チーレムものへの拒絶反応は小説の定義のための戦いである
自分でも随分大袈裟なタイトルにしてしまったなあと思っております。
例えば、自分の中に何か表現したいものが生まれたとしましょう。
きっかけは何でもいい。表現したいと思えることは幸せです。
では、それをどうやって表現するか。
方法は色々あります。絵、音楽、小説、詩、などなど。それぞれに長所と短所があるでしょう。
小説は本質的に、心理や情景の細かい描写に向いた媒体だと考えます。マンガやアニメでは一つのシーンに収められてしまうものでも、小説ならその登場人物の心理や情景についてたっぷりと描写することができる。
では、チーレムものと揶揄されるような作品はどうか。
何故揶揄されるのか。
おそらく、そもそもたっぷりと描写する余地がない設定のものが多い、そして実際にされていないのではないか。
つまり、小説にするよりマンガやアニメのほうが向いているのではないか?
小説という形で表現する必要性。
それが、絶え間なく起こる論争において否定派と肯定派を分かつテーマなのではないかと思います。
これは自分の勝手な思い込みですが、テンプレものやチーレムものの作品の中には、もし最初からアニメやマンガで作れる環境や立場にいたなら、そっちで作っているだろうなと思ってしまうものが結構あります。それがないから、無料で、特に技術がなくても世界を構築できるなろうを利用している。でも、小説だからこそできる表現や描写をあまり用いていない。
なろうでしばしば起こる論争は、映像やゲームの代替物としての文章と、小説でなければ表現できないものとの対立の構図。
国内最大の小説投稿サイトという枠の中で、小説という定義を賭けた陣取り合戦なのではないかと。