Game2 男子高校生連続飛降り事件(肆)
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呟かれた言葉が、頭の中をグルグル廻る。
たとえるならそう、耳から入り込んだ毒が血管を這いずり回り、脳みそをかき混ぜるような。
その毒が、一滴ずつ耳に注ぎ込まれていく。
――死ね。
――死ね。死ね。
――まるでうわごとのように、耳元で、抑揚なく、ボソボソと、擦り込むように、ゼリー状の毒が、耳の中をジュルジュルと犯すように、際限なく、いつまでも、ずっと、腫れあがった膿溜りがグジュグジュ脳みそにできあがっていくような、めまいがする、ぐらぐらする、逃げたい、ああ、ここから逃げ出したい、吐き気がこみ上げて、目玉がとびだしそうな、首が痒くて、ブツブツと間隙なく吹き出物が湧き出すような、逃げ出してしまいたい、生きることから、逃げて、死んでしまいたい、死ななければ、うつろな目を、屋上に向け、歯茎から膿が噴き出るような、死ななければ、闇に浮かぶ白い肌、風に揺れる短い髪の毛、触れなくとも柔らかいことが分かるような滑らかな頬、少しとがった薄い唇、ジャケットを着ていてもわかる後ろから抱きしめたくなるような細い腰、半ぶちメガネの奥からここではないどこかを見すえる目、寂しさをたたえた目――。
「風吹――ッ!!」
気づいた時には、僕は屋上であおむけに倒れ、上下逆さまの風吹を見ていた。
そんな僕の顔を、誰かが覗きこむ。
遠目から見れば、いや、近くで見ても女性と見紛うような美少年が、僕を見て目を丸くしていた。
「へぇ、驚きました。今のでまだ帰ってこれたんですね。結構強い言葉を使ったつもりだったのに」
耳元では相変わらず、急かすでもない叫ぶでもない、まるで真綿でギリギリ首を絞めるような、死ね死ねという声が続いている。
そのせいで、目の前でしゃべっているはずの幸一の声が聞き取りにくい。
耳に水が入っているときに聞こえる音のような、そんな感覚。
――発見された男子生徒の遺体の耳には耳栓。その上からヘッドホンをつけて音楽を楽しんでたらしい。――
小梅さんの言ってたのは、こういうことか。
飛び降りた四人のうちヘッドホンをしてた奴は、この『声』から逃げようとしてたんだ。
「かぇって? ぉまぇ、なにぉした?」
音が聞き取りにくくて、自分がどれだけの声量で話しているのかが全く分からない。
自分の声があちこちに反響して、死ねというノイズまじりに、見当違いの方向から聞こえる奇妙な感覚。
「うわ、しかもまだ僕の声が聞こえるんだ。
やっぱり、普通の人間と比べて、相手も“プレイヤー”だと、多少俺のチカラも効きが悪いのかな」
そういいながら、幸一は大袈裟に驚いてみせた。
うーんと、人差し指で眉間をトントンと叩きながら悩んでいる。
そして僕の顔をのぞき込み、あっとなにかに気づいた表情を浮かべると、ペコリと頭を下げた。
「目上の方に会ったら、まず挨拶でした。失礼しました。
改めてこんばんは、“偽”刑事さん」
耳元の声が五月蝿い。めまいで視界がぐにゃぐにゃ曲がる。
幸一は、ニコニコとほほ笑みながら、僕の顔を覗き込んでいた。
起き上がって、手をついて、力の入らない全身に鞭をうちながら、下手糞な操者のマリオネットのように、ぎこちなく立ち上がる。
「いや、嘘をついていたのは謝るよ。
だから失礼はお互い様だな、“椿”幸一君」
僕がそう言うと、椿幸一、ーー飛び降りた4人にいじめを受けていた被害者、そして今回の事件の紛れもない加害者は、嫌味のない笑顔でニッコリと笑った。
「お互い、バレバレだったんですね。
やっぱりなれないことはするもんじゃあないなあ……」
そういいながら、椿幸一は照れくさそうに頭をポリポリ掻いた。
「どうしてだ?」
その問いかけに対して、椿幸一はクスっと吐息交じりに笑う。
「どうしてって、偽刑事さんが“プレイヤー”だって気づいたことですか?
いや、本当に重ね重ね失礼で申し訳ないんですけれど、今夜は偽刑事のあとをずっと着けさせてもらいました。
偽刑事さんが偽刑事さんだってことは割とすぐ気付きましたよ。まず、初めに出した手帳、校門前のコンビニで売ってたやつじゃないですか」
耳元で延々と怨嗟を垂れ流されながら、僕は我ながらアホをさらしたものだと自嘲気味に笑ってしまった。
「もっとも、始めてあなたを見た瞬間から直感はあったんですけれどね。ほら、“ゲーム”のプレイヤー同士はお互いに引き合うって、“ハコ”が説明してたじゃないですか。でも、偽刑事さんが“プレイヤー”だって気づいたのは、ほんと、ついさっきですよ。
偽刑事さんが、ヨシノ先輩の家の前で張ってるときにはまだ確信してませんでした」
そう、この“ゲーム”に参加するプレイヤー同士は、クソッタレな“ハコ”の力で引き合う。
逃げたって逃げられないのは、そういう理由だ。“ゲーム”が無制限に続くものとならないように、“ハコ”の力でどうせ最後には見つかってしまう。
もっとも、僕は“ハコ”そのものに受けたルール説明は覚えていない。だからこの知識は、あとから小梅さんによって説明されたものだ。
耳鳴りのような、死ねという声がやまない。思わず右耳を押さえ、膝を折る僕を見下しながら、椿幸一は言葉を続ける。
「でもね、偽刑事さん、ヨシノ先輩が家からでてきたとき、明らかに様子がおかしかった。
それでやっとピンときたんです。ああ、この人は見えてるんだぁって。見えてるんでしょ、ソレ」
そう言うと、椿幸一は僕の右肩を指さした。
人間っていうのは、指をさされると、反射的にその方向を向いてしまう。
そして僕は、見てしまった。
僕の額と、ソレの額がくっつくほどの距離で、
真っ赤な着物のソレが、
顔面いっぱいにお札を張り付けられたソレが、
この距離だから分かる、
顔の筋肉を一切動かさずに、
ゆっくりゆっくりスローモーションに、
頭を360度回しながら。
――シシシシシッシシシシシネネネシネシッシッシシネネネネネネネシネシネシシシシネシネシシシシシッシシシシシネネネシネシッシッシシネネネネネネネシネシネシシシシネシネ――
耳から頭に向かって、ニキビから噴き出す膿を注ぎ込むように、死ねとつぶやき続ける。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
思わず尻もちをついて、両手両脚を使いながら左へと飛びのいた。
けれど、逃げられない。ソレは僕の背中にぴったりとへばり付き、僕が移動するのに合わせて移動してくる。
至近距離でソレと向き合っていることにヒッと短く悲鳴をあげて、同時に失策に気づいた。
僕が向いている方向は、椿幸一が入ってきた方向、つまり校舎の入り口方向だ。
そして、風吹がいる方向は僕から見て右斜め後ろ。
つまり、左に飛びのいてしまったことで、風吹への距離がより遠くなった。
相変わらず風吹は遠くを見つめながら、フェンスの上に突っ立っている。
そんな僕の様子を見ながら椿幸一は腹を抱え、声をあげて笑う。
片手で腹を抱え、右手はポケットに手を突っ込んで、ゆうゆうと、勝者の笑みを浮かべて歩み寄る。
僕の後ろで、もうすでに耳には死を強要する声しか届いていないであろうヨシノが、椿幸一の姿をとらえたのか、もはや言葉にすらなっていない叫び声をあげる。
チャキっと、撃鉄をあげる音がした。
一瞬僕でははく、ヨシノがいるだろう方向をみた椿幸一は、顔色一つ変えないまま、
「『お前』『は』『動く』『な』」
と告げる。思わずヨシノの方を見る。
ヨシノは拳銃を構えたまま、よだれと涙と鼻水のカクテルで顔を汚して、白目をむいたまま痙攣していた。
ヨシノには、もう何が起こっているのかわからないだろう。
けれど、僕には見える。見えてしまう。
今までヨシノの背中にピッタリ張り付いていたソレの体が蛇のように細長く変化し、ヨシノを絞め殺さん勢いで、ギチギチと全身の関節を締めあげていた。
「ああ、でもやっぱり見えてるんですね。これで確定です。あなたは“プレイヤー”で、僕の敵だ。
こういうときソレの、見かけは役に立ちますね。どう見ても異常な見た目だから、見えてる人は明らかに反応で分かっちゃう。
“プレイヤー”とやりあうのは今日が初めてですけれど、この“ゲーム”のルールは、どうやら僕に有利な内容みたいだ」
落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け!!
自分に言い聞かす。北高にたどり着く前と同じように、自分の膝を拳で何度も叩く。
その間も、ソレはずっと僕に向かって怨嗟の声を挙げ続けていた。
ここでパニックになってもなにも変わらない。
今までの事件の内容から察するなら、このままだと確実に死ぬ。
現に今も、死にたい気持ちが止まらない。
耳から注ぎ込まれる声が、僕に生き残る術を考えることを、強制的に放棄させようとしている。
逃げてしまえば楽になる。
逃げてしまえばこんな恐ろしい思いはしなくてもいい。
そんな気持ちが、頭の中から湧き上がってくる。
いっそあの緑のフェンスをぶち破って、空へ飛んだら、もうこんな思いはしなくてもいいんじゃないか。
けど、でも、それじゃあ。
「椿幸一、お前、風吹にも? あの女にも同じチカラを?」
「そうです。僕はいつも、一人ぼっちになれる場所を探して食事をするんですけど、今日の昼休みに裏門の死角になるところでご飯食べてたら、あの人、はじめから俺が“プレイヤー”だって分かった上で掴み掛かってきたから、正直ビビりました。
俺は運動部員の中では腕力が強いほうじゃないけど、それでも結構必死で鍛えてるんです。
それなのに片手一本で僕を宙釣りですよ。あんな細い腕で。
サトウやコンドウやイノウエや、そこでみっともなく小便を漏らしてるヨシノにバットで殴られたときももちろん怖かったですけど、生命の危険っていうのを感じたのは、生まれてはじめてでした。
だから思わずチカラを使って、今すぐ死ねって言ったんですけどね。この時間にもまだ生きてて、まだあそこに立ってるなんてびっくりだ」
僕は、椿幸一が言い終わるのもまたず、殴りかかった。
ぶん殴る。こいつはぶん殴る!
「『お前』『も』『動く』『な』」
けれど、その拳は椿幸一には届かなかった。
耳を犯していた声が消えたと同時に、ジュルリと音をたてて何かが体を這うような刹那の感覚。
気づいた時には、僕の全関節を粉々に砕かん勢いで、ソレが僕の体を締め上げている。
動けなくなった僕の体を、椿幸一はドン、と僕の体を押した。
ちょうど風吹とヨシノが見えるように、不自然な体制で僕の体が床に叩きつけられる。
受け身一つとれない状態で肩とわき腹を強打し、全身が空気を吐きだそうとするが、もはやそれすらもままならず、外に逃すことができなかった衝撃の全てが、体の内側を駆け巡った。
ちょっと転ばされただけなのに、意識が飛びそうだ……!?
「なんだかよくわかりませんけれど、よっぽどそのフブキって人が大事なんですね。
大事なものが他人に傷つけられる気持ち、僕にもよくわかります。
……でも、ごめんなさい。僕はこの“ゲーム”に勝って、どうしても叶えたいことがあるんです。
あなたも、フブキさんも、この“ゲーム”の“プレイヤー”ですよね?
なら、僕はあなたたちに負けるわけにはいきません。見逃すこともできません。
恨まれても、仕方ないと思います。あなたたちにだってきっと、叶えたい願いがあるんだと思う。
奪うものが恨まれるのは、当たり前だとも思います。だから、僕は生ぬるいことはしません。
全力で、あなたたちを折らせてもらいます」
そう言うと、椿幸一は、ゆっくりとした足取りでヨシノに歩み寄る。
彼はヨシノの体の向きを無理やりかえ――やめろ――
まっすぐと、風吹の方を指さして――やめろ――
横顔を僕に見せながら――やめろ――
口の動きがわかるように――やめろ――
「『あそこ』『を』『撃て』」
パン。
と、乾いた音が屋上に響いた。
月明かりの下で、風吹が、華奢な体をぐねらせる
薄紅梅のレザージャケットに、赤いの華が咲く
緑のフェンスが嫌な音をたてて軋む
ゆっくりと風吹の膝が崩れ落ちる
ぐらりと倒れ込む風吹の顔が、こちらを向いて
半ブチめがねの奥、墨を落としたようにまっ黒な瞳が
屋上の床に四肢を投げ出す僕を射抜くように見ていた気がして
そのまま、風吹の体は、校舎の影へと消えていった
ぐしゃ。
と、僕の耳は確かに骨が砕ける音を聞いた。
ポツ、ポツ、ポツ――と。
大粒の、雨が降ってきた。
雨の中で椿幸一は乾いた笑いをあげていた。
「『お前』『も』『飛べ』」
彼はヨシノへそう告げる。
ヨシノは、ガクガク膝を笑わせながら、できの悪い二足歩行ロボットのような動きでフェンスに向かって歩き、フェンスをよじ登ったあと、そのままフェンスの向こうへ姿を消した。
嫌な音がもう一度耳に届く。
けれど、もう、そんなことどうだってよかった。
もう、いいやって、ほんと、心からそう思った。
椿幸一は、また悠然と、僕の方へ歩み寄ってきた。
奴の服も、頭も、顔も、勢いを増す雨に濡れていた。
水滴が流れ落ちる顔で、椿幸一は張り付いたような笑顔を浮かべている。
まるで、僕にまとわりつくソレに張り付いたお札みたいに。
「ごめんなさい。でも、許してくださいなんていいません。
許されないことを、したって思ってます。でもそれでも、僕には叶えたい願いがあるんです」
それだけ言ってしばらく、椿幸一は黙り込んでいた。
一分にも満たない沈黙のあと、椿幸一は早くも水たまりができている屋上の床に膝をつき、掌でそっと僕の眼を塞ぐ。
タコだらけの、分厚い手だなあ、と思った。この手は、ずうっと努力を重ねてきた手だと、目に入った瞬間にわかった。
耳に奴の吐息がかかる。
終わったなーと、僕はのんきに考えていた。
心残りはといえば、風吹のことぐらいだけれど、それだって風吹のいない今もう叶わない。
それなら、別に抵抗する理由もない。動けないから、できないけど。
だって、元々僕は――。
「『今』」
耳に聞こえるのは雨の音。
「『すぐ』」
耳に聞こえるのは風の音。
そのあとはもう何も聞こえなくなるんだろう。
絶え間なくつづく怨嗟の声が、僕が最後に聞く音だ。
「『に』」
それなら、最後に雨の音や風の音や、腹の底を振動させるようなエンジン音を耳に残しておこう。
そして僕は、覚悟を決めて、椿幸一の言葉を待った。
ん?
待てども待てども、椿幸一の言葉は次がれない。
おかしいな、と思うけれど、手で目隠しをされている以上、状況が分からない。
頼りになるのは耳だけだ。
聞こえるのは雨の音、風の音、それとすぐ近くで聞こえるのはガチガチ? 固いものを細かく振動させてぶつけているような、そんな音。それと、もう一つ。
ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ
腹の底から響く、エンジン音。
「お前……なんで……さっき……たしかに」
先ほどまでとは違う。明らかに怯えを含んだ、椿幸一の声。
目隠しをされていた手が離れる。椿幸一の足が、一歩、また一歩と後ずさる。
けれども、寝転がった背中の方向に、確かに感じるエンジン音。
ここからでは見えないけれど、見えないけれども!?
「ぐっぅうどぅ!! いぃぃいぶにぃぃん!!」
それは確かに風吹の声だった!