第1話 愛玩動物なオレと歩き巫女の卵
(報せなきゃ! )
いかにも忍といった黒の忍装束の少年・芹は、武田の不穏な動きを察知し、報せるべく、信濃の深い森の中の獣道を、上野方向へ急いだ。
芹は、保護者代わりである五形より、留守中の脅威である武田の動向を探る任を命ぜられていたのだった。
五形は、先の川中島の戦いに於いて、武田方の啄木鳥戦法を見抜いた、優秀な軒猿頭領。その彼が、主・上杉輝虎の上野国和田城攻略に同行している最中のことである。
本当は、芹も戦に同行したかった。自分の力を試してみたかったのだ。
だが、危ないからと、代わりに与えられたのが、この任務。
敬愛する五形に置いてけぼりを喰らい、自分だって、もう足手まといにはならないのにと、軽く拗ねながら臨んでいた任務だったが、武田の動きに気づいてドキドキした。これを五形様に報告出来たら、きっと、自分を認めてもらえるに違いない、と。
早く報せたくて、認められたくて、実際にはそんなに遅くないと分かっていながらも、自分の足がもどかしかった。
(っ? )
芹は、自分のほうへ向かって来る気配を感じ、頭上の木の枝に飛び乗って身を隠す。
ややして、芹と同じくらいの年頃の、肌の白い少女が駆けて来た。
丈の短い茜色の着物を着、茶色がかった柔らかな質感の黒髪を顎の位置で切り揃えた、その少女の、黒目がちで吊り上がり気味の大きな目は真っ直ぐに正面を見据え、薄紅色の花びらのような唇からは苦しげな荒い息が漏れる。
(お、可愛いっ)
と、芹が思った瞬間、芹のいる枝の3尺ほど手前で、少女の脇を黒っぽい影が音も無く過ぎった。
直後、少女はビクッとし、立ち止まった。
芹は、自分が少女に見つかったのかと思ったが、違った。
芹の枝を丁度中間に挟んで少女の正面に、明るい茶髪を無造作に後ろでひとつに束ね、鶯色の着物を緩く着た、30代半ばくらいの男が立っていた。どうやら、少女の脇をたった今、過ぎった影の、正体だ。
少女は、怯えきった目で男を見上げる。
男は、緩く着た着物のはだけた胸をポリポリと掻きながら、ごく軽い口調で、
「なーずなちゃんっ」
少女は、なずな、という名らしい。
少女・なずなは、また、ビクッ。
その怯えは明らかに男に対してのものなのだが、その怯えっぷりに全く不釣合いに、男はニッコリ笑って、
「帰ろっか」
なずなは目を逸らす。
男は、小さく息を吐き、
「ま、いーけどね」
飄々と、半分独り言のように、
「けど、もうすぐ日が暮れるんだよなー。この辺は野犬が多いから、ちょっと修行を積んだだけのヒヨッ子くノ一なんて、いい餌だよなー」
そして、相変わらず目を逸らしたままのなずなを暫し眺め、もう一度息を吐いて、
「よし、行こう」
右手を伸ばし、なずなの左腕を取ろうとする。
が、なずなは、その手をかわし、自分の左腕を右手で胸に抱きしめ、小さく小さくなって、見ていて痛々しいほどに震える。
男の表情が、スッと変わった。一切の笑みを消した、冷たい表情。
「なずな」
ほんの少し前とはまるで違う、低い声、重く厳しい口調。
「今すぐ大人しく戻るなら、いつもの罰を受けるだけで許してやる。だが、抵抗するなら、俺は、お前を、今ここで始末しなけりゃならない。そういう決まりだ」
(…あの子、殺される……? )
見ず知らずの少女。しかし、最初に見た瞬間に、可愛いなどと思った。男を前に怯える姿を盗み見ていて、何となく不憫に感じたりもしていた。
(…助け、られないかな……? )
何だか放っておけない……そんな不思議な感情が芽生えた。
(あの男、強いのか? 強そう、だよな? )
と、その時、背後でミシッと音。
(ミシ……? )
首を傾げる芹。
直後、
(っ! )
芹は、乗っていた枝ごと地面に落ちた。枝が折れたのだ。
落ちた場所は、もちろん、なずなと男のド真ん中。.
青ざめる芹。
なずなは、ギョッとしたように芹を見つめている。
しかし男のほうは、チラリとも芹を見ず、
「どうする? なずな」
話を続けた。
(無視かよっ! オレ、いないことにされてるっ? )
なずなは男の問いに対して、芹を見つめていた目を逸らし、かと言って、男とも目を合わさず、
「分かりました。殺して下さい」
その様子に、先程までの怯えは無い。
(っ! 何でだよっ? )
芹はショックを受け、
「ダメだ! そんなのっ! 」
思わず、言葉が口をついて出た。
なずなは、少し哀しげにも見えるが非常に落ち着いた瞳で芹を一瞥し、それから、真っ直ぐに男を見上げ、
「お願いします」
男は頷き、
「いい覚悟だ。今回のような場合、ジワジワと苦痛を与えながら死に至らしめるのが本来のやり方だが、その覚悟に免じて、一瞬で楽にしてやるよ」
「ありがとうございます」
「よし。じゃあ、目を瞑れ」
「はい」
目を閉じるなずな。
男は、徐に自分の着物の緩い合わせ目の部分に右手を差し入れ、中から苦無を取り出す。
なずなを護るべく、芹は、背中の忍刀を抜いて手に握った。いつでも動けるように構えて、男の隙を窺う。
だが男は、腹の前の位置で苦無を回したり何だりと弄びつつ、なずなと手元の苦無を交互に見比べるだけで、それ以上の動きを見せない。
芹は、
(……? )
首を傾げるが、男に、苦無を奪い取れるような隙は無い。
ややして男は、溜息をひとつ。苦無を逆手にグッと握り直したかと思うと、なずなの胸めがけて突き出した。
男が苦無を弄んでいた時間が長かったため、ちょっとボーッとしかけていた芹は、ハッとし、
(まずいっ! )
忍刀をしっかり握り直し、なずなまであと1寸と迫った苦無をその刀身で弾きつつ、なずなを背に庇う格好で、男との間に割って入り、男を見据える。
男は感心したように、へえ……と言った。
その「へえ」に、芹は、馬鹿にされているような見下されているような響きを感じ、ムカッとして、
「おい、てめえ! さっきからオレのこと無視してやがって! やっと無視しなくなったと思や、小馬鹿にして! オレのこと何も知らねえくせにっ! 」
男は、芹と目を合わせることはせず、弾かれた苦無を、一旦、腹の前に戻し、再び回したり何だり弄びながら、
「何も知らねえ、か……」
その口調は、なずなを追って現れ最初に口を開いた時と同じく、軽い。
「確かに知らないけど、何か、分かる気がするんだよねー。無視してた、って言うけどさ、俺、親切のつもりだったんだぜ? お前、何処のかは知らねえけど忍だろ? 忍が木から落ちるなんてとこ見られたら気まずいだろうと思って、見なかったことにしてやったんだけど? 」
そこまでで、苦無を弄ぶ手を止め、芹を見る。
「……あのさぁ、とりあえず、そこ、どいてくんない? 」
口調は軽いが、その目には迫力がある。
「忍が、よそ様のことに口を挟むなんて、感心しないなあ……。いい加減にしないと、おじさん、怒っちゃうかもよ? 」
静かな迫力に、芹はゾクッとしたが、気持ちを奮い立たせ、睨み返す。
「嫌だ! オレがどいたら、あんた、この子を殺すんだろっ? 」
男は溜息。それからクックと笑い出し、
「甘いねえ、青いねえ、可愛いねえ……。俺は別に、お前がどかなくても、お前ごと、なずなを殺せるぜ? ただ、お前は無関係なんだから、命が惜しけりゃどいてろってことさ。あと、さすがに間にお前が入ると、一瞬で、っていうなずなとの約束が果たせねえかもしれないし」
と、芹の喉頸に、後ろから、冷たく硬い、何か金属のようなものが、ヒタッと触った。ザワッと全身の産毛が逆立つ。
男ではない。男の両手両足は、芹の目の前にある。
「どいて下さい。お願いします。見ず知らずのわたしなんかのために、命を無駄にしないで……! 」
背後で、なずなの声が言う。喉頸に触れている、おそらく武器である金属のようなものから、震えが伝わる。そのような物を人に向けることに慣れていないのだろう。
震えで手元がブレたか、右の耳たぶに温かく柔らかいものが当たり、喉頸に触れている武器は長さの短い物で、耳たぶの下になずなの手があると判断できた。
「どいて下さい」
なずなが繰り返す。
声の落ち着きに反して、手の震えは大きくなっていた。
芹は辛くなってきた。なずなが、あまりに痛々しくて……。
何かが、胸の奥の奥のほうから湧き出て来、それは、
「…い、やだ……」
呻き声のような形で口から発せられた瞬間、いっきに溢れ返った。
芹は、耳たぶの下のなずなの手を、自分の喉頸から遠ざけるように、素早く右手で掴み上げた。
なずなが、あっ、と小さく声を上げ、手にしていた武器を落とす。それは、男の物と同型の苦無だった。
芹、なずなの手を掴んだまま、空いている左手で刀を操り、男のほうへと向けて牽制。
男が溜息を吐き、
「なずな、悪いな。一瞬は無理かも」
言うと同時、苦無を持つその手が動いた。
目にも止まらぬ、とは、このこと。芹の左手が弾かれ、刀が芹の手を離れて飛んだ。そして、
(っ! )
本来なら手が弾かれると同時のはずの痛みを、後れて感じる。血などは出ていない。どうやら、苦無の、刃ではないほうを当てられたらしい。
直後、芹はハッとした。男が非常に低い姿勢で、芹の懐の中から芹を見上げていたのだ。その手の苦無は、芹の胸の前に突きつけられている。
男は、ニヤリと笑った。
(……っ! いつの間にっ? )
芹は慌てて飛び退き、飛び退いた先に、たまたま自分の刀が転がっていたため、条件反射的に拾う。
その時、
(なっ、何だっ? )
にわかに辺りに煙のようなものが立ち籠め、芹は視界を奪われた。
続いて、
(っ! )
腰の辺りを後ろ方向にグイッと引っ張られる感じで、体が宙に浮く。
煙が濃くて周囲は全く見えないが、風の流れで、その引っ張られた方向へと、宙に浮いたまま、グングン移動しているのが分かった。
芹は驚き、
(なっ、何だよ何だよ何だよっ? )
恐怖を感じた。
状況が分からない以上、とにかくこの移動を止めなければ危険だと考えた。
どうすればいいかと、頭を巡らせる芹。
考えている間にも移動は続き、気ばかりが焦る。
結局、何も出来ないうちに周囲を包んでいた煙は晴れ、芹の視界に、走る見慣れた純白の忍装束の脚が現れた。
斜め上方に視線を移せば、長い黒髪を後ろで一つに束ねた精悍な横顔。五形だ。
芹は、走る五形の右の小脇に抱えられていたのだ。
「五形様……」
芹に名を呼ばれ、五形は、一度チラッと芹に視線を流し、フッと優しく笑んだだけで、走り続ける。
芹は安心しかけるが、ハタと気づき、
(あの子はっ……? )
しかし辺りを見回す前に、自分の右手がしっかりと握りしめている白く華奢な手を見つけ、その手とつながって五形の体の向こうに、なずなの着物と同じ布地と、手と同じく白く華奢な脚を確認できた。
五形が、なずなも連れて来ていた。芹とは逆、進行方向を向いて抱えられている。
(…よかった……)
*
森を抜け、小高い丘の上まで来たところで、
「ここまで来ればいいだろう」
そこにあった無人の古い小屋の裏手に、五形は、芹となずなを下ろし、優しく芹の目を覗いて、
「大丈夫か? 」
芹はホッとして、
「ありがとうございます」
礼を言ってから、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「でも、どうして五形様がここに? 御実城様と一緒に、上野におられるはずじゃあ? 」
「ああ、清白から、武田に不穏な動きありと報告があってな。まだ和田攻略の途中だったが、一旦、私以外全員で帰還したのだ」
(清白さんが……? 清白さんも武田を探ってたのか……)
清白は、五形の配下の忍で、時々、芹の修行に付き合ってくれたりする、芹の兄貴的存在の人物。
芹は、五形が自分を信頼してくれていなかったのだと感じ、ショックを受けたが、五形は、そんな芹の気持ちに気づかないらしく、続ける。
「私は、清白がお前を放り出して報告になど来たから、心配になって、皆と春日山へは戻らず、上野から直接こちらへ、お前を迎えに来たのだ」
そして、一層、目を優しくして、
「捜したぞ。無事でよかった」
五形の言葉に、
(…オレを放り出して、って……)
芹は大ショック。
(清白さんは武田を探ってたんじゃなくて、オレに付いてたのか……。五形様に命ぜられて……。戦どころか偵察も行かせられないって? けど、何か任務を与えなければオレが納得しなさそうだったから、清白さんをこっそり付いて行かせることにして行かせたんだ……。この忍刀も……)
芹は、地面に転がったのを拾って以降左手に握りしめたままだった自分の刀に、チラッ視線を流す。
(今回の任務にあたってと五形様から与えられて、望んでた戦場へは連れてってもらえなかったけど、それでも何か、ちょっとは認められたような気になってたのに、きっと五形様は、護身用のつもりで渡した、程度の気持ちだったんだろうな……)
落ち込む芹に五形は全く気づかず、大きく息を吐いて、まだ続ける。
「まったく、清白には困ったものだな。武田の動向の報告も大事だが、自分の一番の務めを忘れている」
そこで一旦、言葉を切り、気遣わしげに芹を見、
「清白に急にいなくなられて、心細かったであろう? 」
(……は? こっそりじゃなかったのか。清白さんが傍にいたのなんて、全然気づかなかったけど……)
それから、五形はまた溜息。不機嫌そうに、
「しかも、それを注意したら、芹はもう小さな子供などではないのだからと開き直りおって。それどころか、私の芹に対する態度は半人前扱いですらなく愛玩動物と同じであると、それでは芹に失礼であると、逆に意見までしおったわ。だが、やはり、清白が目を離したために、実際にこうして、芹が危険な目に遭ってしまったではないか。私が間に合わなかったら、どうなっていたことか」
ぶつぶつくどくどと話し続ける。
芹は、
(清白さん……)
せっかく清白が、芹自身も感じていた、五形の芹への接し方について言及してくれたので、良い機会だから、勇気を振り絞って自分からも言ってみようと、
「ご…五形、様……! 」
口を開いた。
「オレが今、危ない目に遭ったのは、余計なことに首を突っ込んだからで、そんなことをしないようにすれば、何事も無く偵察をこなせるはずです。事実、オレは今、武田が不穏な動きをしていることを伝えるため、和田城へ向かう途中でした。…清白さんに先を越されましたけど……」
清白さんに先を越された……自分であらためて口に出して言ってみて、芹は、更に落ち込みを深くした。
自分の傍にいたということは、同じ時に同じものを見聞きしていたはずなのに、清白のほうが、全然早く武田の動きに気づいたであろうこと。そもそも、自分は清白の存在に全く気づいていなかったこと。……それらから、己の未熟さを自覚して。
落ち込みがあまりに深くて俯き、
(…こんなんじゃ、せめて半人前扱いくらいしてくれなんて、言えないよな……)
口を噤む芹。
暫し沈黙が流れる。
五形まで黙ってしまっていたため、自分の発言で、五形が、自分を生意気だと怒ってしまったのではと、不安になって、芹は、恐る恐る五形を盗み見た。
すると、五形と目が合った。目が合った五形は、驚いた表情をしていた。
五形の手が、芹に向かって伸びる。
殴られると思い、芹は、ビクッ。
しかし、五形の手は、芹の頭にフワッと置かれた。
「そうか。武田の動きに気づけたのか」
五形は、芹と目の高さを合わせて、
「よく気づけたな。偉いぞ」
指で芹の髪を梳く。
芹は、内心溜息を吐いた。
(やっぱ、愛玩動物扱いか……)
「ところで」
五形が、なずなに視線を流した。丘の小屋の裏手に下ろされて以降、なずなは、今もずっと、放心状態で地面にペタンと座ったままでいる。
「この娘は誰だ? お前が手を握っていたから、そのまま一緒に連れて来たが、この娘が原因で、藤袴に襲われていたのか? 」
(藤袴っ? )
驚く芹。
「ふ、藤袴って……! あの、さっきの人が、あの藤袴ですかっ? 」
「ん? ああ。そうだ」
五形はキョトンとして答え、考えるように、自分の顎をつまんで少し間を置いてから、
「そうか。芹は藤袴に会ったことが無かったな」
(あれが、藤袴……)
噂には、よく聞いていた。一般的には無名だが、同業者である忍の間では超有名人の武田の三ツ者。特に戦闘の能力に優れ、軒猿の頭領たる五形と互角に渡り合える唯一の存在と言われている。
芹は五形の戦う姿を見たことが無いが、噂をする周囲の口振りから、それがすごいことであるとは分かった。
とんでもない人物を相手にしようとしていたのだと、芹は今更、背筋が寒くなる。
五形は、真面目な表情で芹の目を覗き、
「今し方お前の言った、余計なこと、とは、この娘のことか? 首を突っ込んだ、ということは、お前から進んで関わったのだな? 一体、何があった? 」
芹は、真剣な口調の五形の質問の意図が分からず、顔色を窺いながら、怖ず怖ずと、
「彼女が藤袴に殺されそうになっていて……。なんか、放っとけなくて……。でも、オレは、たった今、余計なことって言い方をしましたけど、それは偵察任務を遂行するのに余計なことって意味で、助けること自体が余計なことだなんて思わないです」
皆まで言ってなお五形を窺い続ける芹の視線の先で、五形は、大きく息を吐いた。
芹はビクッとし、五形の出方を待つ。
だが五形は、徐に、体ごとなずなの方へと向きを変え、
「娘」
冷ややかな目で見下ろした。
自分に向けて声を掛けられて初めて、なずなは放心状態から復活したようで、ハッと五形を見た。
「貴様、くノ一だな? 藤袴が無意味な殺生をするとは思えない。貴様は、武田と敵対する勢力に仕える忍で、武田に害をなそうとしたところを藤袴に見つかったか、あるいは武田の忍で、裏切ったか何かの理由により粛清されるところであったか、どちらかなのではないか? そこへたまたま居合わせた芹を、何らかの術で惑わし、助けさせようとしたのであろう? 私の芹を巻き込みおって。芹が傷を負わなかったが幸い。命拾いしたな。即刻立ち去るがよい」
なずなは震えている。
「即刻、立ち去れ……? 」
その声も。怯えているわけではなく、明らかに怒りで。
なずなは、立ち上がりつつ暗い目で五形を見据え、
「あなたの言うとおり、わたしはくノ一です。でも、その人を惑わしてなんかないし、大体、そんな術、知らないし、そもそも助けてなんて欲しくなかった。…せっかく……せっかく、死ねると思ったのに……! 」
芹は、せっかく死ねると思った、とのなずなの発言に、そう言えばさっきも死を望むような態度であったことを思い出し、何故そんなに死にたいのか疑問に思った。
それに答えるように、なずなは、自らの過去と、藤袴に殺されそうになるに至った経緯を語った。その話によれば……
なずな10歳のある日、姉と二人で留守番をしていた時のこと。
なずなが家族と共に暮らしていた尾張鷲津砦近くの村が、今川の兵に襲われた。家に踏み込んできた兵に、姉は、なずなの目の前で強姦され、他の兵に犯されそうになったなずなを助けようとして、殺された。運悪く、丁度その時に帰宅した両親も、同じくなずなを護ろうとして命を落とした。
両親を殺してすぐに、ごく僅かしかない家中の金目の物を掻き集め、兵は去って行き、生き残った身寄りの無いなずなは、その後しばらく、近所の人々に養ってもらっていたが、申し訳なさを感じ、村を出た。
家族を自分のせいで死なせておいて自分だけが生きていること自体にも申し訳なさを感じながら、当てどなく彷徨い歩き、力尽きて倒れたところを、なずなは、甲斐信濃二国巫女頭領である望月千代女に拾われ、信州小県郡禰津村古御館に開かれたばかりの、甲斐信濃二国巫女修練道場へ連れて行かれる。
そこは、なずなと同じく孤児となったり、他にも捨て子などとなった少女たち200から300人を集め、呪術や祈祷から忍術、護身術などを教え、諸国を往来出来るよう巫女としての修行も積ませる場所。一人前になると全国各地に送り込まれ、武田のために情報収集を行うのだという。
全く気力の無かったなずなだが、罰が怖くて、毎日の修行に真面目に取り組んだ。
修行は体力的にも精神的にも厳しいものだったが、それによって生きていることの申し訳なさを紛らわすことは出来ず、辛くて、何度も自殺を試みた。しかし、その度に死にきれず発見されては罰を受け、の繰り返し。
だがこの度、修行の最終科目である房術の訓練を行うことになり、姉が強姦される現場を目撃したトラウマから道場を抜け出し逃げたところを、千代女の古くからの友人であり道場の用心棒的存在である藤袴に見つかり、追われ、追いつかれ、また連れ戻されて罰を受けるのかと恐怖したが、同じ罰を受けるのでも脱走の罰は死であると初めて知り、これでやっと死ねると安堵した。
そこを、芹に邪魔されたのだ、と。
(邪魔……。任務のためだけじゃなくて、この子にとっても、オレのしたことは余計だったってことか……)
芹は、怒りを覚えていた。
その隣で五形、
「そうであったか……」
呟き、
「芹のこととなると、私は、どうも短気でな。一方的な思い込みで物を言って、すまなかった」
なずなに向けて頭を下げる。
「娘。詫びと言ってはなんだが、何か私に出来ることがあれば、手を貸そう」
なずなは暫し無言のまま五形を見つめてから、視線をスッと下方へ逸らし、小さく息を吐いて、
「それなら、殺して下さい。これまで何回も自殺をしようとしたけど死にきれなかったのは、きっと、自分でだと加減をしてしまっていたからだと思うので」
「…いい加減に、しろよ……」
芹の目に、怒りから涙が滲む。
声に出したつもりは無かった。なずなと五形の視線が全く同時に自分へと向けられたことで、声に出ていたのだと知り、慌てて口を片手で覆う。
しかし、昂った気持ちまでは抑えきれず、滲んでいただけの涙が、膨らんで重力に耐えられなくなり、粒となって零れ落ちた。
「せ、芹……! ど、どどどうしたのだっ? 腹でも痛むかっ? 」
五形が狼狽えて芹の顔を覗いた。
一粒零れ落ちてしまった涙は、ポロポロポロと止まらない。
「何で……。何でそんなに死にたいんだよ……! 生きてることが申し訳ないなんて、そんなワケあるかよ……! 」
(自分を護るために家族が死ぬなんて、どんだけ愛されてんだ……)
芹は、自らの過去と比較し、愛されているなずなに嫉妬した。
芹の、家族についての記憶は一つしかない。
薄暗い森の中で、5歳の芹の首を鬼のように真っ赤な顔をして泣きながら絞める母親……それだけだ。その時に死なずに済んだのは、たまたま通りかかった五形が、母親から芹を金で買い取ったため。
今にして思えば、母親も自分を殺したくて殺そうとしたわけではないのだろう、だから泣いていたのだろうとも思えるのだが……。
だが、なずなが家族から注がれた愛情とは、やはり差がありすぎる。
そして、その愛情に報いようとしない……どころか、自分が幸せであることに気づいてさえいない様子のなずなに、腹が立った。
「あんたが今、生きてるのは、あんたを護ろうとして死んでいった、父ちゃんや母ちゃんや姉ちゃんの望んだ結果だ! …それなのに……! 生きないことのほうが申し訳ないんじゃないのか……っ? 死んでいった人たちの命を、心を、踏みにじることになるんじゃないのか……っ? 一生懸命に生きることだけが、死んでいった人たちに報いる方法じゃないのかよっ……! 」
興奮した状態で喋り続けたためか、芹は崩れそうになった。
「芹……! 」
五形が咄嗟に支える。
芹、五形に支えられたまま、まだ喋り続ける。
「気づけよ! 自分が幸せだってことに……! 命を捨てるほど愛されるなんて……! オレなんて……オレなんて、母ちゃんに殺されかけたんだぞ! って言うか、五形様に助けてもらえなかったら、本当に殺されてた! 母ちゃんにだぞっ? あんたは当たり前に思ってるかも知れないけど、母ちゃんに、父ちゃんや姉ちゃんにも、愛されることは全然当たり前じゃない! 生きろと望まれることは、当たり前じゃない! オレは家族には望まれなかった! だけど生きる! 五形様が望んでくれてるから! 五形様に報いるために生きる! 」
「…で……? 」
なずなの、突然の冷ややかな声。。
「……っ! 」
芹は、頭のてっぺんから冷水を浴びせられた感じがした。
(で? …って……)
返す言葉も無く固まる芹に向けて、なずなは溜息をひとつ吐き、遠い目をして、もうひとつ、今度は長い溜息に乗せ、
「『一生懸命に生きることだけが、死んでいった人たちに報いる方法』? ……そんな御託は聞き厭きたわ。村の人たちからも、それこそ、朝・昼・夕の挨拶代わりかってくらい、顔を合わせる度に言われた。『ご両親とお姉ちゃんの分まで生きなきゃね』とか」
そこまでで一旦、言葉を切り、視線を俯き加減に変えて、低く暗く重く続ける。
「確かに、わたしは幸せだった。愛されて、幸せだった。でも、もう誰もいない。生きていて申し訳ないと思うのは、護ってくれたことを感謝できない自分だから。『どうして、わたしだけ残して死んだの? 』なんて、恨みにさえ思ってる。
……自分ひとり生き残るより、皆と一緒に死ねたらよかった。自分に生きてくれと望んでくれている相手が、傍で一緒に生きてくれているあなたには分からないわ、こんな孤独。死者が遺した愛は永遠に変わらないけれど、思い出だけじゃ生きられないもの。死んでしまった愛してくれた人たちに対して恥ずかしくない生き方を、ずっと心掛けて生きていけるほど強くない。傍で生きて、恥ずかしいことをしたら叱ってほしい……」
最後は消え入るように言って口を噤んだなずなに、芹は、キュウッと胸を締めつけられた。なずなの負っている傷の深さを感じて……。
五形に甘えて支えられている場合ではないと、芹は、きちんと自分の足で立つ。
自分の言ったことが間違っているとは思わない。だが、なずなの言ったことこそが、なずなの真実。
(…どうすりゃ、いいんだろうな……)
こんなにまで傷ついている人を見るのは、初めてな気がした。
自分も、母に殺されそうになった幼い日の記憶に、散々傷ついてきたが、そんな比ではないと思った。
どうにかして慰めてやりたいと思った。
芹は考え、結果、
「オレが叱ってやるよ」
また冷たい声で何か言われるかもと、少しビクビクしながら切り出し、冷たい声が来ないのを確認後、
「オレが、叱ってやる」
もう一度、今度はしっかりとなずなを見つめ、目に力を込めて、繰り返す。
考えた結果、慰めることは出来ないと思った。ここまで酷く傷ついている人の心を慰めるなど、自分には到底無理だと。
しかし、なずなが今求めているものを与えることなら出来ると、結論を出したのだ。
なずなは、信じられないといった表情で芹を見る。
愛玩動物のあんたが? などと思われたようにも感じたが、気にしないよう努め、芹は続けた。
「オレは、あんたに生きてくれって望む。だから、もう誰もいなくなんかない。あんたはひとりじゃない。孤独なんかじゃない。オレがいる! 」
言い終わりに、なずなの口がこれから言葉を発するように開くのを見、芹は、何を言われるかと緊張する。
だが、なずなが掠れ気味に、聞き取るのが困難なほど小さな声で口にしたのは、
「…どうして……? どうして、会ったばかりのわたしに、生きてくれ、なんて思うの? 」
(どうして、って……)
なずなの口から発せられたのが、ごく普通の質問であったことに、芹はホッとし、同時に困った。
(どうしてって言われても……)
生きていて欲しいから生きてくれと望んだ。それだけだ。結局自分では助けられなかったが、藤袴から助けようとしたのだって、助けたかったからというだけのこと。
(理由なんて……)
それでも考え、何とか辿り着いた答えは、
「だって、あんた、顔が可愛いから」
驚いた様子のなずな。
芹は、すごくくだらないことを言ってしまったと思い、口を押さえ、今度こそ冷たい声が来ると覚悟を決めた。
ところが、そんな芹の目の前で、なずなは、可愛いと言われたことに照れたのか、見る見る顔を赤らめ、再び芹から目を逸らして俯き、
「…ありがと……」
ぶっきらぼうに呟く。
(……あれっ? )
芹は、なずなの態度が和らいだのを感じたため、
「生きて、くれる? 」
恐る恐る聞いてみた。
なずなは、目を逸らしたまま小さく頷いた。
そこへ、
「では、私も叱ろう」
五形が真顔で口を開く。
(五形様……)
芹も驚いたが、なずなも驚いたらしく、照れから立ち直った様子で顔を上げ、五形を見た。
五形は、なずなの視線を受け止め、続ける。
「芹の望みは私の望みだ。私の名は五形。上杉に仕える軒猿が頭領だ」
そして、芹の頭にポンと手を置き、
「こいつは芹。私の大切な奴だ。娘、お前の名は? 」
「…あ、はい……。なずなと申します」
五形、確認したように頷き、
「なずな、行く当てが無いのであろう? 私の芹を苛めないと約束できるのであれば、私たちと共に春日山で暮らすがよい」
「…え、あの……。でも……」
なずなは途惑っている様子。
しかし五形は、事も無げに、
「迷う事では無かろう。傍にいなくては叱れぬ」
言うと、なずなの返事も待たず、
「では、行くとしよう」
春日山方向へ踏み出した。
進むスピードを徐々に上げていく五形。
芹は、その背中を追いかけ、
「五形様っ! 」
声の届くところまで追いついて、
「ありがとうございますっ! 」
五形は、顔だけ振り返り、フッと甘く笑った。