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突如、一ノ瀬がきびすを返したのだ。そして走ってまた窓の右端、視界の右端に消えてしまう。何事かと腰を浮かせようとした僕の目に、彼が映った。
一目でそうと解った。彼の言っていた先生、教祖様だ。格闘技の試合の入場の時のような歩き方で左側から右側へ、つまり一ノ瀬が消えて行った方へと歩いていく。
目は細く、しかしその奥の瞳が潤んでいるのがわかる。ガラス玉を思い起こさせるその瞳は一ノ瀬を捉えているのだろう。
丸顔で坊主頭、髭を生やしていて年を感じさせる風貌だった。そして意外な事にスーツを着ていた。ポールスミスだ。筋肉質な彼が着るとやはり挌闘家を思い起こさせる。
ローブでも着て憔悴しきった眼を光らせている髭もじゃを漠然と想像していた僕は自信のあったテストを赤点で返された時のような気持ちになる。一ノ瀬の言動は少なくとも四分の三は彼の誇張だと、これもまた漠然と考えていたけれども、おそらくその四分の三は素直な彼の反応だろう。直接の暴力があったのかどうかは知る由も無いが、そういう暴力的な威圧があるのは確かだ。
彼に気取られないように様子を見ながら会計を済ませ外に出る。
見ると一ノ瀬の姿はもう無く、教祖様は車に乗り込んでエンジンをかける所だった。ベンツのフロントガラスの向こうで狩りに行くかのように瞳をぎらつかせている。
ベンツ、か。
昔程事実上の高級車では無くなっているのは確かだけれど資産の象徴である事に変わりは無い。噂が風邪よりも早く広まるこの田舎町だ、そのイメージは尚更だろう。
どうやら彼の信じるオーディンは戦乙女の引く馬車よりもベンツに乗って運ばれてくる魂を好むらしいな。
そんな皮肉を考える事で、さてどうしたものか、と焦っている気持ちを落ち着けていると携帯が鳴った。
「もしもし。」
「拓、どうしよう、先生に見付かった、浄化されるかもしれない。」
一ノ瀬だった。浄化?浄化って何だ?
「今何処にいる?」
「クヌギ丘(近くの丘)の公園だ、どうしよう、どうしよう」
「すぐ行く。待っててくれ。」
「助かるよ、助けてくれよ、浄化されるかもしれない、先生は僕の事、」
僕は携帯を耳に当てながら走り出す。クヌギ丘まではここからどれくらいだ?道順はわかる。子供の頃よく遊んだ場所だ。でも当時の距離感はあてにならない。走って行く、なんて無謀な事が出来る距離か?しかし、一ノ瀬が待っている。急がなければならない。
「悪い、一ノ瀬」走りながらなので向こうの声もがたがたとぐらつくし、こっちの声もがたがたとぐらつく「急いでいく。走ってるんだ、携帯は一旦切る。(切っていいか?とお伺いを立てるのでは無く、切る、と断言する。彼の気持ちは不安定になるかもしれないが今はそれよりも急いで彼と合流する方が先だ。)」
「・・・わかった。急いで来てくれよ」
そして携帯をオフにする。彼が先か僕が先かはわからなかったが、沈黙したそれをポケットにおさめる。
丘までの半分ぐらいの所で早くも息が切れ出す。ジャージでも無いので汗でズボンが張り付いて走りにくい。走るってこんなに大変だったか?こんなに遅かったか?こんなに進まなかったか?この道をよく歩いた子供の頃はもっと楽に走り抜けてた気がする。
少し歩く。駄目だ、とてもじゃないが走り切れない。それでも焦りは早足にさせたし、呼吸もなかなかおさまらなかった。
それに息が荒くなった事で頭に酸素が行かなくなったのか、思考が回らなくなる。先生は今何処だ?これからどうすればいい?浄化ってなんだ?浮かんでは消えていく疑問に答えはおろかヒントを思い付こうとする気さえ起こらずにその疑問が消えゆくままに放置する。今は彼の所へ行くのが最優先だ。
また走り出す。自然とペースがおさえられる。仕方ない、僕はマラソン選手じゃない。
次の角を曲がれば公園、という所になって心臓がどきどき言い出す。今までももちろんランニングでどきどきはしていたが、それとは違った種類の鼓動が始まりさらに心臓を高鳴らせる。
その鼓動に気付かされる。今は状況が変わっているのだ、先生にしても、一ノ瀬にしても。ここでの判断がこの先の未来を大きく変える可能性は高い。少なくとも今までとまったく一緒、には戻らないし戻れない。
角を曲がる。公園が見える。駐車場、隅にある電話ボックス、そうか、一ノ瀬は公衆電話を使ったのか、人の気配は無い。電話ボックスの側にある自転車、そして駐車場に駐まっているベンツ。
駐まっているベンツ。
その後ろに飾られているナンバープレートが誇らしげに自分に割り与えられた数字を示しているが、ファミレスで車を見た時にわざわざ番号なんて覚えなかった。覚えておけばよかった、もし同じような状況にめぐり逢う事があったらそうしよう、もしも同じような状況に今後めぐり逢うような事があれば。もしも。




