Game2 男子高校生連続飛降り事件(伍)
◆
おかしい、おかしい、おかしい。
椿幸一は、思う。
そんなはずはない、と。
自分のすぐ足もとに転がっているその男が、フブキとよんでいたその女は、たしかについさっき、そのフェンスの上から、まっさかさまに落ちて行った。
いや、それ以前に、それ以前にあいつは、ヨシノに撃たせた拳銃の弾が命中していたはずだ。
なのに、それなのに、どうしてあいつは。
ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ
いつしか、土砂降りの雨が屋上の床を叩いていた。
激しい雨の音にまぎれて、日常では聞き慣れないエンジン音。
一歩、また一歩と後ずさる椿幸一に向って、一歩、また一歩と歩みを進める少女風吹
脇腹の部分に穴が空いた薄紅梅のレザージャケット。
前髪が一直線に切りそろえられたマッシュルームカット。
レンズが粉々に割れて、縁だけになってしまったメガネ。
フロントが開け放たれたジャケットから、血に染まったドレスシャツが覗く。
膝上30センチの超ミニスカートから伸びる病的に白い絶対領域。
黒のニーハイソックスをそのまま延長したかような、高下駄じみた20センチの厚底靴。
その手には、真っ赤なガイドバーのチェーン・ソーが凶悪なエンジン音を立てている。
全身血濡れの女、風吹は、確かに屋上に立っていた。
「いやあ、昼間はあっさりやられちゃってごめんねー。なんせ身体能力強化系とは殺り合ったことあるんだけどさ。
あんたみたいなトリッキーなのとはやったことなくって。ハッキリ言って油断してたよ、まいったなーこりゃ!
あ、でも大丈夫、私別に油断してなかったら勝てたのにー! なんてみっともないこと言いたいんじゃないよ。ありゃあんたの勝ち! 殺し合いなんて一期一会だもん。あんたの能力に驚かされて、どうしようもなかった私の方が、あんたより弱かっただけの話だよー。だから胸張っていいよ! 私ってこの通りどこからどう見ても華奢な女の子で、いかにも守ってあげたいーって感じだけど、こう見えて結構強いから。その強い私にあんたは一度でも勝った! だからそれは誇っていいことなんだ! でもね……」
「『今』『すぐ』『その』『チェーン・ソー』『で』『自分』『の』『首』『を』『落とせ』!!」
椿は、風吹が言い終わるのを待たず、自らの異能を飛ばす。
椿の異能の正体は、言葉。
自分の発した音に力を乗せ、その音を対象とした者の脳へと直接命令として叩きこむ。
そも人間の体は、脳からの命令にその機能の全てを支配されている。
それは本人が自らの意思で動かす手足や、心臓など本人の意思とは不随意的に動作する機関も含め、すべてだ。
その脳に直接命令を叩きこむことにより、椿幸一は対称の体を自由に操ることができる。
椿の能力が見せる“ソレ”と呼ばれる存在は、そのものが実態を持つ能力ではなく、椿の異能の象徴にすぎない。
あるいは、脳が不正な命令を検出したため顕現したバグとでも表現すればいいのだろうか。
椿の異能のタネをもし事前に知っていたとしても、その攻撃を防ぐことは、生身の人間には、まずもって不可能だ。
椿の異能について、もっとも恐るべき要素は、その能力の内容そのものではなく、その速さと範囲にある。
音の速さは湿度や大気中の分子量によって変化するものの、標準大気中においては、秒速にしておよそ340mの速さで伝わる振動の波。
世界でもっとも使用されている銃弾、9mmパラベラム弾の速度が秒速355mであることから、拳銃の銃弾よりはわずかに速度が劣る。
そこで、椿の異能が“音”による攻撃であることにより、もう一つの要素、範囲が加わる。
前述の通り、音の正体は振動の波。
音による攻撃はその発音源から波状に広がる全方位攻撃となる。
すなわち、椿による攻撃は、文字通り音速で襲いかかる、射程内においては一切の間隙のない、回避不能の絶対攻撃。
ゆえに、風吹は椿の、この攻撃を回避することは出来ず、次の瞬間には、手にしたそのチェーン・ソーで、首を落とすだろうーー。
本来ならば、だ。
◆
「……にあんたは一度でも勝った!だからそれは誇っていいことなんだ!」
なんて、気持ちよく私が喋ってるっていうのに。
怯えた表情を浮かべる貧弱坊主くん(仮)の全身の筋肉が、声を出す兆候を示す。
女の子が喋ってる最中はだまって聞いとけって、習わなかったんだろうか。
ま、とにかくこいつの攻撃が言葉によるもんだってことは、なんとなく分かってる。
でも肝心の防ぎ方があんま分かりゃしない。
耳ふさいでも、多分言葉って聞こえてくるよねえ。
どうしよっか。まあ、でも、迷ってるうちに喋られたらまたわけわかんなくなっちゃうし、イライラするだけだから、とりあえず、
音、消してみるかあ。
思考している間にも、貧弱坊主くんの口が動きだす。
私は、すかさず目の前を、フルアクセルのチェーン・ソーで薙ぎ払った。
強烈な摩擦音を伴って、水飛沫を上げ空間が散る。
足もとに、今日半日ずぅっと私に付きまとっていたお札びっしり(仮)の上半身が、どちゃ、とぶちまけられた。
それから、せっかく思いついた決めゼリフを忘れちゃう前に、私は言った。
「でもね。……今度はあんたが驚く番だよ」
◆
ーー絶句、とはこういう状況を指すのだろう。
暴風一閃。風吹が得物を薙いだ衝撃が、降りしきる雨をも裂いて吹きすさぶ風となり、椿の薄皮を刻む。
風圧で、足もとに倒れていた男が、ゴロゴロと床を転がった。
椿は、今目の前で起こった現象が、全く理解出来ない。
確かに自分は、あの女に絶対に避けることができない絶望的な死を命じたはずだ。
なのに、にも関わらず。
どうして自分のチカラが、一刀両断に転がされているのか。
そもそもあの女がいつあの凶悪な得物を振り回したのか、それすら見えなかった。
椿は混乱する。まず、どうして言葉による自分の攻撃を、チェーン・ソーで防ぐことができたのか。
今自分の目の前にいる女は、あの細腕で、しかも片手一本で、チェーン・ソーをヌンチャクの型よろしく、軽々振り回している。
椿は紛れもなく、恐怖していた。
目の前の敵が、どのようにして自分の攻撃を防ぎえたのかが分からない。
わからない以上は、迂闊に手出しをすることもできない。
土砂降りの雨に打たれていても、自分の背中に、雨以外のいやなものが伝うのが分かる。
風吹がいかにして椿幸一の攻撃を無効化しえたのか。
それを椿幸一が理解することができないのは、仕方のないことだった。
椿の異能は、言葉であり、言葉とは音だ。そして、音とは空気中の振動に他ならない。
たとえば、太鼓を叩くと太鼓の皮がへこみその表面の空気が薄くなる。
しかし次の瞬間皮が跳ね返って今度は空気が押されて濃くなる。
これを繰り返し空気の濃淡が伝播すると音が生まれる。
つまり、空気、あるいは運動する粒子が存在しないあるいはその密度が粗い空間には、音は生まれない。これが真空だ。
真空中では気体分子の密度が低いため音源の振動を十分に伝えられなくなる。
なんのことはない。要は、風吹の一閃が文字通り空をも裂き、音の波を防ぐ真空の壁を瞬間的に作り出したというだけの話。
結局のところたった一度の攻防ではっきりと分かったことは、風吹のチェーン・ソーが、椿幸一の攻撃――音速――をはるかに超えるというその事実。
「いったいあなた何なんです? ていうか、まずそんな物騒なモノ、いったいどこから持ってきたんですか?」
あからさま狼狽える椿幸一とは対象的に、風吹はあっけらかんと答える。
「えー、ずっと持ってたよー。でっかいケース持ってたでしょー? さっきそこから落っこちたときに、壊れちゃってないか、心配だったんだよー。まあケースは壊れちゃったけど、中味が無事でよかった」
頭おかしいのか……こいつっ! 椿幸一は、そう思わずにはいられなかった。
同時に、強烈な恐怖に見舞われる。
目の前の敵は、自分の理解を超えている。
「そうです。あなたはついさっき、拳銃で撃たれて、しかもこの屋上から落ちた。あなたを撃った銃はたぶん錯乱したヨシノが、1階でノびてた警官から奪ったものですよね。テレビで見ただけだから俺も詳しくは知らないけど、日本の警察の銃は小口径だから、殺傷能力はそんなに強くないって聞いたことがあります。でも、そのあとあなた落ちましたよね? ここから地面までは少なく見積もっても20mは下らない。それなのに、なんでその高さから落ちて、なんでそんなピンピンしているんですか?」
口を動かしながらも、椿幸一は、ジリ、と後ずさる。
今の距離で駄目なのであれば、もっと近づかなければ。
18m先から投げ放たれた球よりも、1m先から投げられた球の方が、体感速度は速い。
距離を、詰めなければならない。椿はそれを、頭では理解している。
だが、しかし、近づくのか、近づけるのか、あいつに。
「いやー、撃たれたよ。それに落ちた。あんたのチカラはすごいね。
私、精一杯抗ったんだけどさ、体がゆうこと聞かない、おまけに意識までぼぅっとしてくるのね。
だから記憶は飛び飛びだし、落ちるときに受け身の一つもとれやしなかったよ。普段ならこれぐらいの高さから着地することぐらい、平気で出来るんだけどさ。
だから、思いっきり首から落ちた。完全に首の骨折れたね。アバラは3番と5番がイっちゃうし、腕なんか折れ曲がって昆虫みたいになっちゃってすっごいキモかったよ。曲がってくっついちゃうと大変だから、まっすぐに直すのすっごい痛くて、まいっちゃったよ。
それに銃弾。撃たれたのはさすがにはじめてだったけど、あれ痛いっていうより熱いんだね。もうほんと、フルボッコにされた感マックスって感じだよ」
風吹のインナーは、雨ににじんだ血で真っ赤に染まっていた。その量からうかがい知るに、風吹は確かにここから落ちたのだろう、と椿は思う。
嘘を言っているとは思えない。だがしかし、それならどうして今この場に風吹がいるのかを、説明する術を、椿は探していた。
そして、椿はふと思い当る。
自分は今まで“プレイヤー”戦を経験したことがない。それに先ほど、この女は身体強化系の“プレイヤー”とは戦ったことがあると、そう言っていた。
だからまだ自分以外の“プレイヤー”が持つ異能にはどんな種類のものがあるのか、それがまったく分からない。
つまり、この女の能力は、異常回復の類のものではないのかと推察する。
考えだすと、冷や汗が止まらなかった。
異常回復の類ならまだいい。もしも、だ。この女の異能が不死なんて人間の規格外のものであったとすれば、どうすればいい?
動きを封じた上で、海にでも沈めればいいのか。あるいは、奴自身のチェーン・ソーでバラバラに解体してみるか……。できるのか? 自分に。
ぐるぐると思考が巡る。椿自身は、自分を快楽殺人者の類とは異なると考えていた。
事実、彼は殺しをよしとはしていない。ただ、椿にはどうしても“ゲーム”に勝って、叶えたい願いがあった。その願いのために、他の“プレイヤー”を排除せざるを得なかった。
サトウ、コンドウ、イノウエ、ヨシノを始末することは、正当な復讐であるという自分なりの理由はあったものの、“ゲーム”に積極的に参加し、他の“プレイヤー”を排除することには、抵抗もある。そんな自分に、できるのか。動きを止めて運び出すにしろ、別の方法を使うにしろ、目撃者をださずに成し遂げることが可能か? ヨシノの死体が既に発見されて、通報されていたら? 今にも警官がこの学校になだれ込む可能性は? いやまずそれ以前に、目の前の化け物然としたこの女を、自分は抑え込むことができるのだろうか。
椿の考えは、まるでまとまらない。じりじりと下がり続けていた踵が、ついに屋上の壁に当たった。
「ほんと、大したもんだよ。私を一回でも殺すなんて。それじゃあ体も温まってきたことだし、そろそろ始めようか」
風吹の上体が沈む。目の前の標的に跳びかかかる前の初動として、地面に片足を踏み込む。
--ズ、と、屋上にできた水たまりが、一斉に波紋を描く。
来る、と。椿は両足を肩幅に開いた。
椿はすでに理解している。目の前の怪物は、どう考えたって自分より速い。
しかし体が怪物に恐れをなして下がっていたことで、両者の距離は8mと開いていた。
至近距離なら、怪物のスピードについていくことは到底不可能だ。けれど、この距離ならば、音の振動速度 の方が、速い。
それなら、取るべき戦略はひとつ。ーーーー先手必勝!
「『 』」
椿の声帯が、大気を振動させんとしたそのとき、風吹が水たまりを爆散させて飛び出した。
残像さえかすむ速度で、廻りながら踊りながら、暴風を孕んだ一閃を薙ぐ。
たった一足、その間0.3秒。バレエのように優雅に、高速で動きまわる独楽のように、風吹の踏み込みは800cmの距離を、0にした。
その初撃を椿が避けることができたのは、マウンドで培った勝負勘ゆえ。
咄嗟にしゃがみ込んだ椿の頭上を、死の風が通り抜ける。
火花を散らし、豆腐のように切り裂かれた緑のフェンスが、夜に消えていく。
しゃがみ込んだ体勢から、右側に跳び退き、着地すると同時に口を開らいた椿の眼前には、靴底があった。
二撃目を避けれたのは単なる幸運。着地時、濡れた床に足が滑り、斜めにバランスを崩した上体を芸術的な脚刀が襲った。
わずかに横にそれた蹴足は、それでも椿の頬の骨を砕く。
風吹自身、その一撃が外れることを想定していたわけではない。それでも、彼女は直撃しなかった蹴足の遠心力のまま、独楽のように体を一回転させ、得物を振りかぶる。
体勢を立て直してから、などと悠長なことをいうなら、真っ二つにされることは間違いない。血しぶきをあげながら2つに分かれる自分の体を、椿は想像する。……っ……クソっ!
「『死ね』!」
頬骨を砕かれ、後ろに倒れながら放たれる攻撃を、風吹はゴルフクラブをスイングするように、錐揉み上に体を回転させ、最短距離でチェーン・ソーを振り抜く。
振り下ろす動作では間に合わないという判断。しかしそれでも、得物のアギトは倒れ込む椿の左膝をかすめた。
「あ、が――!」
膝から走る鋭い痛みが、椿を襲う。制服のズボンが裂け、肉片が散る。
それでも、動きを止めるわけにはいかない。止まったらその瞬間に■■。
死への恐怖か、願いへの渇望か。後ろに倒れ込む反動で、残る右足に全身の力を込め、後方に跳びのくと同時に、椿は声帯を震わせる。
「遅すぎだよ」
顎がピンポン玉のように跳ね上げられた。喉から火かき棒が出てくるんじゃないかというほど熱い塊が、喉を通り抜けて噴き出した。
全身を稲妻のように駆け巡る痛みに、椿の意識が1秒飛んだ。
背中を打ちつける衝撃に、意識を取り戻した椿の肺から、かは、と熱い息が吐き出された。
口の中に広がる鉄の味、動かない顎。椿は自分の負けを悟り、
ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ
数秒のちには自分の首を、肉をすりつぶしてたたき落とす圧倒的な死の気配に恐怖した。
「顎、砕けてるでしょ。これでもうあんたは喋れない」
「――――――、あ」
死にたくない、助けてくれ、と。
椿の両目が恐怖を訴える。
死ぬわけにはいかない。自分には叶えなければならない、願いがある。
そのためなら殺しだって、得体のしれない“ハコ”に頼ることだって、なんでもやってやる、と。
だから、まだ死にたくない。
「今度は、あたしの勝ちだ。それじゃあね」
バイバイ、と、風吹はチェーン・ソーのアクセルを絞った。