ先が届く範囲に入ったところで、いっきに振り下ろした。

 藤袴は、芹のほうを一切向かないまま、何発目か用に握って振り上げていた拳をフッと解き、芹の振り下ろした切っ先を、頭上1寸ほどのところで、親指と人指し指だけで、つまんで止めた。

(! )

芹は一旦、刀を引こうとしたが、指2本で掴まれているだけにもかかわらず、どんなに力を入れても動かせない。

(やっべ! )

焦る芹。刀を引っ張り続ける。

 そんな芹を全く気に留めない……どころか、存在さえしていない感じで、藤袴、

「なずな」

ただ、なずなを見下ろす。

「俺は、今日は本気でお前を狩りに来た。昨日はさ、実は、その気は無かったんだぜ? 何とか連れ帰るつもりでいた。お前のほうから殺してくれと言われて、正直途惑ったし、躊躇った。だって、そうだろう? 10歳の頃からお前の成長を傍で見てきて、父か兄のような気持ちになってたんだから。

 けど、お前が何度も自殺未遂を繰り返してきたことを思って、辛い過去を抱えているお前が生きていくのは、もう限界なのだろうと覚悟を決めた。本来は始末しなけりゃならないところだから、何の問題も無いしな。ただ、せめて苦しまずにと」 

 長々と喋る藤袴の斜め後ろで、芹は、ひたすら刀を引っ張る。

 と、ツルッ。手汗で滑って刀から手が離れ、芹は、後ろによろけた。

 瞬間、すぐ目の前に真っ赤な飛沫が上がった。

 激しい目まいを感じ、立っていられず、膝から崩れる芹。

「芹っ! 」

なずなが悲鳴のような声を上げた。

 揺れる視界の中に、芹は、なずなに馬乗りになったまま上体を大きく捻って芹のほうを向いている藤袴を見た。その手にしっかりと柄の部分で握られている芹の忍刀は、何故か赤い液体で濡れている。

(…何だ……? 何が、起こった……? )

意識はハッキリしているが、声が出ない。

 体も言うことを聞かず、芹は、意に反して地面にうつぶせに倒れ込んだ。

 何とか顔だけを起こし、地面に顎をつく格好で、なずなと藤袴のほうを見る芹。

 藤袴は、芹の顔の前にポイッと忍刀を投げ捨て、なずなを振り返った。

「なずな。どうだ、辛いか? 自分を助けようとした人間が傷ついて辛いか? 短い間に随分と事情が変わったようだな。…お前は、生きようとしているんだな……。

 昨日の段階でなら、それは問題なかった。道場に戻るという条件下に限って。だが、お前は上杉についた。今そこに転がっている小童を昨日、助けに来たのは、軒猿の五形だった。その小童とまだ一緒にいるということは、上杉についたと判断して間違い無いな? 

 なずな、これは立派な裏切り行為だ。酌量の余地は無い。苦しんで、苦しみ抜いて死ね」

(…なずな……! )

芹は、必死に目の前の刀に手を伸ばそうとするが、腕が重くて思うように動かせない。

 時間をかけて地面を這わせるようにして動かし、何とか柄の上に右手を置くことが出来たが、そこまで。それ以上は、どうにも動かせなかった。

 その時、たまたま芹を一瞥した藤袴と目が合い、芹は、ギクリとする。刀を取り上げられてしまうのではないか、と。

 しかし藤袴は、芹の手が刀にいっていることに気づいたようだったにもかかわらず、特に何もせず放置。

(どうせ何も出来ねえとか思ったっ? )

芹は、馬鹿にされたような気になったが、実際、刀を握ろうとしても力が入らなくて握れず、今は悔しいよりも、

(何とか、しなきゃ……! なずなが……! )

焦りが募る。

 ビッビビビ、ビビ……。布の裂ける音と共に、藤袴が、馬乗りになる位置を後ろ方向へ1尺分ほど移動する。

 同時、なずなが小さく叫んだ。

(っ? 何を、しやがった……! )

藤袴の背中が邪魔をして、芹の位置からでは、なずなの姿が見えない。

「なずな。お前は淫乱だな。こんなに濡れてるぜ? 房術の訓練をすると聞いて逃げ出したんだから、お前には、これが一番苦痛だろうと思ったが、大きな間違いだったようだな。これじゃあ、お前を悦ばせるだけか? 」

蔑むような、どこか面白がっているような、藤袴の言葉。

「だったら、こんなのはどうだ? 」

 なずなが呻く。息が荒い。

(一体、何をしてやがるっ? )

「なら、これでどうだ? 」

 なずなが一層苦しげに呻き、それが暫く続いたかと思うと、ああ、と悲痛な声で叫び、以降、パッタリと静かになった。

(なずなっ? なずなっ! )

姿が全く見えないだけに、不安は言いようが無い。

「気を失ったか……」

藤袴が独り言のように呟く。

「気を失っちまったら、苦痛も何も無えもんな。もう、終わりでいいよな」

藤袴の肩越しに、何か、体や着衣の一部とは明らかに違う、鋭利な黒い影が覗いた。それは、芹の位置からでも確認出来た。苦無だ。

「さよならだ。なずな」

(まずいっ! まずいまずいっ! )

焦りに焦って、芹は、とにかく立ち上がろうと、刀に乗せていないほう、左腕に思いっきり力を込め、地面に寝そべったまま、藤袴の動きを気にして焦りつつ、それでもどうしても少しずつ少しずつになってしまうが気持ちだけは早く早くと懸命に、全身を刀に近づけていく。

 目標は、腰を、柄に乗せた右手の横一直線上までもっていくこと。…刀を握ることが出来るのであれば、刀を握った上で右手を腰の位置までもってきたほうが早いのだが……。

 そうしながら、芹は不思議に思う。

 何故自分が、こんなふうに頑張れる余地があるのだろう、と。

 本来なら、こんな体で急いだところで、間に合う見込みなど無い。なのに自分は今、間に合うために急いでいる。何故か。……藤袴が動かないためだ。

 藤袴は、苦無を出して手に持ったきり、微動だにしない。そう言えば、昨日もそうだった。なずなに殺してくれと言われ苦無を取り出した後、なかなかそれを、なずなへ向けようとせず、手元で弄んでいた。さっきの話からすると、なずなを殺すのを躊躇っていたとのことだったが……。ずっと成長を傍で見てきて、父か兄のような気持ちになっていたから、と。

(…藤袴……。ひょっとして、今も躊躇ってんのか……? )

 何にしても、今のうちに何とかしなければと、ちょっと気を抜けば遠のいてしまいそうになる意識を、必死につなぎ止めながら、

(あと少し! あと少しだっ! )

芹は、腕に力を込め前進を続ける。


 やっと目標の位置まで体が達した、その時、

(っ! )

突然、藤袴が動いた。それまで俯き加減だった頭をハッと上げ、芹たちの行こうとしていた菅名荘方向を見ただけだが……。

 反射的に、ビクッとする芹。

 直後、藤袴は立ち上がる。

 芹は、またビクッ。

 芹が2度目のビクッをしている僅かな間に、藤袴は、高く跳び上がりつつ脇の林の中に消えた。

(…助かった、のか……? )






 藤袴が退いたことで芹の目の前に現れたなずなは、全裸だった。傍に、ビリビリに裂けた着物が散乱している。

(……! なずなっ……! )

芹は、右手に意識と力を集中させて、何とか刀を掴み、それを地面に突き立て杖代わりに、中途半端に起き上がった。

 そして刀と膝を使って、ズルズルと体を引きずるように、その姿を出来るだけ見ないよう気をつけながら、なずなの許へ。

 なずなの脇に膝をついた芹は、やはり出来るだけ見ないように顔を背け、なずなに掛けてやるべく、自分の忍装束の上着を脱いだ。

 先程の真っ赤な飛沫は、芹自身が胸を斬られたことによる出血だったようだ。何故か痛みなどは全く無いのだが、あらためて見ると、芹のものも前身頃は切り裂かれ、血で汚れていた。

それを、ほぼ感覚のみでなずなに被せてから、やっと、

(…なずな……)

芹は、まともになずなを見る。

 頬の、殴られた痕が痛々しい。

 藤袴が去り、残された静寂。聞こえるのは、風で木の葉の擦れ合う音と、小鳥のさえずりだけ。

(…静かだな……)

 穏やかな陽の光が降り注ぐ。

 芹は、野尻のことを報せなければとの思いがキチンと頭の中心にあったものの、意識がスウッと遠のいていくのに勝てず、刀にもたれるようにしながら、ズルズルと地面に、うつ伏せに崩れた。


 木の葉の音と小鳥のさえずりに混じり、かなりの数と思われる人の足音と馬の蹄の音を、耳が捉え、ハッと音の方向を見る芹。

 音は、菅名荘方向から。

 ややして見えてきたのは、足音・蹄音の正体たる軍と、その旗印・刀八毘沙門。上杉軍だ。

 藤袴は、いち早くこれを察知して、去って行ったのだろうか。

「芹! 」

名を呼ぶ声と共に、芹は仰向けに抱き起こされた。

 目の前に、五形の顔。

(…五形、様……)

何だかホッとした芹。

 途端、いっきに視界がボヤけ、後、光が全て吸い取られるように一点に集まって消え、目の前が真っ暗になった。




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