第89話 抱きしめた、その意味を
兄は私を守るように、そっと、けれど確かに抱き寄せてくれる。
どういうつもり?
そんなふうに優しくしないで。
なんで、そんなことするの……。
動悸に抗いながら、必死に考えようとする。
けれど、思考はまとまらない。
ドッドッドッ――
胸の奥で、激しく脈打つ鼓動。
そして、最後に大きな波が押し寄せた。
「……っ」
やがて、鼓動は少しずつ静かになっていく。
「……唯」
兄が、私の名をそっと呼んだ。
その響きが胸の奥をかすめ、熱を残していく。
次の瞬間、兄の腕に力がこもる。
ぎゅっと抱きしめられた。
そのぬくもりに包まれながら、私はようやく感覚を取り戻していく。
ふと気づけば、兄の顔がすぐ傍にあった。
それだけで心臓が壊れそうな音を立てる。
しかも、抱きしめられている感触が、はっきりと――
「お、お兄ちゃんっ……」
恥ずかしくなって体をよじると、兄がはっとしたように顔を上げ、私を離した。
「よ、よかったな……戻って。
いきなり発作とかほんと驚くから。でも、俺が一緒でよかった」
早口で、どこか取り繕うように話す兄。
目を合わせようとはせず、顔をそらしている。
――でも、さっきの兄の表情。
私を抱きしめていたとき、どこか苦しそうだった。
お兄ちゃん、最近私を避けていたのは……やっぱりわざと?
加奈さんが言ってたように、私を嫌いになったわけじゃなくて。
流斗さんと私の邪魔をしたくなかったから?
それとも、別の理由があるの?
わからない。ちゃんと教えてくれなきゃ。
黙ったまま兄を見つめていると、兄は無言で手を差し出してきた。
座ったままだった私をそっと立たせる。
そして、一瞬だけ見つめてきたかと思えば、すぐ視線を逸らし笑った。
「さ、唯は帰れよ。
唯はもう家に帰ったことになってるから、ここにいるとマズいだろ。
流斗には俺から言っておく。羽鳥さんにも適当に言っとくから」
「……え、あ、うん」
一見、穏やかなやり取り。
だけど、その言葉の奥に拒絶を感じた。
さっき近づいたはずの心の距離が、また遠ざかっていく――
私はそれ以上何も言えなかった。
言葉を交わさないまま、静かに校舎を出る。
校門へ向かう途中、ふと振り返ると兄の背中が見えた。
グラウンドへ向かう背中は、どこか寂しそうで。
――こっちを振り向いてくれないかな。
そう願ったけれど、その背は最後まで振り返らなかった。




