夢見るジキル
「どうして殺したんだ」
男が呟くように言った。その一言を口にした途端に、言葉の重みが改めて現実味を帯び、男は緊張に渇いていく唇を苦々しく舌で湿らせた。背後に刑務官が佇む部屋で、男は視線を逸らしたまま、ガラス越しに座る友人の表情を窺おうともしなかった。
友人は細身で、中性的というよりもむしろ性などないような風貌をしていた。学生時代から優秀で教師の覚えもめでたく、人望も厚く、飄々とした風情でありながらしっかりとした意志を持っていた。お互い社会人になり、昔ほどには連絡を取らなくなった今でも、変わらず要領よく日々を過ごしているのだと信じていた。一抹の不安を覚えながらもそれを望んだのだ。
友人が僅かに小首を傾げて微笑んだ。だが、視線を逸らしたままの男はそれに気付かなかった。
「どうして誰もが同じように聞くんだろうな」
友人が言った。声には悲愴感ひとつ感じられなかった。まるでカードゲームのあとのような気軽さだった。男はぼんやりとした苛立ちを覚えた。彼はよくこういった物言いをした。核心には触れずに話を逸らしていく。堂々と平然と、彼はいつも人の心中になどかまわず話を掻き回すのだ。
「殺人の理由は? 理由、理由、理由。人一人殺せるほどの感情の裏に、たったひとつの明確な理由があるんだろうか」
彼の言葉に、男は酷く嫌な匂いを感じた。病の匂いに似ていた。友人はどこかが異様に渇いて壊れているのだ。見ないふりをした。男は視線を落とした。彼がそれをぼんやりと見つめた。
「暴力の理由が怒りなら、これの理由もそうなんだろう」
彼は男に答えを与えようとするかのように、気遣い、言った。だが、それは男が望む答えではないということを彼は知っているのだろうか。
分からないのだろう。彼の感情は封印されたように彼の中で淀んでいる。男は半ばどうしようもない虚無感を覚えた。
表の強い日差しが窓から差し込み、ふたりを小さく照らした。信じられなかった。こうして冷たい部屋で向き合うことが。なぜここにいるのだろうか。三か月前には明るい太陽の下で笑いながら対面したものを。不穏な気配は何一つ感じられなかった。また自分は気付かなかったのだろうか。
友人の手によって殺されたのは、自分の勤める大手企業の同僚だった。半年ほど前に何かの折りに紹介した。その後も幾度か引き合わせる機会はあった。
だが、自分は二人の何を見ていたのだろうか。彼が同僚を殺さなければならないほどの、彼らの接点にさえ気付かなかった。
「弁護士、まだ変えられるんだろ? 有能な弁護士を探すよ……」
言いたいことは他にいくらでもあるだろうと思いながらも、言葉に詰まって男は言った。白昼堂々行われた殺人だが、友人が何の理由も目的もなく、他人の未来を奪い去る人間には思えなかった。
彼は男の言葉にひそりと笑った。
「どうでもいいことだ。無駄金は使うな。どうせ職も失う」
男はようやく顔を上げて彼を見た。彼の穏やかな微笑を目の当たりにし、男は僅かに眉をひそめ、憎々しく吐き捨てた。
「おまえは病気だ」
「ああ」
答えながら、彼はゆっくりと頬に浮かべていた微笑を苦笑に変えた。
「自分の中にどうしようもない感情の吹き溜まりがある。おまえはそれを病気だと言うんだろう。だけどそれが人に害をなしたら犯罪だ」
聞きながら苛立ったように堅い床をカツカツと踵で蹴る男の靴音は意に介さず、彼は静かに言葉を繋いだ。
「どんな理由があろうと犯罪だ」
男は唇を噛んだ。こうまで冷静に自分の犯罪を犯罪だと語ることができるのなら、どうして彼はあの男を殺したのだろうか。それ以前に制御することが叶わなかったのだろうか。この美しい青年の中身が、時折酷く醜く歪んでいるのが分かる。
男がその、歪で儚い友人を見つめると、友人は顔を上げ、いつもと同じ微笑を向けた。
「もういい。もう帰れ」
やんわりと、友人は男を拒絶した。数週間前、群衆の中で残虐に狂ったように人ひとり殺した人間には思えなかった。これ以上ここにいても、友人からは、何一つ明確な理由など聞き出せないのだろう。
男は小さな溜息とともにぼんやりと視線を落とした。緩慢な動作で立ち上がる。視界の端で、友人の表情に一瞬の躊躇いが浮かぶ。なんとはなしにそれを捉えかけたが、その意味を形作るいとまもなく、いつもの不遜な笑みに掻き消された。諦めに似た心境で背を向ける。その不安定な世界から閉め出された。
「職場の人間には手を出すな」
苦笑とも、皮肉とも取れない気楽な口調で友人は言った。男の背に、その乾いた声がかかる。男は振り返って友人を見た。彼は笑っていた。無性に腹立たしくなるような笑顔だった。痺れるような思考が脳を焼き、男はガラスに手を押し当てた。
指に触れたガラスは冷たかった。男の形相に、彼はほんの少し目を瞠っていた。
「だからか……!」
男は言った。声は低く呻くように喉の奥から迸った。男は友人の瞳が僅かに陰ったのを見過ごさなかった。
「まさかと思った……何を言われた……? そんなことでおまえは……!」
親しくしていたはずの死んだ同僚に、強請られ始めたのはいつだったか。不用意に後輩に手を出したばかりに、同性にしか興味を抱けない自分の性的志向を知られた。面白おかしく吹聴されそうになり、口止め料として同僚にいくら支払っただろう。それなりに高給取りで、事なかれ主義で無駄に注目を集めたくなくて、言われるまま金を渡した。我慢できた。だが、それによって友人の将来を奪うとは考えもしなかった。
「ばかだろ……俺のためか……? 俺がなんとでもしたのに……!」
男の声に眉を顰め、友人は一瞬刑務官へ視線をやった。すぐに視線を外して俯き、小さな舌打ちを零す。
「……おまえがこんなことするなんてな」
呆れたように呟いてから、振り切るように、強いまなざしで男を見据えた。
「……たかがそんな理由で人一人殺せると思うのか。おまえのためなんかであるもんか」
ガラスの向こうで、彼は静かに、けれど決然と口を開いた。
「殺してかまわない人間なんていない。なのに俺は殺した。発端は確かに怒りだったのかもしれない。刃物を突き立てるたびに奇妙な感触が伝わった。あの男の筋肉が妙な具合で動いていく。人の中に血と肉があるのを知った。頭が痺れた」
くっく、と彼の喉から噛み殺したような、無気力な笑いが漏れた。
「脳のどこかが冷めていくのに、抑えたいとは思わなかった。これがおまえに分かるだろうか。痺れていった。無性に。この高揚を持続させたい。解放されていく。意識が飛びそうで現実感が薄れた。あんな感覚は初めてだ。……罪の意識よりも快楽に満たされた」
恍惚と語った直後に、彼は両手で顔を覆った。細い指先は震えていた。
「終わったあとで知った。怒りだけじゃない」
残虐な感情を語りながら、彼は恐怖に埋もれていくようだった。清潔な顔の下で彼は醜く弱く、ひび割れて溢れている。きっかけひとつで制御できなくなるほどに。
男はそれを見つめた。思考を巡らせた。弱い人だった。弱さは正当な理由にならない。何が彼にとって最善なのか。分からなかった。自分に何が出来るのかも。男は焦ったように、口早に言った。
「公判で証言する、何もかも洗いざらい、」
その言葉に顔を上げ、彼は真剣な男の眼差しを見返した。頼りない瞳を浮かべながらも、やがてからかうように笑う。
「俺は計画通りやった。利己的に殺した。誰のためでもなく自分のために。だから何もするな。型通り進めばいい」
男は苛立ちながら、再び革靴で床を踏み鳴らした。
「おまえはおかしいよ……」
必死で告げた男の前で、彼は穏やかに笑った。
「あれは欲望だ。罪は償う。だから忘れろ」
「馬鹿なこと言うな、忘れられるわけがない」
「ああ。でも、忘れろ」
「忘れられるわけがない、知ってるはずだ、ずっと好きだった」
思わず口に出すと、彼はそれを静かな視線で受け取った。
「……その言葉で、関係が変わることが怖かったよ」
彼はそう言いながら話を打ち切るように立ち上がった。その平然とした姿には、少しの悔恨も残されていないように見えた。
「でも、今は嬉しいもんだ。それだけ憶えていてくれればいい」
時間を告げる刑務官に目配せし、彼はそのまま部屋をあとにした。
男は力なく床を見下ろした。黒い革靴の爪先が汚れていた。友人の言葉をひとつひとつ反芻した。幼くやわらかい、無防備な彼の中身は、ほんのすこしのきっかけで難なく彼自身を打ち壊す。びくびくと、その瓦解を恐れて気持ちを伝えなかった。長い間お互い無言で暗い気配を見守っていた気がする。
拘置所をあとにした。彼の実家に問い合わせれば弁護人に連絡を付けられるだろう。話をしようと考えた。法が裁くのならばすべてを話して裁けばいいと願った。それが正義であるかどうかは分からない。ただ、少なくとも彼自身が自分を裁くよりは公正ではないか。
引き留めたくなる。身勝手な話だった。この世界に引き留めてどうするというのか。きっといまも過去もこの先も、彼は安らかに眠ることなどできないというのに。
それでも自分はいつかを願って彼を引き留め続けるのだろう。
そう思いながら、男は強い日差しの下を歩いた。アスファルトに揺れる自分の影を見下ろした。
了




