Game2 男子高校生連続飛降り事件(貮)
――3月29日――
「連続自殺……ですか?」
さびれた工場跡地に横たわるドラム缶に座って、僕は素っ頓狂な声をあげてしまっていた。
「そう、連続自殺。気にならないか? 今朝もテレビでやってただろ?」
はあ、と、僕は生返事を返した。
もともと僕にはあまりテレビを見る習慣はないのだ。
ましてやこのところ、とてもテレビを見るような余裕が気持ちになかった。
自分のことでいっぱいいっぱいなのに、政治家の汚職や、芸能界のスキャンダルや、ドラマの続きや、世の中の動きなんて手の届かないところを気にするのもおかしな話だ。
人間なんてものは、所詮、自分の手の届く範囲のことしかなんとかできないし、それどころか、自分の手の届く範囲のことだってなんともすることができないことがある。
それなのに、自分の意図が届きもしない世界のことを気にしたって、文字通り気苦労が増えるだけだと、僕は思うのだ。
そこまで考えて、僕は自分をねめつける様な小梅さんの視線に気づき、慌てて言葉を探した。
「あ、ごめ、あ、いや、すみません。あんまりテレビ見ていなくて。差支えなかったら? 差支えたら、だっけ? あ、その、連続自殺の内容、教えてくれませんか?」
そう言った僕の反応に、小梅さんは満足げに白い歯を覗かせた。
「聞きたい? ねえ聞きたい? 教えてあげようか?」
なにを漲ったのか、小梅さんはデンプシーロールよろしく、頭で無限の字をゆっくり描きながら僕に詰め寄ってくる。
僕の顔が映るんじゃないかと思うほど澄んだ右目。
ブサイクなうさぎがフェルトペンで描かれた左目の眼帯。
水色のパーカーについたうさみみ。
短く結んだ二つくくりの髪の毛。
その四つの束をフサフサ揺らして、ニカニカ笑う小梅さんの背中からは赤いランドセルが覗いていた。
「あ、やっぱいいです」
めんどくせぇ。
そう思った僕の頭を、固い衝撃が襲う。
目の前に星が散った気がした。
「オイ、クソガキ。世の中舐め腐ってる学生の分際でよ。この私に逆らってんじゃねえよ。ぷちっと殺すぞ」
いや、だからってなにもリコーダーで頭ブン殴るこたぁないでしょ! うあ、血でてるよコレ。絶対コブになるよコレ。バイオレンスだ、パワハ……。
「パワハラじゃねえよ。お前には嫌がる権利すら与えてねぇ。お前が嫌がらなきゃハラスメントでもなんでもねぇんだよ。わかったか」
……声に出すのは、あえて控えたのに。
そう言えばまだ慣れていないから忘れていたけれど、そうだったなあと、思い直す。
この人には、僕が声に出して言おうが心の中で思おうが、そんなことはおかまいないのだった。
小梅さんは、チッと短く舌打ちをして、般若のような形相から見た目通りの小学生の顔にサッと切り替える。
大魔神か、あんたは。
「ま、話が進まないからいいよ。私は何でも知っているから、今回は特別に教えてあげる、お兄ちゃん」
お兄ちゃんはやめてください。いや、萌えるけど。
「大まかな話の流れはこうさ。志木の北高、知ってるだろ。環状線から道路一本入ったところにある。そうそう、そこさ」
僕も見知っている北高の校門を想像すると、小梅さんは満足げにうなずいた。
「その北高の男子生徒が26日の夜に学校に忍び込んだ。だいたい日付が変わる少し前。
23時45分を回ったころさ。その生徒は10分かけて深夜の学校を徘徊。
そして4階の教室の窓を叩き割って、その部屋から椅子を調達。調達した椅子で非常口の鉄扉を5分かけてたっぷりねぶったあと、非常口の脇にあった窓からダイブ。
背中を激しく強打して死亡。高所からの落下による傷のほかにも外傷があって、手の甲とひじにガラス片が食い込んだ切り傷と、塗料まみれの指の爪が3枚ほどはがれていた」
指の爪、と聞いて、僕は下腹のあたりがキュっと締められるような感覚に襲われる。
それはまあ、さぞかし……。
「痛かったろうね。なんせ剥がれた爪の部分からむき出しの肉が……まあいいや。その次が27日の夜。別の男子生徒が、厳重に封鎖された正面玄関の窓を手にしていた金属バットで徹底的に叩き割ったあと、同じ要領で屋上を封鎖している南京錠をたたき壊して、フェンスでバットを叩き破ったあとに、空いた穴からアイ・キャン・フライ。
そしてその次が昨日の夜。こいつはおもしろいぜ。グラウンドには野球部のボールが敷地の外に出ないよう、外野に緑色のネットが張ってあるだろ。あのネットを張るコンクリの柱によじ登って、そこからスカイハイさ。
発見された男子生徒の遺体の耳には耳栓。その上からヘッドホンをつけて音楽を楽しんでたらしい。さあ、どう思う、桜ちゃん?」
「あの、ちゃんづけはできたらやめてくれませんか?」
ほう、と短く息を吐いて、小梅さんは顎を天に突き上げながら眼帯に隠れていない右目で僕を睨みつけた。
身長は僕のほうが40センチ以上高いのに、まるではしごの上から見下されているかのような威圧感を感じるから不思議だ。
けど、僕にだって引けないときはある。身も心も紛れもなく男の僕は、桜という、いかにも女性らしいこの名前が、大嫌いなのだから。
まあ、素直に話の感想を述べたほうが身の安全のためだと直感がいうので、それに従うことにする。
「結論からいうと、関わりあいになりたくありません」
その答えに、小梅さんは満足げに頷いた。
「いいね。まず結論から述べるのがいいよ。それは社会に出てからのディスカッションなんかでも鉄則だ。そして素直なのもいい。でもなによりいいのが、命が危ういかもしれない選択を選びたくないというその心構えが最高にいいね。
それでいいんだ。危ないことに自分から首を突っ込んで、ろくな目にあった奴を私はいままで見たことがない。桜の答えは正解だよ。本来はな」
小梅さんは、本来、という言葉に妙にアクセントを置いた。
やっぱりそうなんだなぁ、と僕は逃げられそうもない現実に引き戻される。
そりゃあ、まだ自分の目で確かめたことがないことはいくらでも疑うけれど、僕は『月曜日の通り魔』の一件において、間違いなくこの目で、確かめてしまったのだから。
覚悟をきめて、いや、まだまだ覚悟なんてできてはいないけれど、逃げられない以上は立ち向かうしかないのだから、僕はつづけて言葉を紡いだ。
「なら、こう思います。そもそも耳栓の上からヘッドホンの話はどう考えても異常ですよね。
その他の男子生徒の行動も理解不能ですし……。
この一件が集団で統失を起こしちゃうような出来事がその学校で起こったとかでないなら。
たぶん、これはただの勘なんですけれど、その男子高校生連続飛降り事件? は山吹アツシと同じ種類の奴が起こしたんですよね?」
よっと声をあげて自分の腰より高い赤いドラム缶に腰かけ、足を組んだ小梅さんは、小気味よくパチンと指を鳴らした。
「ご名答。まあ、ヒントをくださいと君が駆け込んできて私がこの話をしているわけだから、そうなるのが筋だがね。けれど、たとえそうした状況ではなくニュースでこの話を聞いたとしても、君はもう確信をもっていたはずだ。そうさ、これは“プレイヤー”の仕業だよ」
そうなのだろうか。
そのあたりのことはまだはっきりとは分からない。
それでも、小梅さんのいうとおり、今、確信を持っているのは確かだ。
この連続飛降り事件は間違いなく、あの『月曜日の通り魔事件』と同じ種類の事件で、飛降りはただの自殺じゃない。
たぶん、誰かに。そう、あの山吹アツシと同じ、“プレイヤー”によって。
「さて、それじゃあ私のヒントはここまでさ。あとは自分の力で、自分とフブキの力でがんばりなよ」
そう言って、小梅さんは赤いドラム缶から飛び降り、廃工場の砂地に真っ赤なミニスカートを翻して降り立った。
パンパン、とスカートの裾をはたき、まんま小学生の外見に似合わないしぐさで二つくくりの髪をかきあげると、さっさと背中のランドセルを僕に向けて立ち去ろうとする。
「そのフブキなんですけど、昼間からいなくてですね……まあ、彼女なら全然心配ないと思うので、いっそ僕だけ隠れてるなんてのはどうです?」
僕が冗談交じりでそういうと、小梅さんは端正な横顔だけを向けて、ニカっと八重歯を覗かせた。
「フブキなら、きっともう“ハコ”の気配を嗅ぎつけて動いているさ。勘のいい子だからね。桜も早く追ったほうがいい。何にもできない、何の脳もないあんたにとっては、フブキのそば以上に安全な場所なんてものはないんだから。
それとね、桜。心にもないことは口にしないほうがいいぞ。言霊っていう思想があってね。
言葉には力があるんだ。時には人の運命も変えちまうぐらいにね。
さあ、話はほんとうに終わりだよ。これ以上ヒントはくれてやらない。私は別にあんたの味方じゃないんだ。ただ1ヶ月半も遅れをとってるあんたにも、イーブンな機会があったほうがフェアだと思って少し助けてやってるだけさ。わかったらさっさといきな」
それだけ言い残して、小梅さんは赤黒く錆びついた廃工場の鉄扉を押し開け、隙間から猫のように体をくねらせて去って行った。うさみみつけてるのに。
はぁ、と息をはく。
小梅さんは何でも知ってるんだから、どうせなら相手の“プレイヤー”の家とか、個人情報も教えてくれたらいいのに、と都合のいいことを考えて、やめた。
どんなに頭をこねくりまわしても、理屈で小梅さんに勝てる気はしない。
よっこらせとドラム缶から飛び降りた僕は、気乗りしないまま廃工場を後にする。
とにかくあいつを、風吹を探さないと始まらない。
――――それはともかくとして、ひるがえった赤のスカートから覗く三角は、黒だったなあとか考えながら、僕は足を北高へと向けた。
◆
夕焼けの赤に乗って響いてきた放課後を告げるチャイムの音は、懐かしいようなくすぐったいような、ノスタルジックな気持ちと同時に、もう戻りたいと思ってもあの頃には戻れないんだなあなんて老けた感慨を呼び起こす。
自分が高校生のときには一体どんな気持ちでいたっけ。
あの頃にはもう、今と変わらないくらい背丈が伸びて、肩幅もすっかり広くなっていた。
大人の体と、未成熟な心。
両者の乖離は、なにをどう頑張ったってかみ合わなくて。
かみあわない体と気持ちは苛立ちに変わって、その苛立ちを何かにぶつけたくて、部活であったり、勉学であったり、恋愛だったり、趣味だったりに没頭する。
高校生っていうのは、そんな時期だった気がする。
それも今となってようやく分かることだが。
そんな風に老けた考えを巡らせながら、校門から程ない距離のコンビニで立ち読みにふけっていると、パラパラと下校途中の学生が目につくようになった。
それじゃあ動くかなあと、僕は雑誌を棚に戻し、わざわざ家に戻って着替えてきたスーツの襟をビシっと正した。
夕焼けが赤々と輝きながら、環状線の向こうの山間に沈みだした頃、北高の校門前には、おしゃべりに興じながら帰路へつく学生が散在していた。
こうして久々に目にしてみると、やはり高校生というのは若い。
髪を染めていたり、制服を着崩していたりする生徒が散見するものの、おそらく校則によるものだろう、男子の髪は黒で耳に掛からない程度の長さ、女子は化粧気がうすい。
まだまだニキビが引かない顔も、若さの象徴だなあ、なんてしみじみ思う。
大学のキャンパスにだって若さがないとは到底いえないが、それにしたって高校生との間には、埋められない谷がある。
何せ彼らのほとんどからは、酒の匂いもたばこの匂いもしないのだから。
と、どうでもいいことに頭を巡らせながらも、僕は話を聞けそうな学生を適当に見繕っていた。
あえて話を聞きやすそうな学生を見つけやすい校門に張ってみたものの、あまり時間をかければ不審に思われるだろう。
先ほどコンビニからも、黒いセダンが校門に入っていくのが見えていた。
もちろん、三件も連続して飛降りがあったのだから、警察の聞き込みが既に入っているのだろう。
この際だからもはや警察に任せてしまいたいが、この事件が“プレイヤー”によるものであるなら、警察にはなにもできやしない。
かといって、僕なら何かできるのかといえばそれも甚だ疑問だが。
少なくとも彼女なら。
風吹ならなんとかすることができるだろう。
肝心の風吹はというと、どこを探したって見つからなかった。
せめて携帯ぐらい持ってほしい。原始人かよ。
昨日の今日でつくづく思うが、僕の安全地帯はとにかくあっちこっちに動き回るのだから困ったものだ。
その安全地帯を離れたまま、事件の渦中にある危険地帯に踏み入ったことは、そりゃあ無謀で無策で向こう見ずな行動だと自覚はしているんだけれども、僕には確信があった。
風吹はすでにこの近くに来ている。
それは勘とも呼ぶべき、なんとも頼りない感覚なのだけれど、小梅さんによればそれは“ハコ”の力によるものだ。
僕自身、未だ理解できているわけではないのだけれど、とにかく僕らは引き合う。
感覚でいうならば、今この瞬間も感じている『風吹』はここに来ているという感覚こそ、“ハコ”の力によるものなんだろう。
もちろん、それは風吹も感じているはずなんだから、早く僕と合流してくれればいいものを、と内心舌打ちしたくなる。
ほんと、いつだって僕のそばにいてくれよ、僕の安全地帯。
そうこう考えているうちに、そろそろ帰宅途中の学生がまばらになってきた。
校門から右手のグラウンドに部活生たちをチラホラと見かけるようになる。
各々が短いダッシュをしたり、体をほぐしたりとウォーミングアップに勤しんでいた。
頃合いかな、と考え僕は改めてスーツの襟を直した。
情報収集なら、群れて帰っている子たちに聞いたほうが、おそらく効率がいい。
帰宅部の彼ら彼女らには、部活のように真剣に打ち込めるものがない分だけ、噂のような流行りのものに敏感に食いつく傾向がつよい。
けれどその分、彼らの頻繁に行われるコミュニケーションは、僕にとって脅威だ。
何かの拍子に、校門で僕のような若い男に事件の事情を聞かれたことなんかが教員の耳に入り、そこから警察が僕にたどりついたりしたら目も当てられないというものだ。
したがって、効率は多少落ちるかもしれないが、放課後に一人で帰ってしまう気弱そうな生徒が望ましい。
我ながら犯罪者か、とつっこみたくなる。
卑怯さがにじみ出るような考え方ではあるが、今の僕に大切なのは、きっちり自分の身の安全を確保した上で前に歩を進めることなんだ。
そろそろめぼしい子が出てくるころかなと、僕は校門の影から、敷地内をのぞき込む。
ちょうど、校門に向かってとぼとぼと、こちらに向かって歩いてくる男子生徒が目についた。
他の生徒と同じ学生かばんは持たず、黒いリュックサックを背負っている。
真面目な子なんだろう、北高指定の紺のブレザーから覗く襟元にはきっちりと締められた赤いネクタイ。
帰宅部の生徒たちには多くみられたダボついたズボンとは対照的に、ストレートにすっと伸びるズボン。
小柄な男の子だなあ、と思った。
身長はだいたい160センチくらいだろうか。髪は坊主頭からそのままのばしたようなミディアム。
日焼けしてはいるものの、大きな眼に添えられた長いまつげと、女性的にぷっくりとした唇。
骨ばっていない頬に、細い眉根。
遠目に見れば、女の子にだって見えるだろう。
美少年ってこういう子のことをいうんだろうなあなんて、考えたところで、いや、僕はそっちの趣味ねーし、と誰に向けたわけでもない自己弁論。
僕は自分の横を通り抜ける彼の前に、すっと体を入れた。
「え……? あの、なんですか?」
びっくりするほど高い声だった。まだ声変わりを迎えていないんだろうな、と思う。
ほとんどの男性は中学生のころには声変わりを迎えるものだが、なかには彼のように、遅い声変わりを迎える者もいるんだろう。
僕は、すかさず胸ポケットから手帳の角をつまみ、4分の1も取りださないうちに「お時間をとってしまって申し訳ないんだけれど、僕は志木警察の川村です」と告げ、すばやく手帳をポケットにしまった。
もちろん、手帳はただの黒革の手帳で、僕は警察ではない。ついでに名前も偽名。
「あ、警察……」
そうつぶやくと、彼は不安そうに僕の顔を覗き込んだ。
よし、第一関門クリア……!
不安の色は見て取れるけれど、誰だって警察に突然声をかけられてドキっとしないやつはいない。
「ああ、不安がらなくても大丈夫。ほら、この学校このところ物騒だろう? それでちょっと事情の聞き込みをしているんだ。今日もうちの者が学校に行ったと思うんだけど、ほら、やっぱり先生の目があるなかじゃあ、話しにくいことだってあるだろ。それでこうやって何人かに個別に聞き込みをしているのさ」
“嘘”をつくときは、“本当”を70%ほど混ぜてやるのが、黄金比率だと大学の講義を聞き流していたのを思い出しながら、僕は言葉を紡いだ。
我ながらペラペラと、よくもまあ。
けれど、その黄金比率が功を奏したのか、不安に淀んでいた彼の表情が和らいでいく。
彼はあの……と、言いかけ、そしてまた、俯いてしまった。
「えっと……何か知っていることがあるなら、教えてくれないか?」
僕は、猫なで声にならない程度に、なるべく優しい響きで、彼に語りかけた。
俯いた彼に対してたたみかけるように質問することはせず、じっと待つ。
そして、
「次はたぶん、ヨシノ先輩だと思います」
と、彼はそう言った。
◆
そろそろ日も完全に沈もうかという頃、僕と、名前を幸一といった彼は、学校からあまり距離のないファミレスに座っていた。
どうやら一撃で“当たり”を引いたらしい僕は、自分の引きの強さを利用して小金を稼げやしないものかなんて考えていたくらいだ。
どうにも話が長くなりそうだし、あのまま校門前にいたんじゃあ、僕が本物の警察に怪しまれてしまう。
警察を名乗った以上後ろ暗いところがないわけではないが、僕だって自分のためとはいえ、事件の解決のために動いているのだから、それで捕まったのでは納得がいかない。
そうして僕と幸一は場所を移そうと、近場のファミレスを選んだ。
正面に座る幸一は、こうして近くでみるとやはり小柄で、まばたきをするたびに長いまつげの下から少し茶色がかったつぶらな瞳が覗く。
女装させれば、どこからどうみても完全に美少女だろう。
でもウィッグとかいるかな……あ、いや、だから僕はそっちの気はだな……。
「あの、刑事さん?」
僕のヨコシマな視線に気付かれたのだろうか、幸一は小太りのウェイトレスが運んできたコーヒーに手もつけないまま、僕の顔を上目づかいに覗き込んでいた。
「ああ、ごめんごめん、幸一君。ちょっとここのところ忙しくて疲れていてね。
それじゃあ、気を取り直して、もう少し君の話を詳しく聞かせてくれないかな?」
ここのところ忙しくて疲れているのは、本当だ。
「あ、えっと……」
「まず、そのヨシノ先輩? がどうして次に狙われるって君は思うんだい?」
僕の言葉に、幸一は一瞬、顔色を曇らせた気がした。
ほんの一瞬の出来ことで、気のせいだったようにも思う。
「その、少し長くなるんですけれど……。自殺しちゃったサトウ先輩と、コンドウ君、イノウエ君それにヨシノ先輩は、みんな野球部なんです。あ、刑事さんなんだからそれはもう知ってますよね」
僕は、つづけて、と幸一に促した。みんな野球部なんだ。知らなかった。
「それで、その四人は、みんな一人の野球部員をいじめてたんです。
そのいじめられていた野球部員っていうのは、ツバキっていう名字なんですけど。
あ、そうです、木に春で椿です」
僕がメモ帳に書いた字を見て、幸一はうなずいた。
「僕はこの通り体が小さいんですけど、椿も同じように体が小さいんです。
でも、椿は中学の時からすごく有名な志木シニアリーグで、中盤3回を完璧に抑える中継ぎのエースを務めてたんです。体が小さい分スタミナや球速は劣るんだけれど、鋭い変化球とコーナーをつくコントロールで、シニア時代は攻略できる選手がいないっていう触れ込みだったんですよ」
僕は志木の生まれではないし、そんなに野球に詳しいわけではないけれど、志木のシニアリーグなら僕だってというか、志木に住む者ならだいたい知っている。
なにせ志木シニアリーグは、全国大会V5という偉業をなしとげ、真紅の優勝旗を手放さないチームとして有名だからだ。
そこで僕は少し首をかしげ、口をはさんだ。
「椿君は、どうして志木の中継ぎエースだったのに、北高の野球部に?」
北高の野球部といえば、はっきりいって弱小の部類なんじゃないかと思う。
全国的に有名な志木シニアの、しかも中継ぎエースともなればもっと強豪と呼ばれるような学校からも、引く手数多だったんじゃないだろうか。
幸一は俯いて、ひとつひとつ慎重に言葉を選ぶように、ポツポツと話しだした。
「これ、俺が言っていいのかわからないけど、椿は、お父さんを早くに亡くして、お母さんと二人暮らしだったんです。
でも、椿のお母さん、去年の冬に急に倒れたんです。椿はもう、そのときO県の高校に推薦入学が決まってたんですけれど、椿の家にはあんまりお金がなくて。椿のお母さんは、なんか難しい病気で、手術には結構お金が必要だったらしいです。
椿の家にはお母さんの手術を受けれるぐらいのお金はあったんですけど、それを使っちゃうととても椿がO県で暮らしていけるだけのお金は残らなかったんです。
それで、椿は急遽O県の高校への入学を諦めて、必死で勉強して、公立の北高受験に切り替えたんです。そこまでは、椿だって別に納得してたんです」
そこまで言って、幸一は言葉を飲み込んだ。僕が奢ったコーヒーに手をつけ、一口すする。
その手は、震えていた。
「ごめんなさい。おれ、椿のことはよく知ってるから、話を思い出したらなんか悔しくて。
続けますね。お母さんの手術が成功して、椿は北高に合格しました。椿は北高に入ったとき、迷わず野球部に入りました。北高の練習はそんなにハードじゃないんで、バイトなんかもちょくちょく入れて生活費の助けにしながら、学校と、バイトと、お母さんの病院とを必死で回してたらしいんです。
でも、そんな生活に疲れちゃってたんだと思います。北高の練習は、椿にとってとても満足できるものじゃあなくて、その、なんていうのかな。すごくぬるかったんです。
平気で遅刻、練習は適当、監督にはタメ口、終いには練習に飽きてサッカーをはじめるぐらい。
ある日椿はついにキレて、野球部全員に不満を吐いたんですよ。その次の日から、椿へのいじめが始まりました」
僕はメモをとりながら、よくある話だな、と思った。
人と水は、低いほうに流れてしまう。
より楽なほうへ、楽なほうへ。
それ自体は間違ったこととは言い切れない。
人はいつだって、より楽になることを考えて文明を発展させてきたのだから。
けれど、単なる怠惰で低く低く流れている集団の中に、その流れに逆らおう者があらわれたとき。
人は、自分たちと同じように下流に流れない者に対して、劣等感や妬みを覚える生き物なんだ。
「椿へのいじめは、下駄箱の靴を隠すようなかわいいものから、だんだんエスカレートしていきました。
教科書は落書きでまともに読めるページがなくなりました。
靴は隠されることはなくなったけど、スリッパとしても使えないくらいにズタズタに引き裂かれました。
筆記用具が全部壊されて、椅子に座ったら切り込みの入ったパイプが折れました。
それだけなら、椿はまだ我慢してたんです。椿には大好きな野球があったから」
椿君のことを語る幸一の眼には、いつしか涙が浮かんでいた。
「でも、事件が起きました。ある日椿が部室に行ったら、椿のロッカーが荒らされてたんです。
普段椿は道具一式持って帰るんですけど、その日は学生かばんをズタズタに引き裂かれていたから、教科書を抱えて帰らないといけなくて、野球道具を置いて帰ったんです。
でも不安になった椿は、家に帰ってからもう一度学校に戻ったそうです。
それで、椿が部室で見たのは、自分のグローブを釘とカッターナイフでぐしゃぐしゃに刻みながら、ケラケラ笑い声をあげるサトウ先輩と、コンドウ君と、イノウエ君、それにヨシノ先輩だったんです。
そのグローブは、椿が高校入学のお祝いに、入院中のお母さんからプレゼントされた大事なものでした。
椿は、キレちゃったんです。4人相手に殴りかかって、散々もみ合った結果、バットで利き腕の肘をぐしゃぐしゃに殴られました。秋のことです。
椿を殴った4人は無期停学。それで、肘を殴られた椿は怪我が治った後も、もう野球をできない体になっちゃったんです」
僕は、すっかりぬるくなったコーヒーをすすった。
他人は、他人の痛みを知ることなんてできやしないとつくずく思う。
椿がいろいろな気持ちを封じ込めながら、必死で働いて稼いだ金で買ったものを、4人はやすやすと奪っていった。
それどころか、目の前の幸一と変わらない小柄な体格で、シニアの中継ぎエースとして活躍したというからには、通常では考えられないような努力を費やしただろう野球をも、彼らは下卑た笑いを浮かべながら奪い去っていったんだと想像する。
考えただけで、はらわたが煮えくりかえりそうだった。
テーブルをひっくり返してしまいそうな怒りを抑えながら、今にも泣き出しそうな幸一に対して、僕は言葉を紡ぐ。
「それで、その4人のうち、サトウ君とコンドウ君、それにイノウエ君は、この間の事件で亡くなったんだね」
幸一はうなずいて、涙をぬぐい、カップを手に取った。
「4人は、この春から停学から復帰することになったんです。
なんでもコンドウ君のお父さんが偉い議員さんらしくて、それでだって、クラスでも噂になってました」
なるほど、と僕はメモをとりながらうなずいた。
被害者の関係性は完全に把握。と、いうことはまず間違いなく“プレイヤー”は、
「ところで椿くんは今どこに?」
僕がそう聞くと、幸一はやっぱり、と言わんばかりに目を伏せた。
「椿のこと、疑ってるんですよね。あ、いや、いいんです。
俺もやっぱりそうだよなって気持ちですから。椿なら今はたぶんバイトです。
学校には来てるんですけど、野球部は辞めちゃって。
でも、別の刑事さん椿に一度話聞いてますよね? 椿には事故のとき、バイトに入ってたってアリバイがあったんでしょ?」
いや、僕は刑事じゃないからそれは知らないけどね。
幸一のまっすぐで澄んだ瞳を向けられると、素直にそれをゲロってしまいたいところだが、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「いや、参考までにだよ。長い間話してくれて、ありがとう、幸一君。
最後に知ってたらでいいんだけどヨシノ君だっけ? その子の家教えてくれるかな?」
僕はスマートフォンの地図アプリを起動し、幸一にヨシノ君の家を指さしてもらう。
すっかりぬるくなったコーヒーを飲みほし、会計に立った。
外はもうすっかり暗くなっていた。
「暗くなったし、送ろうか?」
僕は幸一にそう声をかける。
もちろん幸一が美少年だからという断じてやましい気持ちからではない。
「いえ、大丈夫です。それにしても一日で三回も同じ話をすると、なんだか疲れちゃいますね」
そっか……と流そうとして、引っかかった。
「三回?」
ええ、と幸一がうなずく。
「一回目は学校で刑事さんに。三回目もたった今刑事さんに。二回目は、なんて説明したらいいんだろう。
薄いピンクの革のジャケット? 着てて、パッツンっていうんですか?
こう、キノコみたいな頭のメガネのお姉さんにです。ちょっと? いや随分変わってたけどすっごい美人でしたよ。
大きな楽器ケースみたいなの持ってました」
……あのバカはなにやってんだ。
幸一の話を聞くのに真剣ですっかり忘れていたが、それは間違いなく風吹だ。
「そりゃあ、災難だったね。
そのお姉さんのことも調べておくよ。なにかされたりしなかった?」
幸一は、ハハ……と力なく笑う。
「ちょっと胸倉つかまれたぐらいですよ」
……あのバカ……。